2006/08/18 金曜日

宮沢賢治の童話「貝の火」

Filed under: 読書 — 咲本 @ 07:49:46

この夏読んだ小説の中では、宮沢賢治の初期の短編童話が最も面白かった。

宮沢賢治全集 (5) 宮沢賢治全集 (5)(ちくま文庫)

確かNHK教育テレビの番組で、女優で著作も多い本上まなみさんが本書所収の「貝の火」をオススメ&朗読しているのをたまたま見たからという、ミーハーな動機により読んでみた。

童話でもあり、読もうと思えばすぐ読んでしまえるのだが、「貝の火」はとても不思議な物語だ。
本上さんも言っていたが、そもそもなぜ「貝の火」というタイトルなのかすらわからない。

あることで善行を行った子ウサギが誰もがうらやむ宝物をもらってから失明するまでの6日間が語られたものだ。
子ウサギがあるきっかけで天上界に昇りつめはしたものの、そこからあっという間に落ちていく。

宮沢賢治は仏教の影響が強いはずなので、これは万物が決して逃れることができない因果律に縛られた中で、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六道をぐるぐる輪廻するしかないさまを描いているように思った。
ちなみに地獄、餓鬼等々はもちろん地理的場所を指しているのではなく、魂の状態のことである。
たまたまカネがザクザク入ってくるようになる状態は天上界で、逆にカネが欲しくてたまらないのに入ってこないのは餓鬼界である。
これらは因果律によって、天上界から地獄界にすってんころりんと落ちてしまうことが必ず起こるので、現在天上界であったとしてもそれが良いことでもないし、そもそも天上界の上にさらに声聞、縁覚、菩薩、仏と4つあるわけで、究極は仏界にいかないと、この輪廻する世界からは逃れられないのだ。

地獄界はまだダメなのがわかりやすいからマシなんだけど、一番やっかいなのは天上界。
ビジネス書で語られている「成功」というのは、主としてこの天上界のことを指す。
だから成功を企てて計画したことがうまくいくこと自体はいいとしても、ビジネスで「成功」することは、実はあまり手放しで褒められることとはいえない。
このようなことを言い出すと、「ではビジネスで成功することがダメなのか?」と、一部単細胞な人が思うのかもしれない。

ビジネスで「成功」すると、いくら謙虚でいるつもりであっても本人の気がつかないうちに増上慢になる。
そうすると必ず地獄に一直線に落ちることになる。
ほかにも言い出すとキリがないので詳しいことはやめておくが、要は良い・悪いや成功・失敗というのは六道をぐるぐる回っていくだけの世間的常識の範囲内での価値観では判断しやすいが、菩薩・仏を含めたら、その価値観がひっくりかえったりして常識では理解不能な世界となっていく。
さて、盲目になった子ウサギにお父さんは最後にこのように言っている。

「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

もう一度いうと、天上界は目標にするほど素晴らしいものでもなんでもない。

2006/08/16 水曜日

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その5(最終回)

Filed under: 読書 — 咲本 @ 01:35:27

中公新書で現在入手できる古典的名著をオススメするコラムの最終回。

清水博『生命を捉えなおす―生きている状態とは何か』

清水博『生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理』

同じ著者による本であるが、前者と後者とで大きな違いがある。
前者が書かれたのは東大教授時代であり、後者は定年退官後に他大学に移られてからのものである。
前者は「自己組織化論」に至る分子生物学の国内最高峰の研究として注目され続けてきた重要書籍であり、後者は基礎的研究から導かれる結論を語るのには「東大教授」というしがらみというか制約のようなものがつきまとっていた著者が、それらから自由になった立場になったあとになってから、思想としての自己組織化論に突っ込んでいるものである。

一般的には前者の本が圧倒的に重要だと思われているだろうが、学術的な内容であるので多少敷居が高いかもしれない。

後者になると、前者から導き出された結論を思想的に応用していこうということになり、「場の創出」「共創」「創造性」といったキーワードに興味がある人であれば、普通に読んでいけるものとなっているだろうし、断然面白い。

本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』

こちらは最早説明の必要がない超ベストセラー。

先程の清水氏にしろ本川氏にしろ、たとえ比喩的であれビジネス系に応用できそうな内容であれば人気がでるということなのだろうか。

榊原清則『企業ドメインの戦略論―構想の大きな会社とは』

「企業ドメイン」をテーマにした書籍というのは、あるようでいて意外に見かけない。
戦略論の入門としてはずせないテーマでありながらも。

そういった意味でも本書は「いまさら知らないでは格好悪いし‥」という方にとっても、短時間で明解に理解できる良書だといえる。

なんとなくわかっているつもりという人にとっても、ここがわかっていないと戦略論には入っていけない入口として復習するのにもちょうどよい。

以上、お盆期間ということもあり、5回にわたってなぜだか中公新書の中から紹介してきた。
手もとに本がないものがほとんどなので、勘違いや誤解があればごめんなさい。

この数日間(というか、いつものことと言ってもよいほど)、チェリビダッケが指揮する曲を何度も何度も聴いている。
これ以上のやさしく美しいサウンドは今後とも登場しないのではないかと思わせる天才チェリの音楽については以前のエントリーでも何度かふれたことがあるが、改めてウィキペディアから引用すると、

