2006/09/30 土曜日

京都でブレスト

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 12:58:34

京都の某企業さんにお呼ばれして、夕方から終電がなくなるまで続いたブレストに使われた部屋。
ホワイトボード

ホワイトボードを3つもご用意されていたところに、ブレストするぞ!という気合いが感じられる。

最終的には3つとも文字でぎっしり埋めつくされた。

イベントとして何かしようか、ということについてのアイデア出しであったはずの場が、結果的にこの会社の基本戦略と関連してくる重要な取り組みとなってきそうなアイデアが多数出てくるものとなった。

約半年後に向けて企画を走らせていき、実践していけば、これでまた会社がワンランク上のステージに登っていけそうな道が開けていくこととなるだろう。

結果的には、ブレストの場がまるで経営企画会議といってもよい場となるという有意義なものとなった。
社員さんひとりひとりが経営についての視点を持ちあわせていらっしゃるから、出てくる発想が自然とそういうものになっていく。
それにしても、月末の金曜日の夕方という集まるのがたいへん困難であろうタイミングなのに、時間が確保できるように売上目標やら事務処理などを早めにクリアした上で会場に集まられたみなさんの仕事ぶりには脱帽する限りだ。

みなさんお疲れさまでした!

2006/09/24 日曜日

楽しい休日の会議

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 04:13:18

休日に会社で会議していて何が楽しいかというと、そのテーマ。
楽しいというと語弊があるので、有意義というべきなのだろう。

なぜ有意義かというと、平日は長時間議論を行う日程が取れないが、土日だとそれが可能だから。
関係者全員のサイボウズのスケジュールが空いていたので、有無を言う余地なく敢行(^^;
テーマは、ずばりベンチャーたる当社の基本戦略の見直しと具体的な実践への落とし込み。

既存企業なら普通に行われることなのだろうが、過去の実績もなくこれから市場創出をしていかないと売上が立っていかない分野で、最短上場するのにどうしていくかということなので、そうは生やさしい議論にはならない。

これを当社社長の思想・哲学からスタートさせ、組織内で一貫した方向性に基づき、しかもみんなが納得できる実践ができるよう、議論した結果を共有しようというもの。

ブレストしてその中から吟味していけばよいというものでもなく、社長一人が決めてみんなを一方的に従わせたらよいというものでもなく、アテになる数値的なものがあるわけでもないのに上場に向かうにあたっての不動の目標数値はあり、 ジム・コリンズのようなビジネス書がすぐ役立つわけでもない。

裏付けとなる根拠不在のまま、責任を負って実践していき、短期的に実績を上げていかねばならない。

まあ、ジム・コリンズからひとつだけ学ぼうとすれば、「ビジョンを持っているだけのリーダーに頼るよりもビジョンある組織を構築する方がいい」ということであり、この方向での組織構築への志向はベンチャーの時から持っていたほうがよいのであり、そのためにもこのような時間のかかる議論をしていく必要があるわけだ。
午後3時頃から随分と多くの議論が交わされたが最終的結論までには至らず、続きは次の日ということで、ひとまず終電直前に解散。

2006/09/12 火曜日

経営理念

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 12:55:43

勤務2日目。
当社の経営理念です。

フロントメディア経営理念

2006/09/06 水曜日

巨匠とよばれる道へとすすんでいくには?

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 03:00:19

昨日9月4日はブルックナーの誕生日、今年で没後110年となる。
私はちょうど出張中だったので、本日改めてブルックナー未完の最後の交響曲第9番を聴いた。

9番だけでも何枚も持っているが、まだ聴いていなかったスクロヴァチェフスキ指揮のブルックナー全集から引っぱりだした。

ブルックナー:交響曲第9番 スクロヴァチェフスキ ザールブリュッケン放送交響楽団 ブルックナー:交響曲第9番 スクロヴァチェフスキ ザールブリュッケン放送交響楽団

演奏には大して期待してはいなかったのだが、ちょっと聴いてその演奏のクオリティの高さに唖然とした。
演奏しているザールブリュッケン放送響なんて名前も、今まで聞いたこともなかったのに、超一流オーケストラと言ってもよいほどレベルが高い。
いや〜、こんなこともあるんだ。
スクロヴァチェフスキ(名前が長いので通称・ミスターSと呼ばれている)は、クラシックマニアではない私はその存在をずっと知らずにいたのであったが、 そんな私が知り、そして全集を買ってみるくらいに近年になってメジャーになってきた指揮者。

