沈黙交易とネット社会と内田樹(2)
内田樹の『死と身体―コミュニケーションの磁場』
を取り寄せていたのが到着したので、
今村仁司の『交易する人間(ホモ・コムニカンス)ー贈与と交換の人間学』
に共感したばかりの私は、早速、思想的に両者の依って立つ立場を比較してみた。
内田樹については、私が以前から問題提起をしていたアイデアをある意味無断でパクっているかもしれないから、今回お金を出して彼の本を買ってあげた次第(^^;
このあたりの経緯はこちらの日記→沈黙交易とネット社会と内田樹(1)
で内田氏の本は5分ほど読むと、全てを読まなくしてもう大体のところはわかった。
内田氏はコミュニケーションを「レヴィ=ストロース的交換一元論」でしか捉えていないのだということだ。
これに対し今村氏は、マルセル・モースの「贈与論」の序文でモース批判を行ったレヴィ=ストロースを、社会生活のあり方を構造主義的交換一元論だけで説明できるものではないことを明らかにするために、マルセル・モースがこだわった人間の原初的相互行為についての研究に立ち返って浮き彫りにさせようとしたのであった。
今村氏はいう。
レヴィ=ストロース的交換一元論は本当に、相互行為の全体の事態を汲み尽くしているだろうか。
仔細に見れば、この交換一元論は、もっぱら人と人との関係にだけ注目しているにすぎない。相互行為はけっして人間と人間の関係だけに還元されるのではない。たとえば人間は、神々とも相互行為をおこなうし、この種の相互行為は歴史的現象としては圧倒的に多いのである。記号やシンボルの交換はたしかに人間と人間(個人であれ集団であれ) の間で起きる。しかし人間は記号とシンボルだけで生きるのではなくて、神々や自然との相互行為を想像的に生き抜いてきたし、いまもなおそうしている。この論点は決定的に重要であるから、いずれ後でも検討するであろうが、想像的相互行為の厳然たる実在性をけっして忘れてはならないことをここで指摘しておきたい。
だからこのあと今村氏は贈与についての解明に入っていく。
つまりは、「贈与>交換」という図式が成立するのであって、人間の原初的行為たる贈与の解明なくして交換論だけで突破しようとすると、必ずうわすべる。
そもそもレヴィナスの研究者でちょこっとフランス現代思想と映画が好きな内田氏が、レヴィ=ストロース的交換一元論の立場から、「沈黙交易」なる交易の初原的制度とでもいうべきものをなぜ持ちだそうとしたのか、不自然極まりない。
そんな内田氏が沈黙交易を語るとは一見鋭そうには見えつつも、フタをあけてみるとなんてことはない。
以下のように、呑み屋さんでのおもしろトークの延長みたいなものだ(^^;
沈黙交易の起源において、交換当事者のあいだに、交換されるものの価値や有用性についての共通認識があったはずはありません。だって、見たことも触ったこともないものが置いてあるわけですから。
「これはいったい何なのだろう。よくわかんないなあ。でも、とりあえず持っていくことにして、代わりになんでもいいから置いておこう」というように、沈黙交易は始まったはずなんです。
このように、贈与から由来する異人との沈黙交易というものについての基本的認識が全く欠けており、おそらく受験の暗記物のように沈黙交易という単語を聞いたことがあるといったレベルなんだと思われる。
そして、
どうして交換するかというと、とりあえず交換が成立するとなんだか「愉しい」からです。人間には交換という行為それ自体に強い愉悦を感じる能力が備わっている。その能力こそが人間の人間性を基礎づけている、ぼくはそういうふうに考えています。そして、ここで大事なことは、声も聞かない、姿も見えないものとも交換ができたという事実です。(中略)
ケータイでのメールのやりとりなんて、まさに沈黙交易そのものなんですから。姿は見えない、文字が見えるけれど、それもさまざまな絵文字とか符号を使って、わざとわかりにくく書いてある。(中略)彼女たちにしてみたら、メッセージの内容が無意味であればあるほど、交換行為としては純粋だということが直観的にわかっている。(中略)
無価値なものの交換のほうがコミュニケーションのかたちとしてはむしろ純粋なんです。だからみんながケータイにどっぷりはまるのは当たり前なのです。なにしろ五万年ぶりの「沈黙交易」なんだから。
もうここまでくると、根拠なき飲み屋トークが炸裂してしまい、呆れてしまう(^^;
だから私も大きく主張することなく控えめにしてきたのに〜
内田く〜ん、本に書くなら一言相談してくれたら恥をかかないように書くことを止めてあげたのに〜(^^;
もう書いてしまったからでは時既に遅しではあるが、沈黙交易がどういったものなのか、基本的なところを教えておいてあげようね。
いずれにしても、どうやら、沈黙交易とは、接近および接触が忌避されている場合に起こる交易のありかたらしいということが考えられる。言語の通じる通じないは関係ないのである。ここから、柳田國男のように、沈黙交易などといっても、いつも簡単には会えない人々が、便宜のため行うものかもしれないではないかという議論も出てくるかもしれない。しかし、たまたま会合するのが難しい旅人同士や、その地方の住民と通りすがりの人々が、便宜上、無人の売店のようなものを設けて、「非会見交易」するのと、ヘロドトス以来、注目されている沈黙交易とはまったくわけが違う。所謂、沈黙交易とは、接近または接触してはならず、コミュニケートしてはならない、二つの共同体からの人々の交易なのである。(栗本慎一郎『経済人類学』)
ということなのであって、内田クン、お願いだから「顔を会わさないから沈黙交易」なんていう無知と単純な誤解に基づいて今後は発言してしまわないようにね(^^;
引き続き、かつ、ボチボチではあるが、この周辺の議論について調べていくことにする。
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