セルジュ・チェリビダッケ - Wikipedia
音楽は【無】であって言葉で語ることはできない。ただ【体験】のみだ。」というのがもっともシンプルにまとめられた彼の音楽論であろう。しばしば行われ た「音楽現象学」の講義はさまざまな疑問を投げかけながら高慢な学生の鼻を折るどちらかというと意地悪なものであったようだが、その本質には「始まりの中 に終わりがある」という思想が貫かれている。

実際の演奏に関しては、楽曲の徹底した構造分析と、モチーフによる構成の統一。時にはそのモチーフの同一性を強調するために極端なテンポ・音程の改変が採用されている。(中略)

またハーモニーの純度・楽器間のバランスも徹底的に追求され、彼のトレーニングしたオーケストラは徹底的に室内楽的な「聞き合い」を要求されることにな る。また弦楽器の肥大した現代オーケストラにおいては、木管楽器の増強がしばしば見られるが、そのことにより、全奏時においても木管楽器の存在感は際立っ ている。

総じて晩年のテンポが非常に遅い事で知られている。再晩年のスペインで演奏されたブルックナーの交響曲第8番は105分かかっている(普通は約80 分)。その思想的根拠はどこにあったか、を考えてみると、音楽を構成する諸要素が自律的な法則に従いながら生成・発展する、という原理原則を徹底しようと したことによるのではないかと思われる。そこには、演奏者の解釈や気まぐれといった要素を極力排除し、楽器同士のモチーフの完璧な受け渡し、どんなに編成 が大きくなってもハーモニーの透明度を維持しようとした点、そのためオーケストラ全体が一つの生き物として歩むような表現が深化して行く様子がうかがえ る。
(※強調部分は咲本)

言葉にしてみると一応はこういうことになるのだろうが、「目的ではなく結果的には」このような音楽から得られる独特の美学も、実は仕事に大いに関係する。

仮に同じブルックナーの交響曲であっても、ギュンター・ヴァントでもなく朝比奈隆でもなく、チェリからしか感じられない多くのものがある。

チェリビダッケ,ブルックナー:交響曲第8番 Bruckner: Symphony no 9 - In Concert And Rehearsal / Celibidache, Munich PO チェリビダッケ,ブルックナー:交響曲第7番 Bruckner: Symphony No. 6 チェリビダッケ,ブルックナー:交響曲第4番 Bruckner: Symphony no 5 / Celibidache, Munich PO

言葉にはできないので、何度も演奏を聴いて体験する。

言葉にできることは、今回何冊もご紹介したような書籍から、主として「問いの立て方」や「思考プロセス」 を学んでいけばよい。
そういうことなので、ご紹介した本にはハウ・ツーものが1冊もなかったはず。
たとえハウ・ツー本を1000冊読んでも、思考プロセスなき答えや鋭い問いのない答えからは、得られるものはほとんどないと思っておいてちょうどよいのだ。

本文と関係のない追記

コミック「のだめカンタービレ」が月9フジテレビでドラマ化決定ばんざ〜い(^^;

のだめカンタービレ(1)のだめカンタービレ (2)のだめカンタービレ (3)のだめカンタービレ (4)のだめカンタービレ (5)のだめカンタービレ (6)のだめカンタービレ (7)のだめカンタービレ (8)のだめカンタービレ (9)

のだめカンタービレ (10) のだめカンタービレ (11) のだめカンタービレ (12) のだめカンタービレ (13) のだめカンタービレ (14) のだめカンタービレ (15)

2006/08/15 火曜日

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その4

Filed under: 読書 — 咲本 @ 02:34:55

古い中公新書の中からのオススメ書、第4弾。

阿部謹也『刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活』

私の中では西欧中世史といえば阿部謹也、日本中世史といえば網野善彦。
両者とも社会史というか、当時の庶民の生活に焦点を当てた歴史家である。
彼らの異色の研究が、それまで権力側の歴史ばかりが語られてきた趨勢への強烈なアンチテーゼとなった。

本書が手もとになく、代わりといってはなんだが著者の代表作ともいえる『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』からこのことを引用すると、

では民衆史を中心にした社会史はどうしたら可能なのか。これが本書に課した大きな課題である。この課題は何よりもまず、これまでの歴史研究、すなわち生活現実を理知的に解明せんとして、長い間知識人が行ってきた知的営為そのものに対する批判的反省として、出発しなければならないであろう。

ということになるだろうし、

歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内面と呼応しない歴史を私は理解することができない

という基本姿勢でのぞんでいるのだ。

フランスでは20世紀前半から細々とした研究活動として、雑誌「アナール」を舞台に社会史研究のような動きがあり、この潮流を後になって「アナール学派」と呼ばれ、商人の活動を浮き彫りにすることで資本主義発生前の商業の起源に迫るフェルナン・ブローデルの『交換のはたらき1』『交換のはたらき2』といった名著もこの系譜に含まれる。

国内ではこの2人が今では増えてきつつある社会史的な研究への道を切り開いた先駆者であり、当時はそんなことを知らずして読んだ記憶がある。

阿部氏は本来なら王道とはいえなかったであろう研究が評価されたためなのか、近年では一橋大の学長にまでのぼりつめられ、研究領域も西欧史にとどまらず社会史的視点で日本を研究した『「世間」とは何か』(講談社現代新書)といった本まで出ている。

