2006/07/05 水曜日

自問の実践に分析ツールは相容れない

Filed under: 雑記, 経営戦略 — 咲本 @ 03:39:48

京都市中小企業支援センター主催のIT経営革新セミナーに仏壇の小堀さんのご講演をお聴きしに行った。
http://blog.livedoor.jp/susumukobori/archives/50464732.html
会場となった池坊学園のホールは定員150名ぎっしり参加だった。
小堀さんの戦略的商品となる小さな音でも遠くまで鮮明に聞こえるご寺院向けスピーカーをあらかじめ設営された上でのご講演というのは前例のないパターンであり、まず驚かされた。
中味はビデオあり音楽ありのマルチメディアなご講演スタイルによって、事業におかれて「感動」を媒介としたお客さまとのコミュニケーションを目指された姿をお伝えされるのには、十分成功なさっていたのではないかと思う。

たいへんありがたくも一昨日ブログで取り上げた『子どもが輝く魔法の掃除ー「自問清掃」のヒミツ』 の著者である平田治さんからコメント書き込みをいただいた。
http://blog.tokeidai.net/reading/jimonseisou/

単なるひらめきなのかもしれないが、平田さんのご指導なさっている生徒さん達が小堀さんの工房見学をなさったら、とてもおもしろいことになりそうな気がしてきた。
ちなみに小堀さんの工房は生徒さん達の見学をたくさんお引き受けになっている。

なぜなら、小堀さんがお客さまに感動をもってお伝していきたいという姿は、スタッフの方々による「自問」の姿なしではありえないだろうから。
大人と子ども、立場もスタイルも違う両者がお会いになり、それぞれに新たな発見が生まれるようなことをイメージすると、なんだかワクワクしてくる。

さて、自問することの意味を平田さんは次のように書かれている。

今こそ、「自問」の心が求められています。
「自問」、それは「自ら問う」こと。
自主性・自発性・問題発見力のことです。物事を前のほうへと進める「心のアクセル」です。
「自問」、それは「自らを問う」こと。
自省心・自制力・自律性のことです。自分をコントロールする「心のブレーキ」です。
「自問」、それは「自らに問う」こと。
自分の心のものさしで、物事を判断できる力のことです。自分が自分を正しく操縦できる「心のハンドル」「心のナビゲーション・システム」です。
「自問」、それは、自己の生き方を問うこと。
自問教育は、二十一世紀の人間教育です。
ところが、日本の精神風土は、根源を問わずに、先例に従うことをよしとするところに成立してきました。学校教育も例外ではないでしょう。波風を立てないことこそが、よしとされてきました。
(中略)
私たち日本人が、根源を問うことを避け、先例に従うことをよしとしてきたとすれば、教育における「問う」力の育成は急務です。(p.248-249)

小堀さんのビジネスは230年の歴史がありながらも、伝統のよいところはかたくなに堅持されつつ、数々の先例をひっくり返し続けられている。
まさに経営における自問をされているわけだ。
個人に自問が必要なように、経営にも自問は欠かせないもの。

個人が自問していくのに要素還元主義の代表選手たるSWOT分析や4Pといったフレームワークでは真の解決に役立たないのと同様、かねてから私が主張しているように、経営を自問していくのにもフレームワークはふさわしくない。
なぜ経営コンサルタントがすぐ使おうとするフレームワークがダメかというと、その最大の理由に「心」「精神」が欠如してしまっているということがある。

どうしてもフレームワークを使いたければ、結論が出たあとの理由を説明するためだけに使えばいいこと。

最近はツールありきのコンサル屋の言い回しも少々巧妙になって、「あくまでもツールだ」と申し添えておいた上で、実はツール万歳と言いいたいがごとくツールに明け暮れることになる。

中には「心や精神? はい、精神分析や心理分析のツールを使って、改善ポイントを明らかにします。
あっ、あくまでもツールありきということではありませんので、あくまでもご参考までということですが」てな具合。

心や精神の領域をビジネス用語の中に見つけ出そうとすると、「モチベーション」「コミットメント」「リーダーシップ 」などなどたくさん存在するが、こういったこともインスタントに解決できるとしたいのか、
「はい、この分析テストをやってみましょう。あなたは、こういったタイプの性格で、ビジネスにおいてはこういった傾向があり、ここが問題点です。さあ、あなたにふさわしいこのツールを使って問題点を改善しましょう。」といった感じか(笑)

「占星術という分析ツールのように、ひょっとして参考になるかもしれない」ということと、本質・根源を求める実践とは全く別もの。
各種ツール提供屋さんの話を参考にすることによって、根源を求めることは「根源的に」期待できないので要注意。

っと、この深夜真っただ中から、大学院で話す電子商取引論講義の準備だ〜!
気合いを入れて作業。押忍!