どうやらクラシック音楽におけるメディア系の方々が、存命の巨匠と呼ばれる存在がいなくなりつつある状況にあって、無理矢理担ぎ出しているフシがあるので、演奏を聴くまではあまり評判の良さを信じられなかったのであった。

まだ存命で現役バリバリとはいえ、既に83歳。
この全集も90年代にはいって10年がかりでやっと録音されたもの。

指揮者の世界はつくづく奥が深いなあと思う。
というのも、70歳代に入ってから以降になって、ドンドンと細部への配慮において研ぎ澄まされ、全体の構築性においても勢いで誤魔化したりせずに、絶妙のバランス感覚をもって理屈の合う演奏が繰り広げられるようになり、結果的に大きな感動をもたらしてくれるごく一部の指揮者が世間からは巨匠と呼ばれる。

つまり、70歳にしてますます進化するというか、いくら壮年期に大活躍した有名指揮者であっても、必ずしもそこに到達できるというわけではない領域とでも言うべきものが存在するのだ。

これは一体なんなのだろうと思ってしまう。
いくら若くして天才的であってもそれだけではダメで、ずっと最後まで円熟していった一部の人間だけが到達できる世界。

巨匠達が、まだそのように呼ばれる前がどうだったかというと、例えば、チェリビダッケ、ヴァント、そしてミスターSの3人に共通するのは、若い頃から一部で実力は高く評価されながらも、 次々とレコーディングするわけでもなく知名度はそれほどなかった。
チェリに至っては死ぬまでレコーディングを拒否し続けたくらいのもの。
あとの2人は晩年になって一気に評価が上がり、CDが急に増えてくる。

それと、3人とも長年指揮してきたオーケストラを、二流の存在から文句なく一流と呼ばれるオーケストラへと育て上げている。

一方で、現役指揮者で世界的に有名なアバド、ヤンソンス、ラトル、メータらといえば、まだ巨匠とよばれるわけでもなく、演奏自体もなかなかの好演がありながらも、悪く言えば曲のクライマックスを派手な表現で誤魔化しているとしか聴こえない場合もあるし、大体、二流を一流のオーケストラへと育てた実績もない。

わざわざ「時間をかけて育てる」という地味な活動に時間を割くよりも、一流プレイヤーだけを相手にして、見た目華やかな演奏をしていたほうが、マスコミとその一味に成り下がっている音楽評論家には大いに受け、商売としてもおいしいということなのだろう。

巨匠的存在になろうがなるまいが、若くして世界的にメジャーとなり、さっさと銭儲けしたヤツが偉いのであって、二流のオーケストラを育てるなんて二流のヤツがやればいいこと。
私のような一流指揮者は一流相手に手っ取り早くCDとコンサートを大量にこなしていけばよいのだと言わんばかり。

果たして彼らは巨匠になるのだろうか?
そう呼ばれるような成長が晩年になってあるのだろうか?

感動的な名演奏となるには細部が大事で、そこを緻密にしていくには、徹底して練習に時間を割いていくことが求められざるを得ず、いくら世界最高峰のオーケストラを指揮しようとも、いや、それだからこそコストパフォーマンスの悪くなる練習には時間を割けない状態のままで、必ずしも名演と呼ばれるものとなるかどうかは、かなりあやしい。

独り言だけど、どこかのITベンチャーのように派手派手に上場した結果、財テクなどの本筋の事業以外にしか使えないお金まで市場から集めてしまったCEOの晩年って、果たして巨匠とでもいえるような経営者となっているのだろうか?
中には、あろうことか、大金をせしめることで早いうちから隠居生活に入りたいCEOもいるようだが。

上場するにも、どんな組織に育て上げるのか、上場した資金を元手にしても、本筋のビジネスをすすめていくのには、それでも全然足りないくらいの大きな未来に向かってずっと進んでいきたいという人であって、初めて巨匠への道へと進めるスタート地点に立てるのだと思うんだけどなあ。

