2007/01/06 土曜日

自由と大義

Filed under: 雑記, 読書 — 咲本 @ 05:50:54

私は個人主義者だ。
見た目はただのハゲたオッサンだけど、自分のことがとてもかわいいし、とても大切だと思っている。
自分のことをさしおいて社会貢献することなんてサラサラないだろうし、逆に社会からあれこれと強制されるのも御免蒙りたい。
何よりも「自由」を愛する。
源泉徴収されることはヒドく腹が立つ。

だけど、個人主義とエゴイストとはまったく違うものだと思っているし、そもそも個人主義こそ民主主義の根本原理ともいえるものなのだ。
その点、現在の民主主義は国家権力があまりにも大きすぎる点や、国家による免許制度や規制があまりにも多すぎる点で、私にとっては理想的な個人主義の社会であるとはいいがたい。

このような立場は何も私一人だけが言っていることではなく、実はオバタリアンならぬリバタリアンと分類される古今東西の知識人達が展開する自由主義の立場でもあるのだ。(リバタリアニズムlibertarianism)

たとえば、その中に分類されると言ってもよい「自由な社会」を追求したノーベル経済学賞受賞のF.A.ハイエクによると、

真の個人主義は民主主義を信じるだけではなく、民主主義の理想は個人主義の基礎的原理を源泉とすると主張することもできる。(中略)個人主義は、民主主義のもとにおいても、他のどのような統治形態のもとにおいてと同様に、「強制による支配の領域は固定された限界内に制限されるべきである」と信じる。そして個人主義はとくに、世に流布している民主主義のあらゆる誤解のなかでももっとも致命的で危険な誤解――われわれは多数派の意見を真実で将来の発展に対して拘束力をもつものとして受容しなければならないという信仰――に反対する。 民主主義は多数意見が共同の行為を決定するという協約を基礎としているのではあるが、そのことは、今日多数意見であるものが一般に受容される意見になるべきであるという意味では決してない。仮にそうなることが多数意見の目的の達成に必要であるとしてもである。それとは反対に、民主主義の正当性の全根拠は、時の流れのうちに、今日はほんの少数の意見にすぎないものが多数意見になることも可能だ、という事実にもとづいている。
「真の個人主義と偽の個人主義」(『市場・知識・自由―自由主義の経済思想―』p.37)

補足しはじめだすととても長くなりそうなのでごく簡潔に付け加えておくと、私はハイエクの理論を全面的に支持しているわけではないが、上記引用箇所については賛同している。
これに本来なら「平等」ということも付け加えて話さないといけないのだろうが、これもとても長くなるので省略。
少なくとも私は国家による手厚い年金給付制度のような社会民主主義的・福祉主義的な「平等」の立場には賛同しかねるとだけ付け加えておこう。

このようなことを日々ふと考えるのは、実は事業にまつわることにもかかわるのであった。

たとえば、ハイエクも上記、真の個人主義に関連して次のようなことを言っている。

なによりもまず私は、ことが或る特定の産業部門の利害に関係するときには、多数意見はつねに反動的、停滞的な意見であること、そして競争の長所はまさに少数者に勝つ機会を与える点にあることを、堅く信じている。(p.38)

このような文章に触れて、果たしてテレビ放送業界や広告代理店業界はどうなのだろうかと考えてしまうのである。

あと余談ではあるが、「みんなの意見は案外正しい」というWEB2.0の文脈で登場するテーゼがあるが、これが成立しうるのはあくまでも「或る特定の産業部門の利害に関係」しないことが大前提となる。
ただ事業をやっていくには、いくら単に自由主義=個人主義うんぬんと言い出しても、それ自体がひとつの相対的な価値観であるともいえ、社会的環境として望ましいということは言えても、邁進していく原動力とはならない。

やはりそこで最も重要となってくるのは「大義」ということになってくるのだろう。
これもひとつの価値観ということにはなろうが、少なくとも「大義」には「信じる」という要素が入ってくるから、事業の推進力が格段に増したり、多くの人を巻き込めるパワーを秘めているからだ。

2007/01/04 木曜日

電通とテレビ放送局のビジネスのおいしさと危機感

Filed under: 読書 — 咲本 @ 02:35:18

正月3日目ともなって、年末できていなかった掃除などの野暮用も一段落、時間的余裕もできてきたので本を手にとってみた。

週刊金曜日取材班『増補版 電通の正体―マスコミ最大のタブー』 週刊金曜日取材班『増補版 電通の正体―マスコミ最大のタブー』

あともう1冊は、

吉野次郎『テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか』 吉野次郎『テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか』

