2006/03/28 火曜日

貨幣論-今村仁司,岩井克人,ボードリヤール

Filed under: 読書 — 咲本 @ 23:54:32

以前の日記で内田樹の浅薄な話を今村理論をふまえて指摘したが、よく似た?ところでは貨幣論についてもいえるかもしれない。

「似た?」というのは、例えばジャック・デリダ風にすべては「差異のたわむれ」なんていいながらも、現代社会を相対化できないズブズブの眼差しで軽薄に語っていそうな学者が標題中に混じっているのかも?ということ。

相対化できないズブズブの眼差しとは、アルカイックな社会では普遍的であった認識を、たかだか100年そこらしか経っていない近代的な認識に毒された我々の認識からは想像しにくかったり、普段使用する言葉の概念としっくりこないという理由によって、毒されたまんまの常識的感覚から認識していく眼差しを指している。

簡単にいうと、交易は物々交換から始まったとの誤った認識や、「経済は、同時に一挙に、政治的であり、法/権利的であり、宗教的儀式的であり、感情的審美的」でもある社会の様相というのが理解できないということ。

標題の中では誰が浅薄な話となりそうか?

まだ読んでいないので何ともいえないが、コテコテに毒された議論をしていそうなのが、おそらく岩井克人。

貨幣論『貨幣論』

一方、『交易する人間』を読んで再評価してしまった今村氏はどんな理論展開をするのだろうか?

『貨幣とは何だろうか』

それに加えて、今村氏も過去に翻訳したであろうボードリヤールの新刊での議論を交えるとどんなことになるだろうか?

不可能な交換 『不可能な交換』


近未来的なところに話が及び一見軽そうなボードリヤールと今村氏との理論の関係性。
一方で根本的にうわすべっていそうな岩井氏。。。

なぜ岩井氏をそのように予想してしまうのかというと、20年近く前に読んだ『ヴェニスの商人の資本論』

ヴェニスの商人の資本論

岩井氏は東大経済学部教授という秀才であるとはいえ、結局のところマルクスの読み込みをベースにするところから脱してはいないのではなかろうか、それが岩井理論の限界ではなかろうかと予想する。

マルクスの価値形態論に注目して、それをマルクスにおける唯一の「可能性の中心」だとしたのは柄谷行人である。
岩井氏は柄谷行人『マルクスその可能性の中心』が出て以来、その論考の鋭さからマルクスを取り扱う際にはおそらく重要文献として参照せざるを得ないだろうが、やらなくてもよい苦労ばかりを重ねて理屈をこね続けなければならず、そのくせ「経済は、同時に一挙に、政治的であり、法/権利的であり、宗教的儀式的であり、感情的審美的」でもある社会の様相までは説明しきれないところで踏みとどまってしまうことにはならないか?

ここがいわゆる秀才の限界なのかもしれない。
なぜなら、いまさらマルクスなんてベースにしなくてもよいのにまるでマルクスを研究することこそ「経済理論学者」であると言いたげに理論的支柱にしようとする。
本当ならマルクスなんておかまいなしに、例えば今村氏のようにマルセル・モースやジョルジュ・バタイユの扱う非市場社会論にまで遡及したところから論ずればよいのに、そうしたくないのか、理屈をこねるわりには結論的には浅薄なところで終わってしまうということになるのであった。

『ヴェニスの商人の資本論』とは、マルクスのテクスト読解だけでなく、柄谷行人のような文芸批評家も参考にしてヴィトゲンシュタインや記号論なんていう分野も参考にしていますよとポーズを付けたことを示した書名である。
あくまでも『貨幣論』についてはまだ読みもしていないので何ともいえないが、私の予感が的中せずに理論的深化のある書であるこに少しだけ期待したい。

それにしても、どんどん本業と離れていきそうな読書の関心事となっていきそうなのが我ながら怖い(^^;

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