三木成夫『胎児の世界―人類の生命記憶』

↑の存在は、吉本隆明の思想書の中では最も重要だと思われる一つなのに、なぜだか現在品切れしたままの『心的現象論序説 改訂新版』と深い関係にあることが、著者のエッセーからわかったことが読んでみたいと思うきっかけとなった。

例えば『心とは何か―心的現象論入門』所収の「三木成夫について」というエッセーにも書かれているとおり、

<こころ>とわたしたちが呼んでいるものは内蔵のうごきとむすびつくことを第一義としたあるひとつの表出です。また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよいわけです。わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以後の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できる見とおしが得られました。もちろん内臓系の<こころ>のうごきはわたしの定義している自己表出の根源であり、体壁系の感覚器官のはたらきは指示表出の根源をつくっています。
この著者への頌辞になるかどうかわかりませんが、知識に目覚めたはじめの時期に、もっとはやくこの著者の仕事に出あっていたら、いまよりましな仕事ができていただろうに、そんなすべのない後悔をしてみることがあります。ひとりでもおおくの読者が、こんな後悔をしないように、とこの解説を試みました。(p.133)

と、吉本氏が折にふれて絶賛されているからであった。

確かに読んでみると、解剖学者なのにひとつの文学でもあるかのように面白い。

時代の寵児であるかのような存在となっている養老孟司氏も脳の解剖学者であるが、鋭い指摘がなされているにもかかわらず昔から違和感を感じてしまうのは、養老氏の理論が意識的に大脳部分だけを取り上げた議論を展開している点においてである。

理論自体は説得力があるように見えても、よ〜く考えてみると極論であり片手落ちの感があるのはそのためなのだ。

養老氏の本を読んだ後に三木氏の本を読むと、バランス感覚を取り戻したように爽快な気分となるのは、私だけではないことであろう。

綾部恒雄『文化人類学15の理論』

祖父江孝男『文化人類学入門』

後者の本は最初に読んだのが高校1年の頃だったと思う。
私がはじめて学問に興味を持ったのが本書によってである。

今でも改訂版として発売されているのを嬉しく思う。

正直言って、現在の文化人類学の進展具合からすると古くさいといえなくもない。

しかし、発行された時点ではまだ文化人類学という学問についての認知度もそれほど高くはなく、まずは興味をもってもらうことを目的の啓蒙書という位置づけでは大成功してきた本だといえる。

中味は文化人類学の概要にとどまらず、国立民族学博物館などの施設情報やオススメの専門書、専門的に勉強できる大学の一覧や、人類学者が学部では周辺分野を専攻し、大学院で人類学を専攻するパターンが多いということまで、興味を持った人のためのガイドがたいへん充実していた記憶が残っている。

興味を持った人は前者の本でさらに理解を深めていけばよい。

ちなみに私は祖父江氏の本の影響をまともに受けて、高校時代はずっと考古学ならぬ先史学を大学で勉強して、その後大学院に進み、文化人類学を研究しようと思っていた。
実際には全くそんなことにはならなかったが(^^;

2006/08/14 月曜日

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その3

Filed under: 読書 — 咲本 @ 17:44:59

今でも発売されている中公新書名作のその3。

江上波夫『騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ』

上山春平『照葉樹林文化―日本文化の深層』

↑の2つの本は日本文化の起源にかかわる論議を活発化させた代表的なもの。

騎馬民族が日本に来て国家を建てたという説は、現在ではこっぱ微塵に粉砕されてしまった感があるが、照葉樹林文化論は未だに生き続けている。
著者は私が高校生だった頃、山川出版社版の世界史教科書の執筆者か監修者だった記憶があり、日本文明の発生に限らない、世界の古代文明を専門とする権威。

後者のほうは、当時ベストセラーとなったことで、著者の上山氏が中公新書から今は絶版となっている『照葉樹林文化 続―東アジア文化の源流 (2)』『稲作文化―照葉樹林文化の展開』と続編を出していくのではあるが、著者の専門は宗教学なのであって、発行部数に関係なく本来的な専門家の本としてピックアップするのであれば、NHKブックスから出た佐々木高明『稲作以前』や、古典的なところでは岩波新書の中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』といったところになるのではなかろうか。

こういった論争からしばらくすると、ここから派生したかもしれない議論として「あなたは縄文人?それとも弥生人?」なんていう話もあるにはあったが、そんなバラエティ番組のようなテーマだけを問題にするよりも、ウイルス学から日本人のルーツを探り、今や絶版となっている中公新書、日沼頼夫『新ウイルス物語―日本人の起源を探る』のほうに私は衝撃をおぼえた。

縄文人の末裔が比較的高い比率で残っていそうな島の白血病羅患率と都道府県調査など各種統計データと比較していきながら、日沼氏は縄文人は弥生人と較べて白血病にかかりやすかったという仮説を導き出す。
そして、縄文人よりも「進んだ文化」を持った弥生人に武力によって滅ぼされたと主張する人達が多いとはいえ、「進んだ文化」と主張する説得的な根拠は乏しいのであり、とすると一時期に縄文人が白血病で大量に死に、弱りきっていた縄文人に弥生人がとどめの一撃をくらわしたと考えられなくもない。
そんな仮説の可能性成立を大いに考えさせてくれるのであった。

高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上)』

高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (下)』

↑本書が名著たるイメージは未だに持ってはいるものの、正直なところ内容は忘れてしまった。
とにかく、よかった(^^;