どちらもサクッと短時間で読める軽めの本。
前者は電通が広告業界のみならずマスコミ、政財界、ひいては国を牛耳っているとも思える現状を垣間見させてくれる。
メディアを制することが国を制するということにもなるということか。

後者はテレビ業界のビジネスモデルに疎い私に、そのおいしいビジネスモデルの実態とそれがネットの台頭と政府の政策によって、崩れていきかねない可能性があることを知らしめてくれる。

この2冊、広告代理店的立場とテレビ放送局的立場の両方のビジネスのおいしさと危機に感じている点をふまえた上で、改めて我々の事業展開にあたっては、高い使命感を持ちつつ今以上に「政治」を知って動いていかねばならないと痛感。
ネットバブルの頃に続々登場したネットベンチャー達のように、 ビジネスモデルがあれば政治のことがわからなくても正面突破できるという能天気な事業展開だけは絶対に行いたくないものだ。

2006/12/16 土曜日

本当の読書

Filed under: 読書 — 咲本 @ 04:48:52

ここのところ仕事しているか寝ているかの二者択一しかないかのような日々を過ごしてしまっている。
気がつけば一ヶ月くらい読書もしていない。

読む以前にすぐ眠ってしまうのだろうと勝手に予想してしまって、手に取ることがなかった。

でも、これって改めておかしな考えじゃないかと思い直した。

安岡正篤の言葉にふれて。

読書して疲れるようではまだ本当でない。疲れた時読書して救われるようにならねばならぬ。

2006/11/07 火曜日

現代思想の「起原」

Filed under: 読書 — 咲本 @ 02:13:41

丸山圭三郎,広松渉『現代思想の「起原」―記号的世界と物象化』 丸山圭三郎,広松渉『現代思想の「起原」―記号的世界と物象化』

20世紀の日本現代思想を代表するといってもよい広松と丸山の対談本。

ポスト構造主義が華々しく騒がれていた頃も、中沢新一や四方田犬彦のように知のファッション化に流されることなく、それらを見据えながら独自理論を模索していった思想界の両巨頭。

まだ最初のほうをパラパラめくった程度であるが、彼らの著書を直接読むより対談本だけのことがあって比較的読みやすい上に、アプローチの違う両者の類似点が浮き彫りになっていきそうで興味深い。
まあ比較的読みやすいとはいえ、対談本なのにドイツ語やフランス語がたくさん出てくるのは正直なんとかしてもらいたかったが(^^;

こんな対談本を読んでしまうと、昔、両者の著書を脳に汗をかきながら読んだことを思い出してくる。

そもそも丸山のソシュールから導き出された「文化のフェティシズム」論と広松のマルクスの深読みから出てきた「物象化論」とは文字通り似たようなところがある。

両者が対談の場であるからこそ出てくると思われる発言としては、例えば丸山の次のような発言

だからといって、短絡的に合理主義を否定して神秘主義に走ったり、西欧型思考を一切排除して東洋思想に戻るのであれば、これは対談の冒頭でも申し上げたように既成の土俵の東西を往復しているだけのことです。理性はだめで、「時代の感性」に賭ける、などというラッパを吹くのはどうでしょうか。理性にも硬直した理性と、活ける理性とがあります。私たちがひっくりかえすべきは、その理性/感性、精神/身体などといった一切の二元論的対立の土俵そのものなのであって、その土俵上の一方から他方へと移動したり、ましてや行司よろしくその中間にたってバランスをとる、といったことであってはならないでしょう。絶対という根拠がないことは私たちを不安にもさせ安堵もさせます。ニーチェも言うように「真理とは、それがなくては或る種の生きものが生きられないような誤謬のこと」ではないでしょうか。そして私たちは、その不安と安堵のはざまでゆれ動き、物語を作っている。いや、もっと正確には作らされているんです。出来事としての〈発話の場〉も、〈読みの場〉も、一見パロールの次元のようでいて実はそうではない。ラング/パロールといった二分法以前の場で、私たちは語らされ、書かされ、読まされているような気がしますね。(p.122-123)

また、このような発言の前には龍樹の説く「空」(相対)と両者の説く「関係性」との類似性と微妙な相違点について議論されたりしている。

さきほど、比較的読みやすいとついつい書いてしまったが、実際のところ、丸山理論と広松理論の概要やポスト構造主義、龍樹の中論など、ある程度の知識を持っていないと、何のことだかチンプンカンプンかもしれない。