2006/06/17 土曜日

組織学習のホリスティックなアプローチと地獄

Filed under: 読書, 経営戦略 — 咲本 @ 03:58:18

どうやら仏教を学ぶことからのビジネスへのアプローチという本がこれから次々と出てきそうな流れとなってきている。

要は西洋的な一神教をベースにした要素還元主義、分析的思考、主客二元論などではダメであるとは思いながらも、西洋的思考の中で探し回ってみても仏教的知見に届かないことに気づかされるばかりで、であれば仏教を何とかうまく西洋的思考に取り込めないだろうかという方向に向かう傾向が顕著になってきたようだ。

最近購入した本の中でもその傾向は見られ、日本の著者だと先日書いたホンダの3代目社長の久米是志さんが仏教から学んだビジネスへのアプローチを書いている。
http://blog.tokeidai.net/reading/rokuharamitsu/

米国では「学習する組織」で有名なピーター・センゲが中心になって著した『出現する未来』がまさにそんな本である。
ピーター・センゲ他『出現する未来』 ピーター・センゲ他『出現する未来』



ホリスティックな知見を求めるのに、それを仏教から得ようとやたらとその手の話が出てくる。

一例として「能力開発」について触れられた一節を引用すると、

仏教理論の真髄は、人間がふたつの相互依存的な秩序のなかに存在していると見る点にある。ひとつは、顕在化された領域、見えるものも、見えないもの顕在化した現象の領域だ。もうひとつの秩序は、無限で、絶対的で、超越的で、形を超越し、思想を超越し、『もの』を超越した宇宙であり、一般に『如』と呼ばれる。そして、人間は、文字どおり、ふたつの秩序が交錯する場所に存在していて、それは最古の教典では『タターガタ・ガルバ』と呼ばれる。サンスクリット語の『タターガタ』は、仏陀、ゴーダマ・シッダールタ、釈迦牟尼の尊称で、次第に如や絶対と同義になった。『ガルバ』は、母胎や子宮という意味だ。つまり、人間は、本性として、絶対と顕在が交錯する母胎に存在していることになる。どちらか一方に存在しているわけではなく、両方に存在している。そして、これが仏教の非二元論的な世界観、つまり、顕在は絶対がなければ存在せず、絶対は顕在がなければ存在しないという世界観のカギだと思う。ふたつは不可分で、相互に浸透し合っている。仏教理論では、人間は絶対界にも顕在界にも存在しているので、能力の開発が可能だという。(p.268)

彼らの仏教への理解には大いに疑問な点もあるが、たとえまともな理解ができていないレベルでも西洋の科学観よりもずっとよいという認識なのであろう。

さらに続いて、

もうひとつのポイントは、いつ、どのような形で理論が重要になるかについての仏教徒の考え方だ。仏教徒はよく『まずは修行と奉仕に重点をおくべきだ』と言う。心が静まるまでは、思想や理論について語るのは頭でっかちになるだけで、自己啓発の邪魔になる。
ただし、理論的な考え方が必要な時は来る。修行を重ねて、理解できないことを経験した時、理論が必要になる。こうした超常体験を『世俗的』な考え方、あるいは『物質主義』の考え方と言ってもいいが、そういう考え方で理解しようとすると、修行は逆戻りする(p.269-270)

と、理論ありきを批判していて修行ありきだという、ちょっとだけマシではないかと思えることも述べられている。

80年代前半にニュー・サイエンスが流行していたが、そちらへの揺り戻しのようなことになっているのではないかと一瞬思わせるが、多少下火になっていたホリスティックなアプローチをそのまま踏襲しただけではなく、それらの研究に大きな進展が見られることもあってのことなのだろう。

それらの進展とは、マラトゥーナとヴァレラによる『知恵の樹』に端を発して河本英夫によって決定的に注目されるようになった「オートポイエーシス」、シェルドレイクの「形態形成場」の理論から日本では清水博のような「場」の理論へのアプローチ、ラマチャンドランらによる脳科学の研究など、仏教的知見と少しは相性のよさそうな研究が増えてきていることである。

