「自問清掃」に取り組んだ生徒達がどんどん変わっていく。
例えば、中学のバレーボール部が
この人たちは、他の学校へ練習試合に出かけた際も、試合後は最後まで残って、その学校の体育館を隅々まで清掃していました。そんな学校のチームは、他にはありませんでした。たいていの学校は、負ければすぐ帰ってしまうか、最後までいても、挨拶だけして帰ってしまっていたようでした。ということが起こってくるのだ。 ドロドロのビジネスの現場で常に清いココロを保ちつつやっていくには、本書での教師側の立場であれ生徒側であれ、私にはまだまだ修行が足りない。
それに対して、この中学生たちは、顧問の先生が何の指示も与えていないのに、いかにも自然な感じで、掃除をやりはじめたというのです。試合に負けて悔し涙を流した後に、そういう行為ができる清々しさを思います。
一生自問の旅だ。
いくら勉強して知識を獲得しようともお金持ちになろうとも絶対に幸せにはなれない。
自問清掃の見習うべき最高の姿はおそらく須梨槃特なんだと思った。
須梨槃特 – 通信用語の基礎知識読み:しゅりはんどく
品詞:人名
2005/04/06 作成
2005/04/06 更新釈迦の弟子の一人。周梨槃特、修利槃特などとも書く。
兄はすこぶる聡明であったが、弟の須梨槃特は釈迦の弟子の中で最も物忘れが激しく健忘第一と言われる愚かさで、自分の名前すら覚えられない程の愚か者であった。分かりやすく言えば知的障碍者だったのである。
須梨槃特は兄と共に釈迦に弟子入りするが、大変に物覚えの悪い須梨槃特は一偈も覚えられぬまま時は流れた。須梨槃特は自分のあまりの愚かさに気付き 釈迦に破門を願い出たが、釈迦は「自らの愚かさに気付いたのだから、お前はもう愚か者ではない」と述べ、釈迦は須梨槃特に箒とちり取りを与えて「須梨槃特 よ、お前はこれで毎日掃除をしなさい。但しその時には『塵を払え 垢を除け』と唱えるのです」と述べ、修行を与えた。
須梨槃特はそれから毎日欠かさず掃除を続け、一心にその言葉を唱え続けた。そしてある時、釈迦の述べたその言葉の意味に気付く。釈迦が言う、真に払い除くべきものは、実は自分の心の中の塵であり垢なのだと。そして遂に阿羅漢果(あらかんか、悟り)を得たのである。
こうして、智慧もなく悟りもなかった鈍根第一の須梨槃特でも、ただ一心に妙法蓮華経を信受する一念の信があれば、仏になることができるとされている。





















著者のかたからコメントをいただきまして、まことに光栄です。
それにしても子ども達が劇的に変化していくさまはすごい!と思いました。
学校の中に感激が溢れかえっているようで、ほんとうにすばらしいです。
私も「自問」することとはどういうことなのか、改めてたくさんのことに気づかされました。
ありがとうございました!
ピンバック: 石川 武 (常務取締役)