少なくとも通常の知識人同士の会話レベルを大幅に超えた発言ばかりではあることは注意を要す。

2006/11/01 水曜日

心脳コントロール社会

Filed under: 読書 — 咲本 @ 03:44:01

ジェラルド・ザルトマン『心脳マーケティング 顧客の無意識を解き明かす Harvard Business School Press』 ジェラルド・ザルトマン『心脳マーケティング 顧客の無意識を解き明かす Harvard Business School Press』

ほんとは一年ほど前に購入したザルトマンの上掲書を読みたかったのだが、ついつい読んでいないまま放置していたところ、下記小森氏の新書が出たので、先に薄っぺらい新書のほうに手が伸びてしまった。

小森 陽一『心脳コントロール社会』 小森 陽一『心脳コントロール社会』

小森氏の本は要するにザルトマンの本をごく簡単に要約したものであり、それを左翼がかった視点から、政治を中心に行われている心脳コントロールに騙されるなと主張している。

この朝日新聞論説委員風の視点にかなり違和感を感じざるをえない。

大体、わざわざこんな説明をしてもらわなくても、政治におけるブッシュや小泉のプロパガンダについてはネットのヘビーユーザーのほとんどの人が気づいているわけだし、全く気づいてこなかったような人達が本書を手に取るとも思いがたい。

とりわけ日本の場合には、少しばかり心脳コントロールによる大衆操作がうまくいったからといって、少し政治がうまくいってなさそうになると、あっという間に政権交代となってしまうような歯止めのきくような仕組みが、一部例外を除けば歴史上きわめて長く続いてきている社会なのである。

さて、心脳マーケティングの要点を知りたければ、本書第二章を読むだけで十分。

代表的手法として2つあり、「プライミング」と「フレーミング」。

プライミングとは、

一つのキュー(刺激)が、ある特定のエングラム(記憶)を活性化させ、そのエングラムが次には別なキューの役割を担い、別なエングラムを活性化する、といういくつかのプロセスを積み重ねれば、かなり的確に、ある特定の一つの方向に、人々を誘導していくことが可能になるわけです。(中略)
「現在の経験を取り巻くコンテクストが、我々が記憶を記銘したもともとのコンテクストとどれほど似ているかによって、その記憶をどれほど簡単に想起できるかを左右する」

ということ。

フレーミングのほうは、「バックワード・フレーミング」と「フォーワード・フレーミング」があり、

たとえば、もしマーケターが過去の経験についてそのポジティブな側面を語ったとすれば、消費者がその製品や買い物について思い出す経験内容は、実際にその人が経験した内容とは異なったものになる。この現象はバックワード・フレーミングとして知られている。逆に、フォーワード・フレーミングによって、マーケターは将来起こり得る経験に対する期待を消費者に抱かせる。こうした期待の影響によって、実際に起こる経験の内容や、その経験の記憶も変わってしまう。

つまりは、

自分の経験を自分で意味づけるのではなく、マーケターによって意味づけてもらい、それを信じこむ、それが「フレーミング」にはめられた人間の心と脳なのです。

ということ。

まあマーケティング活動の中で普通に行われていることであって、これを小森氏のようにけなしていこうとすれば、 人間の学習プロセスまで否定されることになる。

あまりにも小森氏の本の内容が乏しいものであるがゆえに、心脳マーケティングによる無意識へのアプローチ手法について、久しぶりにザルトマンの書のほうに直接あたってみたくなってきた(^_^;

2006/10/26 木曜日

『eビジネスの教科書』

Filed under: PCネット・ビジネス, 読書 — 咲本 @ 01:21:11

本日、京都に戻ると、面識は全くないにもかかわらず、文教大学の幡鎌博先生から下記書籍が送られていた。

eビジネスの教科書

まだAmazonのデータベースにも登録されていない発売ホヤホヤの本。

B2Bなども網羅したこの手の本の出版は意外と珍しい。

また機会を見つけてこのブログに感想を書こうと思う。

幡鎌先生、勉強になりそうな本を頂戴いたしましてありがとうございました!

