別サイトで、なまじコラムなんぞ書いてみると、チェリビダッケのことについてもう少し詳しく知りたくなり、1冊読んでみた。
クラウス・ヴァイラー『評伝 チェリビダッケ』
決して学術的なものではなく、かなりチェリ贔屓な立場から書かれているものではあるが、チェリのベルリン時代から面識のある著者が、数え切れないほど演奏会で聴いてきた経験だけでなく、多くの新聞評、インタビュー記事なども参照しながら書き上げたものだ。
読んでみての感想は、ここでは書かない。
私が気になっていたのは、ドラッカーの語るトップマネジメントについて、オーケストラと指揮者がモデルにされているのは、本当に有効な考え方なんだろうかということ。
ドラッカーが語るのであれば、実際にマエストロ・チェリビダッケを持ち出して、トップマネジメントを語ってみようと思い、コラムを書いたわけだった。→「知識社会のトップマネジメント」
コラムを書く際のベースとなったのは、ライブ演奏のCDとリハーサルの一部を収録したCD、それと1980年に行った来日コンサートの記憶だけという、乏しい情報から書いたのであった。
書いてから、私のチェリについての認識が、とんでもない誤解ばかりしているのではないかと少し不安になってきたので、本書を読んでみたのである。
結論的には私のチェリについての認識は、大きくはズレてはいなかったように思う。
だから、ドラッカーの指摘に間違いさえなければ、私のコラムも多少は参考になるかもしれない。
しかし、私が取り上げた指揮者の事例がチェリビダッケであったということが大きな問題!!
チェリとCDを量産している人気指揮者の多くとでは、実際の演奏・音楽に対する考え方・楽団員との接し方などあらゆる点で水と油ほどの違いがあるのだ!!
それを批評家の許光俊氏に言わせれば、チェリビダッケ以外のほとんどの有名指揮者の演奏は「クラシック音楽ではない。それどころか、彼らはクラシック音楽が何かということすら知らないかもしれないの」であり、「そのほとんどは、失礼ながらクズである。」
「クズ」とは全く違うチェリの演奏体験にふれるのがどういうことなのかについて、本書の翻訳者のあとがきにおける発言を拝借すれば、
ひとたび彼の音楽を知ってしまった者は、音楽の聴き方を、世界の見かたを、ひいては自分自身を、変革せずにはいられないのだ。むろんそうして得られる認識は、世の中の体勢の意見と真っ向から対立してしまうものである。今ではふつう、CDをもとに音楽を論じて誰もいっこうに不思議とは思わない。それらの飼い慣らされて牙を抜かれた商品はわれわれに自己変革を要求したりなどしないから、安心してバックグランド・ミュージックとして楽しめるわけだし、なにより現代メディア社会は、そうした快適なお楽しみのレパートリーを加速度的に増加させて、日々消費者を密室での愉悦へと誘ってくれるのだ。(中略)
しかしチェリビダッケは、芸術に秘められた根源的な魅力はCD等メディアにはとうてい取りこみつくせないのだとの、考えてみれば当然の認識に、あくまで固執する。つまり音楽は、所定の規格にあわせて録音されたとたんに、その最も大切な核心部分が失われてしまい、いかようにも加工・複製・反復できる物理的な音、つまりは音楽の死骸の集合体しか残らないというのである。(中略)
人々は音楽の一回的な経験よりも、レコードやCDを「所有」することにより大きな喜びを見出し(フェティシズムの典型的な徴候である)、そこで標本化された死骸を基準に生体を語り始めてしまった。
これに対してチェリビダッケは、この危機から芸術を救い出す唯一の道を、メディアに背を向けるという後ろ向きの選択のなかにかろうじて見出したのだった。(中略)
チェリビダッケの洗礼を受けた耳が彼以外の演奏を聴くと、それらがおしなべて楽譜をただなぞっただけの、棒読みの音のアバウトな集合体にしか聞こえなくなってしまうのは、単にチェリビダッケの個性的演奏に郷愁を覚えるからだけではなく、むしろチェリビダッケ体験を通じて、音楽をつかさどる基本的な原理への洞察がそれら演奏に欠けていることを感じとるようになってしまうからではないかと思われるのである。
というふうに私もなってしまったわけなのであり、チェリのようにやっていくには、社会の多数派とは大いに異なる姿勢を貫いていくことにならざるをえない。
そういう意味において「異端」的な指揮者なチェリが、果たしてトップマネジメントの参考になるのだろうかという疑問を持ってしまわざるをえない。
ひょっとして、他の多くの指揮者のように、いくら複製芸術時代に無批判的に染まりきっていようとも、その姿勢が消費社会の要請に応えているのであれば、そちらのほうが余程トップマネジメントの参考になるということなのだろうか?