追記
田坂広志氏の本から得た教訓
仕事の報酬はカネではなく、人間としての成長である

2006/09/01 金曜日

感動のインターンシップ最終日

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 23:56:49

昨日は三共精機さんインターンシップ最終日で、午後4時から社内の方々に向けての学生さん達によるプレゼンが行われた。

インターンシップ・最終プレゼン

私は午後3時すぎに会社に到着して、学生さんのプレゼン・リハーサルを見学させていただいた。

パワーポイントを見ながらプレゼンを聴いていると、ここに至るまで相当頑張ったなあと感じられる箇所が随所に見てとれ、10日間のやってこられたプロセスを全て把握していなくても、その並々ならぬ奮闘ぶりを察することができた。

ただ、どうもプレゼンの経験が少ないことから自信なさそうに見えてしまうので、一言だけ心がけたほうがよいポイントをお伝えしておいた。

学生さん達が緊張したり、不安に思ったとしても致し方ないところがある。
なぜなら、このプレゼンを聴くために、はるか岡山営業所からも何人もの社員さんが来られるのだから。

さて、本番のプレゼンの時間がやってきて、正直なところ大丈夫かなあと少し不安な気持ちになっていたのであったが、魂のこもったあついプレゼンを、見事4人とも披露してくれたのだった。

それに客観的データによる根拠付けもつけ加わることで説得力もあり、切り口も鋭く、その価値のわかる社内の人達の眼には、そのプレゼンのクオリティの高さに驚いていらっしゃったはず。
客観的に評価して、学生さん達はWEBやマーケティングの素人さんであるにもかかわらず、二流のWEBマーケティング会社が行うであろうプレゼンよりも圧倒的に優秀だった。

今回の学生さん達は、個々に優秀な人達なんだろうけど、人の話をよく聴き、素直に真正面から全力で物事に取り組まれるところが、その優秀さを発揮することに繋がっているのだろうと感じた。

力を出し切った充実感があったのだろう。
プレゼンも無事、社内に大いなるインパクトを与えて終わり、学生さん達はいつもの部屋に戻られ、業務最後の日報を書く段になって、業務時間の大半を削ってフォローをしてこられた常務さんと、お互いに涙、涙で別れのコミュニケーションを交わされていた。

双方ともが忘れられない強烈な想い出として、このインターンシップの記憶が残るのだろうなあ。
その後、これまた三共精機さんの取り計らいで、インターンシップ最終日の打ち上げが社内イベント的にビアレストランの個室で行われた。

インターンシップ最終プレゼン2

あっ、私のお手伝いしたこと。
学生さん達へプレゼン提案に向けての技術的・戦略的な物事の捉え方伝授係。

それと学生さんのプレゼン終了後の一言。
私は社員さん達のコーチングに来た人間ではないので、役員の方達でも決して発言しないであろうような、痛い発言、一部の社員さんからは悪口で塗り固められて罵倒された気分になってしまわれかねないような発言を連発させていただいた。
もちろん、悪気があるわけでもなく、新たなステップにチャレンジする資格のある、世の中の数少ない企業の一員であることの自覚を持っていただき、今までのやってきた全ての仕事のやり方について日々気づきのある日々を送っていただく姿勢を持続していただくよう気を引き締めていただくための。
言いっぱなしのフォローなしであるが、たとえ私に悪意を持っていただいたとしても、近いうちに悪意を持っているヒマなどないことが実感としてすぐわかってくるだろうから、私自身としては全く構わない。

さて、そろそろ寝ることにするが、今頃学生さん達は社員さん達とカラオケで大盛り上がりの最中なんだろうな(^^;

2006/08/30 水曜日

指揮者=トップマネジメント論の細部

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 06:29:07

別サイトで、なまじコラムなんぞ書いてみると、チェリビダッケのことについてもう少し詳しく知りたくなり、1冊読んでみた。

クラウス・ヴァイラー『評伝 チェリビダッケ』 クラウス・ヴァイラー『評伝 チェリビダッケ』

決して学術的なものではなく、かなりチェリ贔屓な立場から書かれているものではあるが、チェリのベルリン時代から面識のある著者が、数え切れないほど演奏会で聴いてきた経験だけでなく、多くの新聞評、インタビュー記事なども参照しながら書き上げたものだ。