なぜなら、アートに特別関心を持っていなかった当時20歳前後だった私が、本書を読んでから近現代美術に興味を持ちはじめ、特別展開催情報をチェックしながら美術館巡りをし始めたのだから。

あと、本のことでいえば、画家の画集は高価なものが多く、貧乏学生だった私が見つけたのが「新潮美術文庫」という1000円程度で買えるシリーズもので、現在も一部の本が発売されている。

河合隼雄『無意識の構造』

↑本書は著者が75年にカール・グスタフ・ユングの主著となる『人間と象徴 上巻―無意識の世界』『下巻』とを翻訳した後、77年に出したユング心理学入門書。

今でこそ著者は日本を代表するユング心理学の大家ではあるが、当時は現在のようにカウンセリングや心理療法が一般的とはいえなかった状況のもとで書かれたのであって、これほどコンパクトにうまくまとめられたユング心理学の入門書は、未だに他には見かけないのではなかろうか。

まだユング心理学をかじったことがないという人には、今でも自信をもって本書をオススメできる。

2006/08/13 日曜日

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その2

Filed under: 読書 — 咲本 @ 22:41:44

中公新書における名著のご紹介その2。
今回から個々の書籍説明に入ります。

川喜田二郎『発想法―創造性開発のために』

川喜田二郎『発想法 (続)』

↑上の2つは野口悠紀雄『「超」整理法―情報検索と発想の新システム』が93年に発売され、大ベストセラーとなるはるかに前、60年代に出た超ロングセラー。
人類学者たる川喜田氏がアイデアの断片から考えをまとめるための方法が公開されたもの。
いわゆる「KJ法」としてたいへん有名になった創造性開発の方法が書かれている。

当時、野口悠紀雄氏の本にあたるのが、KJ法が紹介された本書と梅棹忠夫『知的生産の技術』であった。

そもそも本書と梅棹氏の本に興味を持った理由は、文化人類学に並々ならぬ関心を持っていたからで、川喜田氏は有名な文化人類学者、梅棹氏は国立民族学博物館の館長だったことによる。

当18歳だった私もこの2人の著者に大きな影響を受けた結果、↓のような3ミリ方眼の入った野帳と呼ばれるものを常にポケットに忍ばせ、気になったことをメモしたり、スケッチや図にして書き残しておくことを常としていた。(ちょうど現在ならデジカメとボイスレコーダーを持ち歩いているような感覚かも。)

野帳

あと、↓のようなB6版の通称「京大型カード」なんて呼ばれるものを講義ノート代わりや読書メモなんかに使っていた。

京大型カード

普通のノートに記入するのではなく、1枚に1項目記入ということになり、あとになってKJ法的に使ってみたり、順序を入れ替えたりするのに便利だと思ったからである。

さすがに普段使用することはなくなったが、ブレインストーミングの時には、現在でもこのようなカードを使用したほうが便利なケースが見受けられるわけであり、発想法の原点に立ち返る意味で、ふりかえって読んでみたら新たな気づきがあるのではと思わせる本である。

中村雄二郎『哲学入門―生き方の確実な基礎』

私の哲学入門書との出会いは、おそらく中村氏の↑がはじめてだったように思う。

本当なら難解に記述されるような事柄を、不思議なくらいに簡単で明解に書かれる中村氏の本には随分とお世話になってきた。
では簡単な話かと改めて考え出すと、とっても難解なことを問題にされていたことに後になって気づく。

中村氏の本の軽やかさは、その後岩波新書から発売された『哲学の現在―生きること考えること』という本書の続編にあたるものや、現代思想にかかわるキーワードを簡潔に説明してみせた『術語集―気になることば』といったもの(後年さらなる続編も出る)など、気むずかしい大御所らしからぬ本が次々と世に出て行ったのであった。

その後も『共通感覚論』を読んだことで、今でも流行っている五感の復権論が依って立つところの底の浅さを見透かすことができるし、『魔女ランダ考―演劇的知とはなにか』を読み、「演劇的知」について中村氏が発想された原点たるバリ島の舞踊にも興味を持ち、バリ島の舞踊団来日公演を見に行った記憶もある。
(さらにその後も著者は岩波書店を中心に著作を量産していった。)
哲学書なんて頭が痛くなりそうと先入観を持っている人は多いのだろうが、私にとっては中村氏の著作と出会ったことで、「哲学はオモロい」との印象を持つようになったのであった。

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その1

Filed under: 読書 — 咲本 @ 00:53:08

夏休みの時期らしく?読書コーナー(^^;

中公新書って昔からお世話になってきているが、改めてふりかえってみると名著というべきものを実に多く出してきていると思う。

新書の中では、岩波新書は出版界では王様というか、テレビでいうNHKみたいな存在なので、このテレビ局に出演できない有名人がたくさん存在するか のごとく、書き手の中にも岩波からお声がかからない優秀な人達がたくさんいるわけで、現在のように多くの出版社から新書が発行されるようになるはるかに前 から、必ずしも岩波からお声がかかるわけでもない書き手を含めてずっと発行を続けてきたわけなのだ。
(中公新書で認められた上で、のちに岩波新書でも発行された著者も多い)
そんな中公新書の中から私が名著だと思ったものに限って、しかも10年以上前に発行されたもので現在もなお発売されているものだけからピックアップしてみたい。

