2006/08/07 月曜日

自由とは何か(長文)

Filed under: 読書 — 咲本 @ 07:01:47

「自由とは何か」
これまたベタなテーマに見えるかもしれないが、私たちって表向きは自由主義社会で安穏としていられて恵まれた環境であるように見えつつも、本当のところは全然自由じゃないんだよね。

ポストモダニズムだかなんだか知らないが、そんなことを標榜しそうな若手社会学者の本などからは、言葉遊びのような発言が多く見受けられるばかりで、そろそろそんなことはやめて本番の話に入ってねと思うばかりである。
まあ、銭儲けに関するヒントが得やすそうな議論がなされていることは否定はしないが(笑)
そんな中、リベラリズム研究者、佐伯啓思氏による本書は、誰にでもわかるようにかみ砕かれた論理で「イラク戦争と人質事件における自己責任論」や「神戸の酒鬼薔薇事件」、「個人の自由と開き直る援助交際」といった問題を取り上げながら、著者自身がもつ違和感や疑問から出発して、自由といわれている構造に迫っていこうとしていて、読んでいてなるほど!と思わせてくれるものであった。

かなり、かなり、オススメの良書である!

佐伯啓思『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』 佐伯啓思『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』

ここで著者は現代のリベラリズムには3つの柱があると説く。

(1)価値についての主観主義、および、「正義(自由の権利)」の「価値(善)」に対する優位」、(2)中立的国家、(3)自発的交換、の三つの柱である。この柱を前提にして言い換えれば、現代のリベラリズムの立場は、基本的に個人の価値の多様性を認め、それを尊重する、そのためには、「自由への平等な権利」という正義の原則がまずは確立していなければならない、そのもとで、国家は中立性を守るべきであり、また諸個人の主要な社会的行為は個人の自発的な交換としてなされるべきだというのである。(p.159-160)

だから例えば、援助交際をしている女子高生の「誰に迷惑をかけているわけでもないから、ほっといて!」との主張に対して、善より自由の権利が優位となるリベラリズムの考え「だけ」によっては、簡単には反論しにくくなる。

また、市場経済における社会的価値観の話が出てきて、著者は4つの考えが存在すると指摘する。

(A) 市場中心主義:「市場を形式上の機会の均等さえ満たされればよしとする競争ゲームとみなす」
(B) 能力主義:「市場競争が望ましいのは、個人の能力やら努力が報われるから」であり、それによらない不労所得や投機的利益に対しては、税をかけたり禁止したりすべきである
(C) 福祉主義:「市場競争がその人の人生のすべてを決めてしまうというのはいささか酷なこと」であり、「弱者に対しては福祉給付や所得再分配などによって補償すべきである」
(D) 是正主義:「市場競争とはいっても、初期条件において人々は違った立場に置かれてしまっている」のであり、「初期条件をできるだけ平等化するために政府が積極的な役割を果たすべきである」

このように整理してもらえると、たいへんわかりやすくなる。

ここで補足しておかなければいけないのは、これら4つの立場をうまく混ぜ合わせた政策を政府が行うということは不可能であるということだ。

4つの立場はそれぞれ全く違うわけだが、これら全てに共通することがあると著者は指摘する。

それはそれぞれなりに、『個人は何に「値するか」をめぐって議論している』という点にある。

すなわち、この4つのモデルが指し示している共通点は、

すべてある種の道徳的価値を含んでいるのである。言い換えれば、ここにはそれぞれ「善についての構想」が存在する。どのとうに活動することが望ましい(賞賛される)かについて社会的な了解が成り立っているのである。そこでは道徳的価値観に基づいた「善についての構想」がインプリシット(暗黙)に想定されており、その「善についての構想」に基づいて、それぞれに特有な「社会モデル」が暗黙のうちに想定されていることになる。(p.216)

そして、この何を善とするのか、望ましい活動とされるのかという「社会的価値観はあくまで集団による選択できまる」のである。

ここに恐ろしくもリベラリズムの価値観の転倒が起こる。
すなわち、本来「(1)価値についての主観主義、および、「正義(自由の権利)」の「価値(善)」に対する優位」であるはずのリベラリズムの原理が逆転するのだ。

この選択は個人の嗜好に基づく選択ではなく、集団の選択だということだ。個人は、個人としてではなく、集団として選択し、場合によっては集団の決定に従属することになる。
この時、個人はリベラリズムのいう「自由」を失わざるを得ない。なぜなら、この四つのタイプの社会の選択は、善についての構想の選択であり、善についての価値観を画一化することにほかならないからである。四つのタイプによって善についての考え方が違っており、想定している生き方のモデルが違っているということである。
だから、ひとつの社会がこれらの善に関する想定のうちのひとつを選ぶということは、ある意味で、生き方についての個人の選択の自由は排除されたことを意味している。(p.217-218)