2006/10/25 水曜日

プライベートメモ~『ケータイ研究の最前線』

Filed under: 読書, モバイル・ビジネス — 咲本 @ 02:56:04

大澤真幸:
今までの普通のコミュニケーションっていうのは、まず玄関から入って、内面にだんだん近づいて、お互い近いって感じるまでにすごい時間がかかるわけですよ。ところが、ケータイによるコミュニケーションというのは、言ってみれば常に身体に装着しているわけですね。そしていきなり、最も近いところから入ってくる、そういう感覚なんですね。(p.32-33)

電車の中でケータイを使われると腹が立つというのは、おそらく僕はそういう空間感覚の歪みみたいな事だと思うんですよ。そこだけ別の空間が露出してしまっているということの違和感と言いますか。(p.39)

室井尚:
ケータイのユーザーというのは、何にも用事のないときも手を動かして、友達にメールを打っているわけですね。これは決して生活を楽にするものでもなければ、合理的にするものでもない。純粋にこのこと自体が快感になっているんですね。(p.71)

水島久光:
ある種の秩序を前提としてリニアな情報の流れを作り出す「放送」と、それを霍乱する「通信」は、その一方で、時空間に「開かれた」もの(放送)と、当事者に閉じたもの(通信) という姿も併せ持っている。メディアの融合とは、こうした秩序化と反秩序化に対応する空間の「開かれ」と「閉じ」の相補関係の安定を解くことを意味するのだ。(p.87)

小池龍太:
コミュニケーションという営為を手のひらサイズの箱に集約することで我々の身体とも文字通り肌身離さずほとんど一体化したこのメディアに、我々がその他のあらゆるコミュニケーションを集約しつつあるということは、ケータイが「ブリコラージュのメディア」であること以上の意味がある。すなわち、人間の拡張であるメディアが人間そのものへと反転していく、そのひとつの過程として、あるいは集約点として、今日ケータイというメディアが存在しているのだということである。(p.196)

夜8時から社内呑み会開催。
その後二次会のカラオケへ。
終了後会社に立ち寄ると、まだお一人仕事中だった。
恐るべきことにも、当社の場合には終電の出る0時半付近まで普通にありうる。

2006/10/11 水曜日

そろそろ読書を復活しようかな

Filed under: 読書 — 咲本 @ 03:51:44

9.11に花の田舎・京都から東京に移転して早1ヶ月。
この間、今振り返ってみると一冊の本も読んでいない。
気がつくとあらゆる点において「慣れる」ことが大事だという意識が優先して、読書時間を作ってこなかった。

東京での仕事・生活のリズムに少しだけ馴染んできたこともあり、今久しぶりにAmazonに書籍を注文した。

まずはケータイ関連書を中心に読書を再開してみよう。

このあたりの書籍に目を通せば、仕事上知っておくべきケータイの常識レベルのことは把握できるのではないかと思う。

佐藤 雅彦『Fが通過します』 佐藤 雅彦『Fが通過します』

中村至男+佐藤雅彦『勝手に広告』 中村至男+佐藤雅彦『勝手に広告』

小檜山 賢二『ケータイ進化論』 小檜山 賢二『ケータイ進化論』

藤田 明久『ケータイ大国のモバイルビジネス入門―マーケティング革新!』 藤田 明久『ケータイ大国のモバイルビジネス入門―マーケティング革新!』

『Mobile2.0 ポストWeb2.0時代のケータイビジネス』 『Mobile2.0 ポストWeb2.0時代のケータイビジネス』

佐藤 崇『ケータイ・ビジネス 成功の新常識―変化はチャンス鉱脈はここにある!』 佐藤 崇『ケータイ・ビジネス 成功の新常識―変化はチャンス鉱脈はここにある!』

日本記号学会 (編集)『ケータイ研究の最前線』 日本記号学会 (編集)『ケータイ研究の最前線』

関沢 英彦ほか『シチュエーションマーケティング―ケータイ時代の消費を捉える新発想』 関沢 英彦ほか『シチュエーションマーケティング―ケータイ時代の消費を捉える新発想』

オプト(編集)『インターネット広告による売上革新』 オプト(編集)『インターネット広告による売上革新』

消費行動の「なぜ?」がわかる実践講座ライフスタイル・マーケティング 消費行動の「なぜ?」がわかる実践講座ライフスタイル・マーケティング

2006/08/27 日曜日

「近代」とクラシックの滅亡ーー許光俊氏のクラシック音楽入門書

Filed under: 読書, (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 22:28:25

チェリビダッケのオーケストラリハーサルの翻訳を許光俊という方がされていて、そこで氏のことに興味を持っていたところ、本書に出会い、早速読んでみた。

許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』 許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』