さらには、ヨガやスローフードの流行、LOHAS運動、三輪明宏や江原啓之らの人気という、社会現象的にも追い風となる事柄が増えてきていることにも支えられたものなのであろう。

私自身はそれら学者の書籍を読みはしているものの、仏教からの引用元が修行もしたことのない理屈だけで理解しようとする仏教哲学者の知見から学び損なった程度のものなのであり、そう考えると細木和子じゃないけれど「あんたたち、そんな習い損なったものを利用して本なんか出して金儲けしていたら地獄に堕ちるわよ!」という恐ろしいことをやっている人達なのかもしれない。

少なくともそんな仏教のことをなめた真似をやるなんてこと、私は夢にも思わないのであった。

2006/06/08 木曜日

パーソナル・コミットメント

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 03:44:55

朝一番から来客があり、当初1時間お話する予定だったのが気がつけば3時間が経過。
会報ネタにまつわるお仕事だったが、1回分のネタを出すところが3回分以上のネタを提供していた模様(^^;
23日行う講演(定員オーバーの申込により締切ました)も当初2時間想定だったものが、主催者側が「どうせこいつは2時間では話が終わらないだろう」との予測のもと3時間の講演だと配慮いただいたかたちで公開していただいている(苦笑)

時間は飛んで本日の午前1時。
ケータイが鳴り出てみると、久しぶりに大阪の某N社長からの電話。
明日開催する坂口さんパーティについてのことだった。
そういえばこの任意のパーティ、行政系の方々を含む100名ほどの参加申込となっており、かなり盛大な感じになりそう。

Sergiu Celibidache Sergiu Celibidache “Richard Wagner: Orchestral Music” MÜNCHNER PHILHARMONIKER



で、昨日書いた↑チェリのワーグナー管弦楽集を本日も感激して聴いてしまっている。

なんでこんなにもひとつひとつの音の出だしと終わり方が美しいのだろうと。

チェリはいったいどんな指導をしてきたのだろう?

マイケル・ポランニー暗黙知理論では、楽器などの道具がだんだんと自身の身体化していくところを説明されている。

楽器がまるで自分の身体の一部であるかのように「用具化(instrumentalization)」した状態となっているプロへの指導には、メロディの歌わせ方やサウンドバランスを指示していく「だけ」なら、チェリのような美しい音楽とはならないのだろう。

ポランニーによれば

この依拠は個人的自己投出[personal commitment]であって、それは、われわれが何らかの事物を自分の焦点的注意の中心に従属的に統合するような、知能(intelligence)の行為の総てに含まれているものである。(『個人的知識』p.57,[]内は咲本)

といわれているように、楽器の演奏とはひとつのパーソナル・コミットメントである。

あっ、ここまで書いてポランニーの理論的説明を書き出すと長くなるので、一切省略する。
でもって、例えばボールが用具化した一流プロサッカー選手がPKによりキックする際には、キックをする場所へ向けての意識よりも脚がボールに当たるその瞬間の感覚に意識を集中させるらしい。

これと同じような自覚的意識(consciousness)が一流楽器演奏家の中でも起こっているはずなのだ。

つまり何を言いたいかというと、一流演奏家への指導としては、音の始まり方・終わり方というところに焦点的注意を向けさせるということが、サッカーのすばらしいキックの結果と同じようなことになるのではなかろうか、旋律の美しい歌わせ方などの指示はもちろん必要にはなるが、あえて細部となる音の始まり方・終わり方という層に焦点的注意を向けさせることがより素晴らしい演奏の結果につながる、そんな指導をチェリビダッケはしていっているのではなかろうかという私の仮説。

あまり言いたくはないが、これはビジネスであっても同じこと。

経営理念や財務的目標をあつく語る「だけ」というのは並のリーダー。
人間のパーソナル・コミットメントの働き方がわかっていれば、細部について焦点的注意が向くような独特の指示をも行うはず。

2006/06/06 火曜日

経済事件を起こしかねない「冒険軌道」を描く起業家像

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 01:28:03

直前のエントリーで「義」と表現してしまったのは、儒教やキリスト教的な表現だったかもしれない。
でも仏教哲学ではもっと主にもっと高次の哲学について問題にされるので、入口にも入らないかもしれない低い次元の「義」なるものについていちいち詳しく語られることがないから、仕方なくこのように表現したのであった。
強いて仏教にあてはめると「持戒」ということになるのだろうが。
だいたいが仏教の宗派がたくさんできる前のおおもとにいらっしゃる天台大師の「五重玄義」なんて、いくら難解そうな現代フランス哲学とかをもってきてしても、全くお話にならないくらい難解かつ次元の高い話。