著者はあくまでも冷静に議論を展開していっているが、たいへん恐ろしい議論をしていることになる。

繰り返すと、「生き方についての個人の自由は排除された」のが、現代社会なのである。

次期首相選が近く控えているが、首相候補が上記4つのモデルのうち、どの社会にしていきたいのかということは、好き勝手言いたい放題で無責任極まりない評論家の意見など参考にすることもなく、誰もが明確に認識しなければならない自らの生き方にかかわるたいへん重要な問題なのである。

そのほかにも重要な指摘がいくつも出てきて、例えば、近代社会を構成する重要な価値として「生命尊重主義」「抑圧からの解放」「合理的な実証主義」の3つが挙げられていて、ところがこれらは「手段」や「条件」にはなりえても、「目的」にはなりえない。
「手段・目的」があって「目的」はお好きにどうぞというのは価値観の転倒といわざるをえないのだ。

いずれにせよ、私たちは社会の価値観に従属するばかりであって、それ以外の道が残されていないのだろうか?

ポストモダニズムの思想家達は今までこの段階で自爆してきた。

例えば、フーコーの権力論であれば、現代のあらゆるところに、知らないうちに監視され訓練を受け教育される監獄の存在を発見していく。
この場合の権力とは必ずしも官庁のようなものだけを指すわけではなく、あらゆる科学的知識が権力として作用する構図となっていたりして、誰もが簡単に気づかないようなところにまで権力が及んでいるのであった。

ではそのような権力による監獄から自由となるにはどうずればよいのかというと、人間関係のあらゆるところに出てくる権力全てにさからう具体策などあるわけもなく、結局はポストモダニズムは破綻してしまったのであった。

ポストモダニズムのエース的存在であったドゥルーズの自殺、そしてフーコーもエイズにより死去してしまうことは衝撃的であり、象徴的でもあった。

著者はどうかというと、ここで自らの「宿命の自覚」、それと「義」という古典的な思想を持ち込む。

「宿命の自覚」とは次のようなことである。

宿命を自覚するとは、結局、猶予期間である自分の生に意味を与えるものはいったい何かを自問することだ。余計なもの、本質的でないものを捨てていけばいったい何が残るのか。社会的な名誉や地位、さしておもしろくもない付き合い、会社の肩書き、また自己利益へのこだわり、我執、多少の金銭への愛着、こうしたものを捨てていって何が残るか、とわれわれは自問する。そこで最終的に残ったものを自分の宿命として引き受ける。(中略)
確かに、「生」の宿命的な選択も自由な選択には違いない。しかし、それは、人それぞれの幸福を自由に選択して追求するという議論とは何の関係もない。「死」へ向けた覚悟という次元の選択(決断)は、むしろ何を自分の義務として、それを共同体(死者)に対する責務として引き受けるかという選択である。そこにこそ本当の自由というものの意味がある。(p.254-255)

一方の「義」については、

それは、多様なレベルの共同体の規範を超えたいっそう超越的な規範への自発的な従属である。それを本書では「義」と呼んだ。いや「義」としかいいようのない「何か」がわれわれを動かしているということである。
定言命法といってもよいし、東洋思想のように天といっても、また道といってもよいだろう。儒教のように五倫といってもよいし、仏教のように六度といってもよい。それは、国家や共同体の他者からの評価や評判を超えたものだ。もしも、戦時中のように、「お国のために死ぬこと」が絶対的な意味を持つとするのなら、それは国家が絶対的な権力を有しているからではなく、「お国のために身をささげることが、ある状況では義にかなう」とされるからである。(p.279-280)

「宿命の自覚」や「義」というところに著者が一歩踏み込んだところに、この著者は並の学者じゃないなあという意味で拍手を送りたい。
本当ならここまで問題を大きくせずに無難なところで話を終わらせてしまってもよかったのかもしれない。
とりわけ著者は京都大学の教授という肩書があるがゆえに、「宿命の自覚」という議論はハイデガーの『存在と時間』とナチスとの結びつきが云々されることとかかわってくるし、さらにはテロリズムや新興カルト宗教ともかぶってしまう「義」という価値観を語ったりするのは、その言説に大きな危険をともなうのだ。
さすがに下記のように補足することで、その危険度を薄め、バランスを取ろうとはされてはいるが。

確かに多くの「義」は独りよがりの偏狭なものであろう。だが本当は、彼らの「義」があまりにも独断的で不都合なものであったか否かは、実際には、歴史の中でしかわからないものなのである。歴史だけが審判者であり、歴史だけがそれをふるいにかけていく。われわれができることは、われわれの「義」によって、それと対抗することだけである。(p.281-282)