とはいえ、私はクラシック音楽をよく聴くけれど、この手のクラシック音楽を紹介する類の本は読まないことにしてきた。
音楽理論に詳しいわけでもなんでもない素人であるにもかかわらず。
好き嫌いが極端であるにせよ、それでも私はクラシック音楽をたっぷりと堪能することはできるからである。
(もちろん、知識は多いほうがよいとは思ってはきたが。)
だいたい、名画を鑑賞するのに「ここが見どころですよ!」なんてガイドブックにのっとって鑑賞したところで、魂が揺さぶられたり、なんともいえない宙吊り状態に思考が落とし込まれたりといった体験を味わうことができるのだろうか?
一般的な評価はさておいて、私にとってそれがホンマ物であれば、そんな知識に関係なく感動することがあるのではなかろうかと考えてきた。

実際、ブラームスやシベリウス、ショスタコーヴィチなどの交響曲は、作曲家の生涯や楽典の知識が全くなくても10代の頃から大好きだし、最近ではすっかりブルックナーにハマっている。

それなのに、クラシック音楽紹介本を手に取ってみることになるなんて、私としたことが!と何の期待もせず読み始めると、これがまたとんでもなくオモロい!

副題となっている「お気軽極楽入門書」というのは、著者独特の毒をこめた表現であることがすぐにわかってくる。
いわゆる一般的なクラシックの入門書だと思った人はみな面食らうことになる過激な本である。

著者もいきなり冒頭から本書が猛毒をもっていることを宣言している。

「ショパンってロマンチックで素敵!ああいうきれいな曲をいっぱい教えて!」
「心が清められるような音楽と出会いたい!」
「雄大な音楽の感動に打ちのめされたい!」
なんて思っている方なら、もうここで本を閉じてしまったほうがいいかもしれない。私はあえてそういう人たちの夢を壊したいとは思わない。そういう人たちは、もっと別の、ふつうの本を買ったほうがいいーー甘い嘘、耳あたりのいい詐欺師の言葉でいっぱいの本を。そして、マスコミで話題になるコンサートやCDを追い求めるがいいーー表面的な華やかさばかりで空虚な音楽を。

私も「心が洗われる」みたいなクラシックの評価をする人達が大嫌いで、そもそもそんなことをクラシック音楽に求めたこともなく、ガイドブックの類も読む気にならないので、こう言いたい著者の気持ちはよ〜くわかる。
でも、最初からここまで言ってしまって本の売れ行きは大丈夫なんだろうかとついつい心配してしまう。
本の奥付を見ると、1996年発行で2005年に第7刷。
一応地味に売れ続けているということは、入門書のように見せてはいても、結構マニアが読んでいるのかもしれない。
そして、大物演奏家の否定、クラシックの滅亡が語られていくのだ。

今、いわゆる一流演奏家、有名演奏家が聴かせてくれる音楽は、クラシック音楽ではない。それどころか、彼らはクラシック音楽が何かということすら知らないかもしれないのだ。

と、私がダメだと書いたことのある国内の某大柄指揮者や某韓国系苗字指揮者、テレビ出演も多い某ヴァイオリニストなんていうのを指しているのかなあと思いつつも、ブログ上でちょっと書くというのではなく、よくぞ本でここまで書けるなあと著者の勇気に驚かされる。
このような感じで音楽評論家も実名を挙げて評価がなされている。

そしてクラシックがすでに滅亡しつつあることが語られる。
クラシック入門書の体裁をしつつも、いきなり滅亡が語られるとは!
変てこりんなクラシック音楽好きの私としては、妙に興味が出てくるとともに、これは決して書名のように「お気軽」な本ではないとの確信を深めていく。

じゃあ、私が言う滅亡に瀕しているクラシックとはどういうものか。それはこの本を読み進めばだんだんと明らかになるが、確実なのは、滅びようとしているもの、あるいは滅びてしまったのは、クラシック音楽だけではないということ。クラシック音楽だけが理由もなく滅びてしまったわけではないのだ。クラシックが滅びるということは、それを支えていた環境や感性や考え方が滅びるということに等しい。

つまりは著者は詳しく書いてはいないが、本書はクラシック音楽が崩壊しつつあることを書いていきながら、近代文学や近代芸術、それを支えていた近代思想や近代社会が崩壊しつつあり、それは必然であることをふまえてクラシック音楽を語っているのである。

