現代思想の「起原」
丸山圭三郎,広松渉『現代思想の「起原」―記号的世界と物象化』
20世紀の日本現代思想を代表するといってもよい広松と丸山の対談本。
ポスト構造主義が華々しく騒がれていた頃も、中沢新一や四方田犬彦のように知のファッション化に流されることなく、それらを見据えながら独自理論を模索していった思想界の両巨頭。
まだ最初のほうをパラパラめくった程度であるが、彼らの著書を直接読むより対談本だけのことがあって比較的読みやすい上に、アプローチの違う両者の類似点が浮き彫りになっていきそうで興味深い。
まあ比較的読みやすいとはいえ、対談本なのにドイツ語やフランス語がたくさん出てくるのは正直なんとかしてもらいたかったが(^^;
こんな対談本を読んでしまうと、昔、両者の著書を脳に汗をかきながら読んだことを思い出してくる。
そもそも丸山のソシュールから導き出された「文化のフェティシズム」論と広松のマルクスの深読みから出てきた「物象化論」とは文字通り似たようなところがある。
両者が対談の場であるからこそ出てくると思われる発言としては、例えば丸山の次のような発言
だからといって、短絡的に合理主義を否定して神秘主義に走ったり、西欧型思考を一切排除して東洋思想に戻るのであれば、これは対談の冒頭でも申し上げたように既成の土俵の東西を往復しているだけのことです。理性はだめで、「時代の感性」に賭ける、などというラッパを吹くのはどうでしょうか。理性にも硬直した理性と、活ける理性とがあります。私たちがひっくりかえすべきは、その理性/感性、精神/身体などといった一切の二元論的対立の土俵そのものなのであって、その土俵上の一方から他方へと移動したり、ましてや行司よろしくその中間にたってバランスをとる、といったことであってはならないでしょう。絶対という根拠がないことは私たちを不安にもさせ安堵もさせます。ニーチェも言うように「真理とは、それがなくては或る種の生きものが生きられないような誤謬のこと」ではないでしょうか。そして私たちは、その不安と安堵のはざまでゆれ動き、物語を作っている。いや、もっと正確には作らされているんです。出来事としての〈発話の場〉も、〈読みの場〉も、一見パロールの次元のようでいて実はそうではない。ラング/パロールといった二分法以前の場で、私たちは語らされ、書かされ、読まされているような気がしますね。(p.122-123)
また、このような発言の前には龍樹の説く「空」(相対)と両者の説く「関係性」との類似性と微妙な相違点について議論されたりしている。
さきほど、比較的読みやすいとついつい書いてしまったが、実際のところ、丸山理論と広松理論の概要やポスト構造主義、龍樹の中論など、ある程度の知識を持っていないと、何のことだかチンプンカンプンかもしれない。
少なくとも通常の知識人同士の会話レベルを大幅に超えた発言ばかりではあることは注意を要す。
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