読んでみての感想は、ここでは書かない。

私が気になっていたのは、ドラッカーの語るトップマネジメントについて、オーケストラと指揮者がモデルにされているのは、本当に有効な考え方なんだろうかということ。

ドラッカーが語るのであれば、実際にマエストロ・チェリビダッケを持ち出して、トップマネジメントを語ってみようと思い、コラムを書いたわけだった。→「知識社会のトップマネジメント

コラムを書く際のベースとなったのは、ライブ演奏のCDとリハーサルの一部を収録したCD、それと1980年に行った来日コンサートの記憶だけという、乏しい情報から書いたのであった。
書いてから、私のチェリについての認識が、とんでもない誤解ばかりしているのではないかと少し不安になってきたので、本書を読んでみたのである。

結論的には私のチェリについての認識は、大きくはズレてはいなかったように思う。
だから、ドラッカーの指摘に間違いさえなければ、私のコラムも多少は参考になるかもしれない。

しかし、私が取り上げた指揮者の事例がチェリビダッケであったということが大きな問題!!

チェリとCDを量産している人気指揮者の多くとでは、実際の演奏・音楽に対する考え方・楽団員との接し方などあらゆる点で水と油ほどの違いがあるのだ!!

それを批評家の許光俊氏に言わせれば、チェリビダッケ以外のほとんどの有名指揮者の演奏は「クラシック音楽ではない。それどころか、彼らはクラシック音楽が何かということすら知らないかもしれないの」であり、「そのほとんどは、失礼ながらクズである。」

「クズ」とは全く違うチェリの演奏体験にふれるのがどういうことなのかについて、本書の翻訳者のあとがきにおける発言を拝借すれば、

ひとたび彼の音楽を知ってしまった者は、音楽の聴き方を、世界の見かたを、ひいては自分自身を、変革せずにはいられないのだ。むろんそうして得られる認識は、世の中の体勢の意見と真っ向から対立してしまうものである。今ではふつう、CDをもとに音楽を論じて誰もいっこうに不思議とは思わない。それらの飼い慣らされて牙を抜かれた商品はわれわれに自己変革を要求したりなどしないから、安心してバックグランド・ミュージックとして楽しめるわけだし、なにより現代メディア社会は、そうした快適なお楽しみのレパートリーを加速度的に増加させて、日々消費者を密室での愉悦へと誘ってくれるのだ。(中略)

しかしチェリビダッケは、芸術に秘められた根源的な魅力はCD等メディアにはとうてい取りこみつくせないのだとの、考えてみれば当然の認識に、あくまで固執する。つまり音楽は、所定の規格にあわせて録音されたとたんに、その最も大切な核心部分が失われてしまい、いかようにも加工・複製・反復できる物理的な音、つまりは音楽の死骸の集合体しか残らないというのである。(中略)
人々は音楽の一回的な経験よりも、レコードやCDを「所有」することにより大きな喜びを見出し(フェティシズムの典型的な徴候である)、そこで標本化された死骸を基準に生体を語り始めてしまった。
これに対してチェリビダッケは、この危機から芸術を救い出す唯一の道を、メディアに背を向けるという後ろ向きの選択のなかにかろうじて見出したのだった。(中略)

チェリビダッケの洗礼を受けた耳が彼以外の演奏を聴くと、それらがおしなべて楽譜をただなぞっただけの、棒読みの音のアバウトな集合体にしか聞こえなくなってしまうのは、単にチェリビダッケの個性的演奏に郷愁を覚えるからだけではなく、むしろチェリビダッケ体験を通じて、音楽をつかさどる基本的な原理への洞察がそれら演奏に欠けていることを感じとるようになってしまうからではないかと思われるのである。

というふうに私もなってしまったわけなのであり、チェリのようにやっていくには、社会の多数派とは大いに異なる姿勢を貫いていくことにならざるをえない。
そういう意味において「異端」的な指揮者なチェリが、果たしてトップマネジメントの参考になるのだろうかという疑問を持ってしまわざるをえない。

ひょっとして、他の多くの指揮者のように、いくら複製芸術時代に無批判的に染まりきっていようとも、その姿勢が消費社会の要請に応えているのであれば、そちらのほうが余程トップマネジメントの参考になるということなのだろうか?