とかなんとか書くと、私がどこかの新興宗教にかぶれだしたのかなんていう、あらぬことを想像する方がいるかもしれないが、そんな団体の類にはどこにも所属していないのでご心配なく(^^;

さてさて、ここのところ六本木ヒルズ入居企業の経済事件が発生しているが、全てではないにしろこちらに入居している企業の典型的パターンを端的に言い表せば「(建設者から帝国主義者への)冒険軌道」を描いて失敗していく企業ということになる。

これはミラーという経営学者の仮説から引用させてもらったもの。

この企業のトップの特徴は

野心的であり、積極的で、独立心が旺盛なリーダーは全て、主要な目標として拡大を掲げている。そして彼らは、執拗に拡大を追い求めるのである。とりわけ、基盤を築く段階が終わった後でそれが顕著である。CEOが多方面の知識を持つようになるのは、その時なのである。彼らは成長、多角化の為の壮大な計画を策定するようになり、細々とした事業経営上の雑事に関わりを持たないことを好むようになるのである。

ということであり、とりわけヒルズ系には顕著であり、一般的にいまどきの起業家像として抱かれているものに近い。

このようなタイプのリーダーが率いる企業が、順調に拡大路線をとっていきながら、多くの企業が本人が気づかぬうちに奈落の底に落ちていく姿を失敗パターンのうちのひとつとして浮き彫りにしている。

なぜ本人が気づきにくいかといえば、当初成功していくことがそのまま失敗の原因になってしまっているというかたちで、起業家自身が企業の成長に応じて本人にとってはごく自然に変化してしまうからである。

自分は頭脳明晰であり器用で賢く立ち回ることのできる人間だといくら自負できても、そういう驕慢なところがあればかえって命取りとなるだけのこと。
経済事件を起こしている人達は皆エリートと呼ばれる存在なのであり、当初事件になるようなことなど全くありえないと思いながら知らない間にそのようになってしまっているのだ。

こういった企業を再生するのはとても難しいのであるが、その前提条件となるのは起業家を追い出すこととなる。

では、事件を起こした人が言っているように「この社会は挑戦するということが許されない社会なんですか?私は日本を変えたいんだ!」 といった立派に見えそうな理念を持っていてもダメなのかと言われれば、「はい、ダメです」と答えざるをえない。

「冒険軌道」をすすもうとする限り、知らない間に崇高な理念も自分勝手な解釈を伴うようになってしまうのだ。

事件まで起こす人達は極端な例であるが、程度の差こそあれとりわけ若手起業家と呼ばれる人達のかなり多くがこれに該当するのではなかろうか。
このような冒険軌道に陥らないためには、「そもそも事業を急拡大しようとしないこと」「実績を自慢したい気持ちを起こさないこと」「たとえエリートの道を歩んできたとしても自分は誰よりもアホだと心の底から思えること」「人一倍金持ちになりたい、金持ちになることが成功の証だと思わないこと」 などが挙げられる。

こんな条件を挙げるとモチベーションも下がるし、そんなこと守れるわけがないという人がたくさんいるのではないかと予想する。
そんな人こそ起業には向いていないのだと私は最近考えるようになってきた。

これって、ベンチャービジネスの教科書たるティモンズの本で典型的な起業家像として浮き彫りにされたものに真っ向から対立してしまうなあ(苦笑)

まあ世の中に多く存在する起業家像が必ずしも理想的な起業家像とは合致しないということだと解釈することとしよう。

2006/05/21 日曜日

よい組織=社員の実名によるブログがある?