この両者における演奏の違いは次のように対比できる。
確かに音楽とは、その自律的に聞こえる個々の音の響きによってだけでも、人を酔わせ、うっとりさせ、悲しませる力をもっている。だから音におぼれ、音の魔力に屈して音楽をそっちのけにした「熱演」を演じてしまってもそれなりにサマになるのであって、どんな音楽会やレコードにも感動する聴衆はいるものである。しかしチェリビダッケは、そうした本質からはずれた地点でのあらぬ感激や涙や絶叫をあくまで排し、音楽の本質的な姿を現せようとする。たとえばカラヤンやマーゼルの指揮が、思いついた箇所をしたたかにうたわせたり誇示したり感きわまったりして人の心をくすぐり酔わせるという意味での美しさに満ちているとしたら、チェリビダッケの音楽は反対に、夾雑物が徹底的に排除されて曲の本質的な構造が浮き彫りになった地点で音楽そのものが自然に立ちあがっていく様子に美しさがあると言えるだろう。
ということだ。
若干表現が上品に説明されているがゆえにわかりにくければ、許氏に従って、
カラヤンの表現はいつでも全開で直接的だ。そして、部分部分の効果が強い印象を残すが、じゃあ全体として何を提示してくるのか、というと、何もない。もしくは陳腐。すぐれた芸術家が必ず持っている異常な繊細さと知性が彼の音楽からは聞こえてこない。何より、曲がどう書かれているかという構造に対する配慮が希薄すぎる。
とでも言うべきか。
複製芸術時代にはカラヤンのような指揮者のほうが、ずっとお金も儲かるやり方でもある(^^;
複製技術に研究熱心で、マニア的にレコーディングにこだわるカラヤンは、その甲斐もあってCDも量産している上、よく売れてもいる。
では、チェリではなくカラヤンのような指揮者のほうが、いまどきのトップマネジメントとして大いに参考となるのだろうか?
ところがコラムで書いたように、楽譜が企業における理念やビジョンのようだとすると、チェリがその本質や構造を浮き彫りにしていくのに対して、カラヤンは部分のインパクトを追求して気をひこうとするだけ。
これなら前者チェリのやり方を指示してしまわざるをえないのではなかろうか。
それともトップマネジメントは、本質には関係のないうわっつらの小手先によって、理念やビジョンを大いに実践しているように見せかけることに大いに力を注げということになるのか?
なぜこれほどまでに指揮者のタイプにこだわるかというと、たとえばチェリビダッケとカラヤンとでは、人間性、練習方法、曲の構築の仕方、音楽論、音楽教育論、メディア論、あらゆることが違いすぎるのである。
どちらかが参考になれば、他の一方は否定しなければならないという絶対的な違いがあるのだ。
そもそもドラッカーの発言があまりにも大雑把であるがために、私なりにもう少し突っ込んだところにまでこだわってみた結果、このような状態になってしまう。
ドラッカーのオーケストラモデルを成立させるためには、本人が考えてもいなかったであろう地点について、一歩突っ込んで検討していかないと、なんともいえないというのが現状である。