とすれば、問題は、いかにそれらを信じるか、にこそある。そして重要なことは、あまりに軽々と信念の対象を変えてゆく「軽信」でもなく、また、逆にひとつの信条を深く絶対化して顧みない「盲信」でもなく、その中庸に道を求め、その両極端を避けることである、「中道」とは足して二で割ることではない。たとえば仏教でいう「中道」とは、正しい道に中る(あたる)ことにほかならない。「信じること」のバランスをとるとは、「信じる」ことのこの両極端を排することによって、適切に「信じる」ことだ。ポストモダン的シニシズムでもなく、超俗的なファンダメンタリズムでもなく、そのバランスをとること、そこにこそ適切な「信じること」がある。このバランスこそはアリストテレスが「徳」のもっとも中心的な意味と考えたものであった。(p.282-283)

このように「宿命の自覚」や「義」なんてことを持ち込むことを古くさいと決めつけるのはよくない。
そこが定まっていかない限り、精神の空洞化が起こりうるのだろうし、カルト宗教に走ったり、ニートになってしまったりという現代的問題も「宿命の自覚」や「義」の不在から起こるといえるのではなかろうか。

ちなみに著者は別の本では次のようにも言っている。

佐伯啓思『現代日本のリベラリズム』 佐伯啓思『現代日本のリベラリズム』

あらゆることを自分の内面で引き受けるのではなく、外部のメカニズムや機構の問題として処理しようとするとき、われわれはたぶん、精神の空洞化という現代人の最大級の病に侵されることになる。自由の問題を、すべて自分の外部に押し出してしまってはならないのである。抑圧を自己の外部に求め、自己は無限の可能性の中心だなどとするわけにはいかない。逆説的なことに、この仮説を受け入れたとたんに、人は、どんどん自由を失ってゆく。そして、あげくの果てに「精神」まで失ってゆくのだ。(p.99)

しかし、何物にも制約されない自由、などというものは空想の産物でしかない。解脱という無制約な自由もやはりそうだろう。むしろ、人間は、とりわけ個人は、絶対的な不自由から出発する以外にないのであり、またそこで終わる以外にない。われわれはひとつの不自由との交換でひとつの自由を手に入れるにすぎない。しかし、宿命の中に自由を見いだすという内面の作業の中にしか精神はない、とまずは考えるほかない。このような精神の風土が失われつつあることこそがオウムの土壌であり、われわれの現代日本の姿であるように見える。(p.100)

「義」という超越的規範がなく、宿命の中に自由を見いだす作業もなく、残された道があるのだろうか?
良い悪いという価値判断はおいておくとして、現在、多くの人達がよってたっているところに「オタク」というものがあることは間違いなさそうだ。

東浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』 東浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』

近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。
しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいでにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシュミラークルの水準で動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。(p.140)

「動物的な欲求に還元」というところがドゥルーズ=ガタリのいう「欲望する機械」を想起させるが、そのことはここでは取り上げないこととして、このように超越的な価値観たる「義」がなかった場合に、オタク的な世界の中に閉じこもってしまうことで満たすという方向性にいくことも、ある意味、必然的な帰結のように思われるのだ。

しかし、これはさきほど佐伯氏によって批判されていたポストモダン的シニシズムの姿そのものではなかろうか。

最後に再度佐伯氏の発言を引用しておくと、
「信じること」のバランスをとるとは、「信じる」ことのこの両極端を排することによって、適切に「信じる」ことだ。ポストモダン的シニシズムでもなく、超俗的なファンダメンタリズムでもなく、そのバランスをとること、そこにこそ適切な「信じること」がある
のである。

と、ここまできて、突然ではあるが、平田治氏の「自問清掃」の大人版、あるいは鍵山氏の「掃除道」という日々の実践における背景的肉付けということに、やっと自分なりに繋がってきた(^^;

平田治『子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ』 平田治『子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ』

鍵山秀三郎『掃除道 会社が変わる・学校が変わる・社会が変わる』 鍵山秀三郎『掃除道 会社が変わる・学校が変わる・社会が変わる』

1 Response »

トラックバック

  1. 自問清掃…

    感動のあまり涙で目を腫らしながらでないと最後まで読めなかった。
    「自問清掃」に取り組んだ生徒達がどんどん変わっていく。
    例えば、中学のバレーボール部が
    この人たちは、他 (more…)

    トラックバック by マーケティング/eビジネス — 2006/08/07 月曜日 @ 15:29:56


コメント

コメントをどうぞ

段落や改行は自動挿入です。メールアドレスはサイト上では非表示です。
使用できる XHTML タグ: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <code> <em> <i> <strike> <strong>

(必須)

(必須)


Creative Commons Licenseこの作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
Get FirefoxこのサイトはIE等のレンダリングバグに対応していません。W3C標準仕様準拠のブラウザでご覧ください。