ただし私の手もとには一冊もなく、記憶をたどって書いていくため、いくつか誤解や勘違いをしている可能性がある。
それと、私にはワケがあって、90年代は98年くらいまで全くといってよいほど読書をしなかった。
その間テレビも観ず新聞も読まず、流行ったであろう音楽も全く聴かなかった。
といった、ちょっとした浦島太郎状態ともいえる時期があるので、結果的に下記に登場する本のほとんどが90年以前のものであるかと思う。
今回ふりかえってみて気づいたのは、良書がたくさんあったのに、品切れまたは絶版となってしまっているケースの多さ。
いったんは経営破綻した出版社なので無理に在庫は抱え込みたくない気持ちはわかるが、新刊書の発行点数が倍増していくことにともなって、出版後の本の寿命が短くなっていく傾向が強まったことは残念でならない。

下記が今後何回かに分けて紹介する予定の本一覧。(順不同)

川喜田二郎『発想法―創造性開発のために』

川喜田二郎『発想法 (続)』

中村雄二郎『哲学入門―生き方の確実な基礎』

江上波夫『騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ』

上山春平『照葉樹林文化―日本文化の深層』

高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上)』

高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (下)』

河合隼雄『無意識の構造』

阿部謹也『刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活』

三木成夫『胎児の世界―人類の生命記憶』

祖父江孝男『文化人類学入門』

綾部恒雄『文化人類学15の理論』

清水博『生命を捉えなおす―生きている状態とは何か』

清水博『生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理』

榊原清則『企業ドメインの戦略論―構想の大きな会社とは』

本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』

2006/08/07 月曜日

自由とは何か(長文)

Filed under: 読書 — 咲本 @ 07:01:47

「自由とは何か」
これまたベタなテーマに見えるかもしれないが、私たちって表向きは自由主義社会で安穏としていられて恵まれた環境であるように見えつつも、本当のところは全然自由じゃないんだよね。

ポストモダニズムだかなんだか知らないが、そんなことを標榜しそうな若手社会学者の本などからは、言葉遊びのような発言が多く見受けられるばかりで、そろそろそんなことはやめて本番の話に入ってねと思うばかりである。
まあ、銭儲けに関するヒントが得やすそうな議論がなされていることは否定はしないが(笑)
そんな中、リベラリズム研究者、佐伯啓思氏による本書は、誰にでもわかるようにかみ砕かれた論理で「イラク戦争と人質事件における自己責任論」や「神戸の酒鬼薔薇事件」、「個人の自由と開き直る援助交際」といった問題を取り上げながら、著者自身がもつ違和感や疑問から出発して、自由といわれている構造に迫っていこうとしていて、読んでいてなるほど!と思わせてくれるものであった。

かなり、かなり、オススメの良書である!

佐伯啓思『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』 佐伯啓思『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』

ここで著者は現代のリベラリズムには3つの柱があると説く。

(1)価値についての主観主義、および、「正義(自由の権利)」の「価値(善)」に対する優位」、(2)中立的国家、(3)自発的交換、の三つの柱である。この柱を前提にして言い換えれば、現代のリベラリズムの立場は、基本的に個人の価値の多様性を認め、それを尊重する、そのためには、「自由への平等な権利」という正義の原則がまずは確立していなければならない、そのもとで、国家は中立性を守るべきであり、また諸個人の主要な社会的行為は個人の自発的な交換としてなされるべきだというのである。(p.159-160)

だから例えば、援助交際をしている女子高生の「誰に迷惑をかけているわけでもないから、ほっといて!」との主張に対して、善より自由の権利が優位となるリベラリズムの考え「だけ」によっては、簡単には反論しにくくなる。

また、市場経済における社会的価値観の話が出てきて、著者は4つの考えが存在すると指摘する。

(A) 市場中心主義:「市場を形式上の機会の均等さえ満たされればよしとする競争ゲームとみなす」
(B) 能力主義:「市場競争が望ましいのは、個人の能力やら努力が報われるから」であり、それによらない不労所得や投機的利益に対しては、税をかけたり禁止したりすべきである
(C) 福祉主義:「市場競争がその人の人生のすべてを決めてしまうというのはいささか酷なこと」であり、「弱者に対しては福祉給付や所得再分配などによって補償すべきである」
(D) 是正主義:「市場競争とはいっても、初期条件において人々は違った立場に置かれてしまっている」のであり、「初期条件をできるだけ平等化するために政府が積極的な役割を果たすべきである」

このように整理してもらえると、たいへんわかりやすくなる。

ここで補足しておかなければいけないのは、これら4つの立場をうまく混ぜ合わせた政策を政府が行うということは不可能であるということだ。

4つの立場はそれぞれ全く違うわけだが、これら全てに共通することがあると著者は指摘する。

それはそれぞれなりに、『個人は何に「値するか」をめぐって議論している』という点にある。

すなわち、この4つのモデルが指し示している共通点は、

すべてある種の道徳的価値を含んでいるのである。言い換えれば、ここにはそれぞれ「善についての構想」が存在する。どのとうに活動することが望ましい(賞賛される)かについて社会的な了解が成り立っているのである。そこでは道徳的価値観に基づいた「善についての構想」がインプリシット(暗黙)に想定されており、その「善についての構想」に基づいて、それぞれに特有な「社会モデル」が暗黙のうちに想定されていることになる。(p.216)