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 09:26:37

普段は交響曲を聴くのが大好きな私なのであるが、本日のBGMは久しぶりに東京事変『教育』が流れていたりするそんな気分(^^;

教育 東京事変『教育』


まあでもこのアルバムをここで評論するとかそんなつもりはなく、特に推薦するわけでもないし、強いて何か情報をお伝えするならば、祇園のクラブの姉妹店でカラオケが置いてあるようなところでつい歌を歌うことを勧められて「林檎の歌」と「群青日和」を歌ったら、エグゼクティブでシニアなオヤジばかりが客である店のオネエちゃんにはわりとウケた経験があるというくらいのもの(^^;

っとそんなことはどうでもよく、ところで、

スラッシュドット ジャパン | 日本語がブログでの使用言語で世界一のシェア
AC曰く、”Sifry’s Alertsの5月1日付けの記事 State of the Blogosphere, April 2006 Part2: On Language and Taggingによると、ブログで使用される言語で日本語が世界一のシェアであるとのこと。

この記事のとおり日本ではブログ投稿数こそ世界的にみても異常に多いものの、オネエちゃんウケ云々なんてことを個人を特定できる「実名」ブログで堂々と書けないサラリーマンってどないやねん!ということを最近感じてしまうのである。

  • オネエちゃん云々は「業務以外」のことだから、社名・所属部署がわかるところでは書けないって?
  • オネエちゃんのことと崇高な企業理念を掲げた企業名とをブログ上で混在させると会社の看板を背負った人間として不謹慎だと思われるって?
  • マジメなイメージを会社に持ってもらいたいのに、そんなことを書いたら自分自身の人事評価に差し支えがあるって?

もちろんここで「オネエちゃん」と言っているのはものの喩えとして。
あまりにも生真面目に文字そのものの意味だと勘違いしないように。

何が言いたいかというと、組織論やマネジメントについて考えていくと、匿名でしかブログを書けないサラリーマンだらけというのはかなりマズいのではないかと思えてきたのだ。

中にはジム・コリンズなんかの本のうろ覚えで、「企業人として企業の‘基本的価値観’を重視すべきだと思うので、それと比べたら取るに足らない自分のプライベートなことは社名・所属を明らかにして語るべきではない」なんて言いかねない人がいるかもしれない。

長くなるのでここではいちいち書かないが、こんな意見はジム・コリンズの本の初歩的ミスリーディングであって話にならない。

中には組織側からあからさまな締め付けがあるケースも存在するのだろうが、省庁のお役人でさえ名前を出してブログを書いているご時世に何を言ってるの?ってな感じ。
http://blog.livedoor.jp/bntdt916/

よほどの人気作家が「書く」ということについての深い思慮の末、ブログについては書かないと結論付けるのならまだしも、いい歳をした大人がいつまでも2ちゃんねるに群がる子供のごとく匿名のままでしか投稿できないというのでは、今まで一体どんな仕事・生き方をしてきたの?と首を傾げたくなる。

会社の看板を取っ払ったら「空虚」しかないの?組織内での役職があれば内部的には酒場で部下には語れるが外部で語れないのは単なる「内弁慶」な人なの?なんてね。

過去に何度も「仕事は個人的なものだ」ということを主張してきているが、個人的なことを実名ブログで語れないというのは、極論すれば個人的なものである仕事のことを書けない人なんて、できるビジネスマンとはなりえないのでは?とさえ考えてしまう。

まあ書けない人もそれなりにご苦労されているところもあるのだろうし、そのことをあまり攻め立てても仕方がないのだろうし、そのこと自体が私の一番言いたいことでもないので。

いずれにしてもそのうちに時間を見つけて「よい組織の社員は実名によるブログを書いている」といったようなことでコラムでも書いてみようと思う。

2006/05/16 火曜日

戦略思考とは?

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 00:20:59

「戦略」という言葉について深く納得。

これ、使わせていただきます! 田坂さん。

===========================
田坂広志 「風の便り」 第186便
===========================

「戦略」という言葉

長年、「戦略参謀」という仕事に携わり、
著書で「戦略」について語ってきました。

そのため、しばしば、
経営者の方々から、
企業の「戦略」について、相談を受けます。

そのとき、
いつも心に浮かぶのは、
一つの言葉。

「戦略」と書いて、

「戦」(たたかい)を

「略」(はぶく)と、読む。

その言葉が浮かぶのです。

「戦略思考」とは、
「いかに戦うか」の思考ではなく、
「いかに戦わないか」の思考。

では、なぜ、経営者は、
無用の戦いをせず、目的を達するために、
戦略思考を尽くさなければならないのか。

それは、決して、
「経営資源」を無駄に使わぬためではない。

部下や社員の人生の
かけがえのない時間。

それを大切にするため
経営者は、戦略思考を尽くさなければならない。

いかなる華々しい戦略も、
その陰で、一人の人間が、
かけがえのない人生の時間を、捧げている。

その覚悟を抱いたとき、
本当の「戦略思考」が始まるのでしょう。

2006年5月9日
田坂広志

ちなみに「風の便り」のバックナンバーは下記サイトにあります。   http://www.hiroshitasaka.jp/tayori/index.php#backnumber