この両者における演奏の違いは次のように対比できる。

確かに音楽とは、その自律的に聞こえる個々の音の響きによってだけでも、人を酔わせ、うっとりさせ、悲しませる力をもっている。だから音におぼれ、音の魔力に屈して音楽をそっちのけにした「熱演」を演じてしまってもそれなりにサマになるのであって、どんな音楽会やレコードにも感動する聴衆はいるものである。しかしチェリビダッケは、そうした本質からはずれた地点でのあらぬ感激や涙や絶叫をあくまで排し、音楽の本質的な姿を現せようとする。たとえばカラヤンやマーゼルの指揮が、思いついた箇所をしたたかにうたわせたり誇示したり感きわまったりして人の心をくすぐり酔わせるという意味での美しさに満ちているとしたら、チェリビダッケの音楽は反対に、夾雑物が徹底的に排除されて曲の本質的な構造が浮き彫りになった地点で音楽そのものが自然に立ちあがっていく様子に美しさがあると言えるだろう。

ということだ。
若干表現が上品に説明されているがゆえにわかりにくければ、許氏に従って、

カラヤンの表現はいつでも全開で直接的だ。そして、部分部分の効果が強い印象を残すが、じゃあ全体として何を提示してくるのか、というと、何もない。もしくは陳腐。すぐれた芸術家が必ず持っている異常な繊細さと知性が彼の音楽からは聞こえてこない。何より、曲がどう書かれているかという構造に対する配慮が希薄すぎる。

とでも言うべきか。

複製芸術時代にはカラヤンのような指揮者のほうが、ずっとお金も儲かるやり方でもある(^^;
複製技術に研究熱心で、マニア的にレコーディングにこだわるカラヤンは、その甲斐もあってCDも量産している上、よく売れてもいる。
では、チェリではなくカラヤンのような指揮者のほうが、いまどきのトップマネジメントとして大いに参考となるのだろうか?

ところがコラムで書いたように、楽譜が企業における理念やビジョンのようだとすると、チェリがその本質や構造を浮き彫りにしていくのに対して、カラヤンは部分のインパクトを追求して気をひこうとするだけ。
これなら前者チェリのやり方を指示してしまわざるをえないのではなかろうか。

それともトップマネジメントは、本質には関係のないうわっつらの小手先によって、理念やビジョンを大いに実践しているように見せかけることに大いに力を注げということになるのか?

なぜこれほどまでに指揮者のタイプにこだわるかというと、たとえばチェリビダッケとカラヤンとでは、人間性、練習方法、曲の構築の仕方、音楽論、音楽教育論、メディア論、あらゆることが違いすぎるのである。
どちらかが参考になれば、他の一方は否定しなければならないという絶対的な違いがあるのだ。
そもそもドラッカーの発言があまりにも大雑把であるがために、私なりにもう少し突っ込んだところにまでこだわってみた結果、このような状態になってしまう。

ドラッカーのオーケストラモデルを成立させるためには、本人が考えてもいなかったであろう地点について、一歩突っ込んで検討していかないと、なんともいえないというのが現状である。

2006/08/11 金曜日

企業成功の法則と失敗の法則

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 13:33:16

発売時に購入したまま放置していたジム・コリンズ本を手にとってみる。

ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー【特別編】』 ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー【特別編】』

こちらは『ビジョナリーカンパニー2』の特別編として非営利組織など社会セクターの組織向けに追加された一章を、別冊で発売されたもの。

100ページにも満たないので一瞬で読めてしまう上、「2」の要約として復習的にも読める。

帯に「ドラッカーを継ぐ経営学の巨匠・・・」と書かれているとおり、ドラッカー同様に実践家ではなく研究者ではあるのだが、中に含蓄のある言葉も登場してくるところが特徴。

例えば、著者のいう「第五水準のリーダーシップ」にふれながら、

拳銃を頭に突きつければ、自発的にとるはずのない行動を相手にとらせることもできるだろう。だがこのとき、リーダーシップを発揮しているわけではない。力を行使しているのである。リーダーシップを発揮しているといえるのは、指導に従っている人たちにそうしない自由があるときだけである。(p.35-36)