そして、この何を善とするのか、望ましい活動とされるのかという「社会的価値観はあくまで集団による選択できまる」のである。

ここに恐ろしくもリベラリズムの価値観の転倒が起こる。
すなわち、本来「(1)価値についての主観主義、および、「正義(自由の権利)」の「価値(善)」に対する優位」であるはずのリベラリズムの原理が逆転するのだ。

この選択は個人の嗜好に基づく選択ではなく、集団の選択だということだ。個人は、個人としてではなく、集団として選択し、場合によっては集団の決定に従属することになる。
この時、個人はリベラリズムのいう「自由」を失わざるを得ない。なぜなら、この四つのタイプの社会の選択は、善についての構想の選択であり、善についての価値観を画一化することにほかならないからである。四つのタイプによって善についての考え方が違っており、想定している生き方のモデルが違っているということである。
だから、ひとつの社会がこれらの善に関する想定のうちのひとつを選ぶということは、ある意味で、生き方についての個人の選択の自由は排除されたことを意味している。(p.217-218)

著者はあくまでも冷静に議論を展開していっているが、たいへん恐ろしい議論をしていることになる。

繰り返すと、「生き方についての個人の自由は排除された」のが、現代社会なのである。

次期首相選が近く控えているが、首相候補が上記4つのモデルのうち、どの社会にしていきたいのかということは、好き勝手言いたい放題で無責任極まりない評論家の意見など参考にすることもなく、誰もが明確に認識しなければならない自らの生き方にかかわるたいへん重要な問題なのである。

そのほかにも重要な指摘がいくつも出てきて、例えば、近代社会を構成する重要な価値として「生命尊重主義」「抑圧からの解放」「合理的な実証主義」の3つが挙げられていて、ところがこれらは「手段」や「条件」にはなりえても、「目的」にはなりえない。
「手段・目的」があって「目的」はお好きにどうぞというのは価値観の転倒といわざるをえないのだ。

いずれにせよ、私たちは社会の価値観に従属するばかりであって、それ以外の道が残されていないのだろうか?

ポストモダニズムの思想家達は今までこの段階で自爆してきた。

例えば、フーコーの権力論であれば、現代のあらゆるところに、知らないうちに監視され訓練を受け教育される監獄の存在を発見していく。
この場合の権力とは必ずしも官庁のようなものだけを指すわけではなく、あらゆる科学的知識が権力として作用する構図となっていたりして、誰もが簡単に気づかないようなところにまで権力が及んでいるのであった。

ではそのような権力による監獄から自由となるにはどうずればよいのかというと、人間関係のあらゆるところに出てくる権力全てにさからう具体策などあるわけもなく、結局はポストモダニズムは破綻してしまったのであった。

ポストモダニズムのエース的存在であったドゥルーズの自殺、そしてフーコーもエイズにより死去してしまうことは衝撃的であり、象徴的でもあった。

著者はどうかというと、ここで自らの「宿命の自覚」、それと「義」という古典的な思想を持ち込む。

「宿命の自覚」とは次のようなことである。

宿命を自覚するとは、結局、猶予期間である自分の生に意味を与えるものはいったい何かを自問することだ。余計なもの、本質的でないものを捨てていけばいったい何が残るのか。社会的な名誉や地位、さしておもしろくもない付き合い、会社の肩書き、また自己利益へのこだわり、我執、多少の金銭への愛着、こうしたものを捨てていって何が残るか、とわれわれは自問する。そこで最終的に残ったものを自分の宿命として引き受ける。(中略)
確かに、「生」の宿命的な選択も自由な選択には違いない。しかし、それは、人それぞれの幸福を自由に選択して追求するという議論とは何の関係もない。「死」へ向けた覚悟という次元の選択(決断)は、むしろ何を自分の義務として、それを共同体(死者)に対する責務として引き受けるかという選択である。そこにこそ本当の自由というものの意味がある。(p.254-255)

一方の「義」については、

それは、多様なレベルの共同体の規範を超えたいっそう超越的な規範への自発的な従属である。それを本書では「義」と呼んだ。いや「義」としかいいようのない「何か」がわれわれを動かしているということである。
定言命法といってもよいし、東洋思想のように天といっても、また道といってもよいだろう。儒教のように五倫といってもよいし、仏教のように六度といってもよい。それは、国家や共同体の他者からの評価や評判を超えたものだ。もしも、戦時中のように、「お国のために死ぬこと」が絶対的な意味を持つとするのなら、それは国家が絶対的な権力を有しているからではなく、「お国のために身をささげることが、ある状況では義にかなう」とされるからである。(p.279-280)

「宿命の自覚」や「義」というところに著者が一歩踏み込んだところに、この著者は並の学者じゃないなあという意味で拍手を送りたい。
本当ならここまで問題を大きくせずに無難なところで話を終わらせてしまってもよかったのかもしれない。
とりわけ著者は京都大学の教授という肩書があるがゆえに、「宿命の自覚」という議論はハイデガーの『存在と時間』とナチスとの結びつきが云々されることとかかわってくるし、さらにはテロリズムや新興カルト宗教ともかぶってしまう「義」という価値観を語ったりするのは、その言説に大きな危険をともなうのだ。
さすがに下記のように補足することで、その危険度を薄め、バランスを取ろうとはされてはいるが。

確かに多くの「義」は独りよがりの偏狭なものであろう。だが本当は、彼らの「義」があまりにも独断的で不都合なものであったか否かは、実際には、歴史の中でしかわからないものなのである。歴史だけが審判者であり、歴史だけがそれをふるいにかけていく。われわれができることは、われわれの「義」によって、それと対抗することだけである。(p.281-282)