これは今まで一部の鋭い文芸批評や映画批評の世界では見かけることがあったにしても、クラシック音楽では見かけることのなかった切り口だ。
そこを著者はクラシック音楽のマニアを対象とするのではなく、これから聴こうという人向けに本を書いている。
これまた興味深い取り組みである。

クラシック音楽の聴き方の基本を説明するのに使われるのは、たった3曲。
チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、モーツアルト「ピアノ・ソナタ第15番」、ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付」。
それを聴く前提として実践してほしいと求められることは、本格的推理小説を読むことと、サラダを作って食べること。

たったこれだけのことで、交響曲に象徴的にみられるようなクラシック音楽の肝心要なポイントを説明してしまう。

実はこの基本中の基本と著者が位置づけている中に、すでに一部の天才を除くほとんどのクラシック演奏家を斬って捨ててしまうだけのことを忍び込ませているのだ。

本の最後には「実用情報」として、著者がすごいと思う作曲家、指揮者、演奏家、オーケストラ、評論家が紹介されていたり、 コンサートに行くための初歩的疑問点に答えたりもしていて、ここは表向き入門書らしい体裁を取っている。

が、著者の最も言いたいことは入門書らしからぬ「実践編2」の中で書かれたブルックナーについて述べられた中にある。
著者もブルックナーを入門書として取り上げるのは、一般的にはふさわしくないということはわかっていて、それでもなお、本書の結論的なことをどうしても言いたくて取り上げているのだ。
しかしなぜここでチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルがベストの事例となるのか、私には痛いほどよくわかるが、実際にCDを聴いてみても必ずしも理解できるとは限らないと思う。

その結論だと思われることは、

いままで述べてきた十九世紀クラシック音楽の特徴を、極限まで推し進め、(私たちが納得するかどうかは別問題として)ベートーヴェンがめざした方向で究極の結論にまで達した作曲家は、ワーグナーとブルックナーしかいないからだ。ワーグナーの主要作はオペラであり、登場人物やストーリーが存在する。が、ブルックナーの交響曲のなかには、『第九』みたいに合唱が介入してきたりはしない。彼はオーケストラだけを用いて、独自のミステリアスな曲を書き、最終的な結論を導き出したのである。

クラシック音楽がずっとテーマとしてきたことの極限としてのブルックナー。
次の記述は、ここまでの著者の話を読んでこないと理解しにくいが、本書の最重要なところとなるので、参考までに引用しておく。

クラシック音楽の歴史は、たぶんブルックナーで終わっている。少なくとも、ソナタ形式とか、交響曲とか、ハッピーエンドという、二元論と弁証法と終末論を基本にするクラシックは、ブルックナーで終わっている。チャイコフスキーとかマーラーがやったことがそうしたクラシックの解体であり、ハッピーエンドの不可能性の証明であるとするなら、ブルックナーはクラシックを完成させた人なのだ。
つまり、宗教としてのクラシックの完成と終焉。

続いて、

クラシックとは、キリスト教の地位が下落し、王様たちが消えていく十九世紀にあって、それらの代わりをつとめた一種の宗教なのである。十九世紀ヨーロッパにおいては、それまでみたいに、『聖書』を読んだり、祈ったりすることで神とか世界とか真理とかを理解するのではなく、芸術家たちが苦しみもがきながら、真実に達しようとしていたのだ。それは音楽、文学、美術を問わない。芸術家たちは、あたかも荒れ野や山奥で修行する隠者のように、さまざまな苦労を重ねながら、作品を作るということで真実に達しようとしていたのだ。そのために、彼らは俗世間の価値観とか習慣と戦わねばならなかったのだ。

という近代芸術全般に共通した問題が指摘され、

そんな宗教としてのクラシック、礼拝としてのコンサート。これをどんどん推し進め、究極の段階に達したのがブルックナーなのだ。

とブルックナー交響曲が位置づけされるのである。

そして、著者が冒頭からクラシックが滅亡しつつあると指摘した理由が、この段階になって明らかとなってくる。

つまり、憧れなき時代、希望なき時代(これはイコール絶望の時代ということではない)、理想なき時代、すなわち宗教を必要としない時代なのだ。ハッピーエンドという終末も調和も待望できない時代なのだ。ならば、宗教であるクラシックは、早晩滅んでいくしかないのだ。娯楽としては、生き残るかもしれない。だが、ブルックナーの音楽が娯楽として演奏され聴かれるとき、それはもはやブルックナーではないし、クラシックですらない。