といった箇所。

ジム・コリンズの中ではとりわけ重要な「針鼠の概念」についても、改めて考えさせられる。

ただ、事例の比較研究だけで発言する研究者であるわけなので、いざ書かれたことを実践しようとすれば、そのようにきれいな形で行っていくには困難がつきまとうことは間違いのないところ。

なぜなら理論と実践との間にそれが繋がっていくための多くの言葉があるはずで、そこは自分自身で考えていかないと何の役にもたたないからだ。

さらには、ジム・コリンズから成功の法則を学ぶのと同様に、畑村氏の失敗学やダニー・ミラーの失敗の経営学からも学んでいくべきだと思う。
成功することよりも、致命的な失敗をしないことのほうが重要なのだ。
ちなみにこのことについてダニー・ミラーは次のように指摘している。

とりわけ劇的な成功を遂げた企業の多くが、こんなにも失敗しやすいのは皮肉なことである。傑出した企業の歴史が、このような事例を繰り返し示している。実際、行き過ぎると成功をもたらした将にその要因、つまり焦点を定め、巧く行くことが立証済みの戦略、自信満々のリーダーシップ、活気溢れる企業文化、更にとりわけこれら全ての相互作用などが、衰退の原因ともなり得るのである。がっしりとした優良組織が、欠陥を抱えた純粋種に変わって行く。豊かな特性を持った者から、行き過ぎた戯画へと移って行き、微妙で繊細な処は全て徐々に失われる。

2006/08/10 木曜日

企画力

Filed under: 講演・講義, 経営戦略 — 咲本 @ 08:05:49

昨夜は事業計画手法の第2回目を行った。

書きながら聴いているBGMはなぜだかショスタコーヴィチ交響曲第11番「1905年」。バルシャイ指揮ケルン放送響の演奏。朝からヤケに暗い曲を聴いても、なぜだかさわやかな気分になれるのであった(^^;

Symphonies Shostakovich、Barshai、Wdr Symphony Orchestra Symphonies Shostakovich、Barshai、Wdr Symphony Orchestra

講義の際にはもちろん事前にしゃべること、議論したいことなど大雑把には決めてはいるが、いざ始まったらどういうふうになっていくかは、その「場」 にもある程度まかせているところもある。

その時に話していたことを応援してくれるような本に、たまたま手が向いていた。

田坂広志『企画力 「共感の物語」を伝える技術と心得』 田坂広志『企画力 「共感の物語」を伝える技術と心得』

田坂氏の本はどの本を手にとっても、簡潔で簡単な言葉によって書かれているけれど、実に深みがある。

だから、誰にでも日本語として簡単に理解できるからといって、誰でも現場でそのように実践できるかというと、まずほとんどの人が実践できないだろう。

なぜなら、田坂氏の求めるだろう戦略論や組織論などの知識と実務経験のレベルがとても高いものを設定されているから。

本書に表面上の言い回しが少し似たようなコンサルの書いたビジネス書も、こういうスタイルが「流行っている」ためなのか一部見受けられるのだけれど、田坂氏の表現を借りるとすれば、それら他の企画力について触れられた似て非なる本は「言葉が軽い」。

いくら文学に接することで本を書く表現力を磨いても、ビジネス書を大量に読破していったとしても、田坂氏のような本にはならないのだ。

ちなみに、田坂氏の考えとミンツバーグの考えとは、田坂氏が一言も発言されていないながらも、多くの共通点が見受けられる。

2006/08/01 火曜日

明日から事業計画手法講座がスタート

Filed under: 講演・講義, 経営戦略 — 咲本 @ 23:53:49

約一年ぶりに『戦略サファリ』をパラパラと見直している。
ヘンリー・ミンツバーグ『戦略サファリ―戦略マネジメント・ガイドブック』 ヘンリー・ミンツバーグ『戦略サファリ―戦略マネジメント・ガイドブック』