とすれば、問題は、いかにそれらを信じるか、にこそある。そして重要なことは、あまりに軽々と信念の対象を変えてゆく「軽信」でもなく、また、逆にひとつの信条を深く絶対化して顧みない「盲信」でもなく、その中庸に道を求め、その両極端を避けることである、「中道」とは足して二で割ることではない。たとえば仏教でいう「中道」とは、正しい道に中る(あたる)ことにほかならない。「信じること」のバランスをとるとは、「信じる」ことのこの両極端を排することによって、適切に「信じる」ことだ。ポストモダン的シニシズムでもなく、超俗的なファンダメンタリズムでもなく、そのバランスをとること、そこにこそ適切な「信じること」がある。このバランスこそはアリストテレスが「徳」のもっとも中心的な意味と考えたものであった。(p.282-283)

このように「宿命の自覚」や「義」なんてことを持ち込むことを古くさいと決めつけるのはよくない。
そこが定まっていかない限り、精神の空洞化が起こりうるのだろうし、カルト宗教に走ったり、ニートになってしまったりという現代的問題も「宿命の自覚」や「義」の不在から起こるといえるのではなかろうか。

ちなみに著者は別の本では次のようにも言っている。

佐伯啓思『現代日本のリベラリズム』 佐伯啓思『現代日本のリベラリズム』

あらゆることを自分の内面で引き受けるのではなく、外部のメカニズムや機構の問題として処理しようとするとき、われわれはたぶん、精神の空洞化という現代人の最大級の病に侵されることになる。自由の問題を、すべて自分の外部に押し出してしまってはならないのである。抑圧を自己の外部に求め、自己は無限の可能性の中心だなどとするわけにはいかない。逆説的なことに、この仮説を受け入れたとたんに、人は、どんどん自由を失ってゆく。そして、あげくの果てに「精神」まで失ってゆくのだ。(p.99)

しかし、何物にも制約されない自由、などというものは空想の産物でしかない。解脱という無制約な自由もやはりそうだろう。むしろ、人間は、とりわけ個人は、絶対的な不自由から出発する以外にないのであり、またそこで終わる以外にない。われわれはひとつの不自由との交換でひとつの自由を手に入れるにすぎない。しかし、宿命の中に自由を見いだすという内面の作業の中にしか精神はない、とまずは考えるほかない。このような精神の風土が失われつつあることこそがオウムの土壌であり、われわれの現代日本の姿であるように見える。(p.100)

「義」という超越的規範がなく、宿命の中に自由を見いだす作業もなく、残された道があるのだろうか?
良い悪いという価値判断はおいておくとして、現在、多くの人達がよってたっているところに「オタク」というものがあることは間違いなさそうだ。

東浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』 東浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』

近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。
しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいでにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシュミラークルの水準で動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。(p.140)

「動物的な欲求に還元」というところがドゥルーズ=ガタリのいう「欲望する機械」を想起させるが、そのことはここでは取り上げないこととして、このように超越的な価値観たる「義」がなかった場合に、オタク的な世界の中に閉じこもってしまうことで満たすという方向性にいくことも、ある意味、必然的な帰結のように思われるのだ。

しかし、これはさきほど佐伯氏によって批判されていたポストモダン的シニシズムの姿そのものではなかろうか。

最後に再度佐伯氏の発言を引用しておくと、
「信じること」のバランスをとるとは、「信じる」ことのこの両極端を排することによって、適切に「信じる」ことだ。ポストモダン的シニシズムでもなく、超俗的なファンダメンタリズムでもなく、そのバランスをとること、そこにこそ適切な「信じること」がある
のである。

と、ここまできて、突然ではあるが、平田治氏の「自問清掃」の大人版、あるいは鍵山氏の「掃除道」という日々の実践における背景的肉付けということに、やっと自分なりに繋がってきた(^^;

平田治『子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ』 平田治『子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ』

鍵山秀三郎『掃除道 会社が変わる・学校が変わる・社会が変わる』 鍵山秀三郎『掃除道 会社が変わる・学校が変わる・社会が変わる』

2006/07/29 土曜日

身体論からの収穫

Filed under: 読書 — 咲本 @ 20:26:03

身体論関連の本をチョロチョロ拾い読みしてみた。

有名なところでは廣松渉『世界の共同主観的存立構造』市川浩『<身>の構造』中村雄二郎『共通感覚論』
一般的に名前が売れているところで養老孟司『日本人の身体観』『身体の文学史』
そのほかに、湯浅泰雄『身体論』『「気」とは何か』『宗教経験と身体』『気・修行・身体』

養老氏については20年近く前に『唯脳論』を読み、その時に大胆でユニークな切り口だなあとは思いながらも、全てを脳、とりわけ大脳の働きだけで論じられるとの立場に、岸田秀のいわゆる唯幻論以上にえもいわれぬ違和感を感じ、それ以降はしばらく氏の著作に触れることがなくなっていた。
近年大ヒットした『バカの壁』以降になって、違和感を持ってしまうかなあと思いながら読んでみるという感じ。