2006/04/12 水曜日

続・社内ブログ&SNS活用ーマローン教授の見解

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 23:54:51

4月4日のブログ「社内ブログ&SNS活用ー意志決定におけるゴミ箱的決定」で某Mickyさんから思わぬ反応をいただいたので、調子にのって参考資料のご紹介。

ガートナー | ビー・キューブ・アイ[b3i] | プロフェッショナル・トーク

組織の分散化、集権化のメリット、デメリットとは何か?The Future of Workの著者トーマス・マローン教授と、ガートナー フェローが将来の組織構造について語る

マローン教授のいう「ギルド」的な世界へ進むほど、ブログ、またはSNSのような最早オープンソースでも存在するツールは便利に使えるはず。

一般的にゴミ箱モデルをご存知ない方が多いとすれば、組織における意志決定の分散化といいかえると話がわかりやすくなるのだろうな。

2006/04/08 土曜日

ポストモダンな経営学の時代に

Filed under: 読書, 経営戦略 — 咲本 @ 23:53:36

講演や講義の場でヘンリー・ミンツバーグやカール・ワイクなどを取り上げているうちに、世の中随分とそのような方向での理論紹介や研究が増えてきているなあと感じる。

例えば最近のものでは明治大学の先生方が刊行された『ポストモダン組織論』(2005年12月刊)。

ポストモダン組織論 岩内 亮一 村田 潔 高橋 正泰 青木 克生『ポストモダン組織論』


なんと5年間にもわたる助成を受けた共同研究の成果というのだから、かなり力が入っている。

以下、モダンとポストモダン学者をごく簡単に復習。

【いわゆる現代思想】
モダン:マルクス、フロイト、ダーウィン
ポストモダン:リオタール、ドゥルーズ、デリダ等

【社会学】
モダン:マックス・ウェーバー
ポストモダン:バーガー、ハーバーマス、ギデンス、ルーマン、ボードリヤール 、ブルデュー等

【認知論】
モダン:一般教養課程によく出てくる心理学者多数
ポストモダン: ポランニー、ヴィゴツキー、ギブソン等

【経営学】
モダン:テーラー、バーナード、サイモン、ポーター、コトラー等
ポストモダン: ミンツバーグ、ミラー、マーチ、ウェンガー、ワイク等

こうやってみてみると、経営学もやっとのことで注目すべき論客が揃いだしてきているような気がしてくる。

現場の人間の立場だから敢えていうのだけど、経営の方向性を間違わないようにするには、上記経営学関連だけではなくて、そのバックボーンとなる現代思想、社会学、認知論などについても少しくらいはかじっておいたほうがよい。

私の場合にはドラッカーの書籍を昨日ご紹介の読書法で読み返していくといったレベルではなく、上記あたりの書籍についてもドンドンとメモしながら読み返していったほうがよいと考える。

と、そんなことをいうと、すぐに「別に研究者になるわけではないのに、そんな無茶な」とか、「難しそうで読む気がしない。もっとやさしそうなものは?」や、「学生じゃないんだから、短時間でサクサクっと読めて、しかもノウハウがわかるようなものじゃないと」なんて声が一部から聞こえてきそう。

でも冷たいようで恐縮だが、掲載した現代思想家なんて、フランスだったら大学受験の高校生が勉強するレベルなんじゃないかな?

経営についての熱さと抽象的な記述を自分の身に引き付けて具体化する力さえあれば、どうってことはない。

これらの本が、個々のおかれた現場で「これだ!」っていう発想が出やすくなることにも、大いに貢献してくれるから。
今、経営学は熱くなってきていて、ホントに面白くなってきているんだから。

2006/04/04 火曜日

社内ブログ&SNS活用ー意志決定におけるゴミ箱的決定

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 14:17:05

ゴミ箱というと取るに足らない話に思えがちだけど、マーチ等によるゴミ箱モデルは合理的な意志決定論に強烈なアンチテーゼを発している。

この学派の主張する「組織化された無秩序」を実践していくのに社内SNSやブログはたいへん有効だと思う。

これらの商品を企業に売り込みたい人達がいまどきたくさんいるはずだが、なぜだかそんな論理を語る人はお見かけしたことがない。

大企業に導入してもらいたいのであれば、そういったことも説明できる構えを持っておいたほうがよいのでは?