これはもう昨年起こったことなのであるが、本の傷みが進行していて目次ページなどは無惨にもはずれてしまっている。
「事業計画手法」の教科書として短期間で1冊終わらせたわけだが、一応教える側となっている私にしても、各章の概要はすぐに理解できたとしても、個々の内容については何回も読まなければ、なかなか自分のものとすることができないのだ。

明日からの始まる今年度の事業計画手法講座でも、本書を教科書として取り上げる。
(そのほかに、参考書として3冊、テキストなしで行う分野もあり、最終的には事業計画書を作成してもらい、発表に至るまでを2時間×12回のコマで行うハードスケジュール)

そもそも、マネジメントには戦略論が欠かせないわけで、その戦略論はというと、チャンドラーやアンゾフ、ポーターらを重視しすぎる傾向にあり、もちろんそれらについても理解はしながらも、他の戦略論も方向性も同じくらいよく理解してバランスを取れるようにすべきである。

また、ドラッカーも各方面でマネジメントの神様のように扱われる傾向にあるが、社会論についてはさすがに鋭いことは認めつつも、ことマネジメントについては明らかな誤解の上に立って語られている側面も含んでおり、例えばドラッカーだけを前提にしてリーダーシップ論を語ろうとしたら、全く役に立たないものになってしまうことも理解いただいて、そこに左右されないリーダーシップを考えていきたい。

さらには、新たな戦略論が登場した場合でも、それがどのような学派に属するもので、どういった位置づけや問題点克服が考えられたものなのか、読めばすぐにわかってしまえるようになっていただく必要がある。

まあいずれにしても、今回二度目の事業計画手法ということで、私自身が一番勉強になるかもしれない(笑)
とはいえ、まず私自身が勉強になるようなものでないと、受講いただく方々にも得るところがないとも言える。

2006/07/17 月曜日

ちょっとアホ!なパーティと自問

Filed under: 経営戦略, イベント — 咲本 @ 22:15:08

ヒューマンフォーラム出路社長の出版記念講演&日本アホ会パーティに参加。

会場の京都タワーホテル入口にはヒューマンフォーラムのスタッフさん達が「イベント用制服」でお出迎えしてくれている。

ヒューマンフォーラム・スタッフ1

ヒューマンフォーラム・スタッフ2

「これが講演会スタッフの制服?」と不謹慎に思うような参加者は、おそらく一人もいなかっただろうし、そもそも「頭のかたい=マジメ」と勘違いしていそうな人達には参加してもらいたくなさそう(笑)

会場は超満員で200名以上が参加していたのではなかろうか。
ホテルの宴会場をワンフロア貸切で開催された。

通常のビジネス系イベントと違うのは、タトゥが入ってますよという感じのアパレル系の参加者、やたら背の高い現役のバレーかバスケットなどのスポーツ選手ですよといった女性参加者が見受けられるところか。
アパレル系参加者は出路社長の仕事関係、スポーツ系参加者はゲスト講演の西田氏つながりなのだろう。

パーティではヒューマンフォーラムスタッフさん達によるパフォーマンスや関係者のアホアホトーク(「アホ」は悪い意味ではない) が炸裂したものとなり、ヒューマンフォーラムの社内イベントがどのような雰囲気なのかを連想できるものであった。

日本アホ会パーティ

下の写真は配布物の一部。
社内報であるヒューマンフォーラム新聞と過去の社内エピソードをマンガにした冊子。

ヒューマンフォーラム新聞

イベント上だけでなく、普段の事業でも「ちょっとアホ」を徹底的に実践していかれている会社であり、2坪のショップで創業後、10年で年商57億、経常利益率12%の古着屋さんに成長され、まだまだ右肩上がりが続いていきそうなパワーを持たれた会社。

確かに必要なことは素早く勉強してしまうことなんて当たり前であり、そのような理論をはるかに突き抜けていく実践力がないと、事業は伸びまへんわ。

出路社長の目から世間の企業を見たら、ほとんどのところは「マジメで必死にやっていることが成功に繋がるという大きな勘違いをしている」と映ったり、「ものすごく実践していると本人が思っているだけで超スローモーションでしか動いていない」ということになるんだろうな。きっと。

これって出路社長がどのように認識しているかどうかはおいといて、最近関心を持っている「自問」することと直結するぞと、すとんと腑に落ちた。

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