ところが『日本人の身体観』を読み始めてみると、廣松、市川の両哲学者が取り上げられており、その明解に批判されるお手並みには驚かされた。
これは一つに哲学の長年引きずってきた精神と身体との議論から自由でかつ唯脳論という哲学者にはあり得ない地点から批評していくことによって可能となる。
ちなみに『身体の文学史』において三島由紀夫事件のけなし方も痛快だ。(私はもともと三島が大嫌い)
何はともあれ、養老氏の独特の鋭い批評には恐れ入った。

氏の展開される「脳化社会」という切り口も説得力がある。

ただ依然として残る私の違和感があって、それは人間らしさを司っているのは確かに大脳となるわけだが、他の脳の司る人間における動物性もあるのであり、そこをバッサリ切り捨ててしまうから議論は明解になる一方で、切り捨てられたものが少なからずあるわけであって、その点において大いに違和感が残るのであった。

ということで今回養老氏の説には今まで感じていた以上の評価すべき点を発見したことは収穫であったわけだが、それ以上に大きかったのは湯浅哲学に初めて接したことだ。

湯浅氏流に言うと、養老氏、廣松氏、市川氏、中村氏の説はいずれも神経回路モデルからいくと、「感覚神経」と「運動神経」 にまつわる発言であることになる。

だが、神経には第三の神経として「自律神経」があるのであった。
それぞれの神経の脳とのつながり方は、感覚神経と運動神経は大脳皮質、自律神経は脳と脊髄の連結部にある脳幹なのである。
大脳皮質は眼や耳といった身体の一定の器官と結びついているが、脳幹は快・不快といった感情・情動と深く関係しているので、全身的なものであって特定の器官とだけ結びついたものではない。

この指摘はものすごく重要なのであるが、感情・情動というところを含めて切り込んでいくことを四人の論者とも行わないわけなのだ。
それはやはり西洋的な心身論の範疇に入ってしまうがゆえの限界というべきか。

哲学・思想系の有名な論客がこのとおり人間のとても重要なところについて無視あるいは想定の範囲外としているくらいなわけだから、当然ビジネス系の論者もそこについては考えがおよぶにいたらない。
例えば、ハーマンモデルも人間の思考構造についてのものなので大脳の話。
情動全般についてはビジネスマンの行動の大きな要素のひとつになるだろうし、お客様の商品の購入というところでも重要なはずなのに。
さて、湯浅氏はそこで西洋的心身論を視野に入れながら、東洋的な心身論を展開していく。
具体的には僧侶や武道、芸能における修行、 あるいは瞑想やヨガ、東洋医学などだ。
こういったところも含めた思想的基盤が「近代」にどっぷり浸かりきってしまった私たちにはどうしても必要だ。
ここで最近読んだ和田登氏の『疲れない体をつくる「和」の身体作法 能に学ぶ深層筋エクササイズ』と個人的にはつながっていく。
あっ、早くロルファーの方にエクササイズの申込しよっと(^^;
安田登『疲れない体をつくる「和」の身体作法―能に学ぶ深層筋エクササイズ』 安田登『疲れない体をつくる「和」の身体作法―能に学ぶ深層筋エクササイズ』

2006/07/28 金曜日

テレビCM崩壊

Filed under: 読書 — 咲本 @ 03:22:54

survey MLの萩原さんやその他多くのブログで話題となっている『テレビCM崩壊』が夕方頃Amazonから届いた。
Joseph Jaffe『テレビCM崩壊 マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0』 Joseph Jaffe『テレビCM崩壊 マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0』

ほかの本を読むつもりだったのだけど、内容が気になっていたこともあって一気に読んでしまった。

読後の感想はというと、「そうそう、そうなんや、うまいことまとめて表現してくれてるなあ」といった感じ。
既存書籍でネットでの体験を深く理解して書き表されたビジネス書籍って意外と少ないものだ。
この書籍はそのへんのツボを的確に指摘していっている。
終了したばかりのインターネット・マーケティング講座がこれから始まるというタイミングであったなら、間違いなく参考書指定していたことであろう。

それにしても、日本語版で付けられた書名、私の中ではほぼご臨終なのかなとの感をもっていたテレビCMは、いよいよ広告関係者の手によって書かれた書物でも終わってると言われ出したんだ(^^;

3年前にはアル・ライズ『ブランドは広告でつくれない 広告vsPR』が話題を呼び、「広告とPRの価値が逆転し、広告はもはや信頼性に欠けるメディアである」との主張にも大いにうなずけたが、テレビCMがもう終わってしまった上で、「WEBを活用しながら」どうしていけばいいのかという今回の書籍のほうがとても面白い。
アル・ライズの書籍特有の法則めいた断言も、いまいち説得力に欠けたところもあった。(本書でもアル・ライズ氏についてのコメントは登場する)

また、ブログが原稿の元になっていて、翻訳もうまいので、すらすらと読んでいきやすい。(そのかわりミスタイプはやたらと多い)

あっ、今「WEBを活用しながら」と書いたけど、本書ではeメールも死にかけている。
それは当然のことで『パーミション マーケティング』日本語版が出たのが1999年だから、今から7年前。
当時はeメール送信のパーミションを得れば確かにそれでよかったものの、スパム対策に手を焼くご時世ともなれば、パーミションうんぬん以前にeメールによる情報発信自体が毛嫌いされる傾向が高まった。
パーミション マーケティングの手法は死にかけており、その思想だけが生き残った。(本書でもパーミションマーケティングについては登場)

そのうちメールソフトも利用者が減ってくるかもしれない