ゴミ箱モデルを含めた一連の議論のなされた本は、難解な学術論文でもよろしければ下記↓あたりがおすすめ。

組織の解釈学 稲垣 保弘『組織の解釈学』


2006/03/12 日曜日

東横イン的企業から価値共創型企業へ

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 00:08:56

asahi.com: 東横イン12件の是正命令を要請 国交省が各自治体に - 社会
東横イン12件の是正命令を要請 国交省が各自治体に

2006年03月06日22時48分

ビジネスホテルチェーン大手、東横インの不正改造問題で、国土交通省は6日、建築基準法やハートビル法など法令違反の是正が3月末までに終わらない系列ホテル12件について、地元の各自治体に是正命令を出すよう要請した。

道路を挟んで斜め向かい側に東横イン京都四条大宮があるのだが、何やら様子がおかしいので、夕食を食べに行く際に見に行った。

東横イン

↑どうやら是正命令に対応しようと工事の準備中である模様。

この件について、本音のところではバレさえしなければ大して問題なかったとか、たまたま法律に抵触してしまっていたことがマズかったという方もいらっしゃることだろう。

今回の一件がなかったとしたら、世の中の評価はどうだったのだろう。
私は以前、某テレビ番組で東横インのビジネスモデルを賞賛していたのを見かけたことさえあるのだが。。。

確かに20世紀にはバレさえしなければよしとするビジネスが平気でたくさん存在してきた。

しかしネット社会の様相を強めつつある21世紀においては、こんな企業はバレようとバレなかろうと経営としてたち行かなくなっていくのではないかと思う。

この事態をプラハラード教授の力をお借りして簡単に説明すると、

1990年代までは

買い手との間で末永い絆を育もうとする

ことがテーマとなり、そのためには、

利用状況を見ながら提供価値を決める。顧客を深く理解し、初期の利用者の意見などをもとに製品やサービスを改める。あらかじめ用意したメニューの範囲内で、製品やサービスをカスタマイズする。

ということであったので、東横インの場合でも違法行為がバレなければオッケーでやっていけなくもなかった。

現在提供されているCRMツールなど事業を支援するインフラや、経営コンサルタントなどもこのような考えがまだまだ多い。

ところがネット社会の様相が強くなってくる2000年以降となると、企業と消費者との関わり合いに大きな変化が生じてきており、それは、

消費者と独自の価値を共創する

ことがテーマとなるのであり、そのための取り組みとしては、

消費者は価値共創のパートナーであり、価値共創を実現するためにはDART(対話、利用、リスク評価、透明性)の確保が欠 かせない。企業は個々の消費者と、経験環境の中で経験を共創する。製品やサービスもその環境の一部である。企業は発展性のある経験を実現できるように、 経験環境を設計しなくてはいけない。消費者のリーダー的存在とともに、経験環境に期待される条件を思い描き、市場に受け入れてもらう努力をする。

と指摘されている。

要するに、東横イン的企業もバレさえしなければやっていけた1990年代的やり方が終わりつつあり、顧客と独自の価値を共創していこうとするには、DARTを確保する以外に路がない。
そのDARTの4要素の中には透明性があるので、今回のようなあこぎなやり方なんて入る余地がないのである。

いまいち価値共創を支える要素となるDARTというのがわかりにくいかもしれないので、ごく簡単にふれておくと、

D(dialogue):対話 単に顧客に耳を傾けるレベルを超え、感情レベルまで含んだ行動に向けての意見交換
A(access):利用 モノの所有と利用とを分けて考える
R(risk assessment):リスク評価 消費者に損害が及ぶ可能性
T(transparency) :透明性

もっと詳しく知りたかったら、『価値共創の未来へ』をどうぞ。

価値共創の未来へ


とそんなことを考えながら、夕食は徒歩10分のところにある割烹屋さんへ。

���

こじんまりとした穴場的なお店で、お造り盛り合わせ、桜餅蒸し物あんかけ、小鯛を炙ったにぎり、おこぜの煮物、タラの芽・ふきのとう・エビの天ぷら、お茶漬けとおいしくいただき、東横インのこともすっかり頭のどこかにいってしまいながら帰宅したのであった(^^;

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