だから、

結局のところ、楽譜が存在しようと、オーケストラが存在しようと、音楽大学が毎年大勢の卒業生を出そうと、そんなことはクラシック音楽とは関係がない。クラシック音楽の本質は、ただ作曲家と、演奏家と、聴き手の心のなかにだけ存在している。そして、彼らの死とともに消滅していく。

のだ。

著者は、クラシック音楽を聴くにあたって、著者が一流だと思うごくわずかの演奏家のものをライブで聴くことを強く推奨している。

私は幸運なことに10代の頃から世界の一流指揮者・オーケストラの演奏会をたびたび聴きに行ったことがあるので、会場でのサウンドを体験してしまうと、いくら同じ演奏家のものをハイレベルな録音技術で収録したCDを高級オーディオ機器で聴いたとしても、天と地ほどの違いがあることを身をもってわかっている。

だからファンでもあるチェリビダッケの演奏にしても、既に死去しているがゆえに生演奏で聴くことができないので、昔、生演奏で聴いた体験を思い出しながら、仕方なくCDで聴いているというのが現実。

生演奏にしても、地元、京都市交響楽団の演奏会に時々行くが、これも演奏レベルに妥協して聴いているのが現実。
懲りずに9月6日にもレスピーギ三部作を聴きには行くが、あくまでも地元贔屓で行く程度のもの(^^;
まあ、楽団員に京都市の税金を使って給料が支払われているので、損しない程度に聴いておこうという感じかな。
ホントだったら、納税者である京都市民に限れば、現状のようなレベルの演奏レベルしか聴かせることができないのであれば、S席500円くらいでも安すぎることはないと思う。

いや、いくら音楽史に残る巨匠とはいえ大昔のフルトヴェングラー指揮のモノラル録音を聴くくらいなら、生で京響を聴いたほうがマシなので、CD1枚が1,500円くらいだとすると、京響が今の料金を取ることもアリか。
京響のみなさん、いや〜、失礼失礼(→許光俊的な毒舌がうつってしまいそうになる)
少し脱線してしまったが、私がこのブログで賞賛を惜しまないチェリビダッケについて、著者もなぜほどこれまでに高い評価をするのか、私の書き方では伝わりにくかった点についても、本書を読めば、なるほどと認識してもらえるかもしれない。

私の紹介の仕方から、本書がちょっとお堅い本であるのでは?と思われるかもしれないが、難しい表現は一切登場せず、たいへん読みやすい。
例えば、ベートーヴェンの本質を理解しやすくするように、第九の終楽章の歌の部分を、現代的に超意訳して(「あーい、ダチ公よ、こんな音楽じゃないぞ!もっときもちいいヤツを歌おうぜ、もっとハッピーなやつをさ!」といった翻訳)掲載してみたりもしている。

この本はとりわけクラシックファンではないが、企業について社会について、なんていうことをあれこれ考えてしまう方全てに対してオススメできる。

私自身も許光俊氏のほかの著書にも手を出していこうと思わせるに十分なものであった。

2006/08/19 土曜日

宮沢賢治「貝の火」補足

Filed under: 雑記, 読書 — 咲本 @ 02:51:27

昨日宮沢賢治の短編童話「貝の火」を紹介しながら、例えば「ビジネスの成功」って一般的に言われているものは、そのほとんどが「天上界」を目指したものであって、だとすれば必ずしもそんなにいいものとはいえないというようなことを書いた。
http://blog.tokeidai.net/reading/kainohi/

ちょっと補足しておかないと、このままでは大きな誤解をされかねないので、若干コメントをば。
ただ、補足自体が宗教的な話でもあるので、さらに誤解される可能性があるかも(^^;

私自身も随分前のことにはなるが、頭も冴えわたっていると感じられ、次々とアイデアが発生し、何をやってもやること全てがうまくいき、お金もザクザク入ってくるし、精神的充足感に満たされた感覚でいられた時期があった。

これは今から思うに「天上界」の状態であり、地獄界よりもある意味危険な状態。
このような状態になると、品のよい余裕のある紳士っぽく振る舞おうと意識もするし、実際そのようにしていた。
謙虚であることを忘れずにと思い、人のお役に立ってナンボ!という気持ちもあった。
しかも、「精神的に極めて心地のよい」状態であった。
自分では謙虚を心がけようとは思ってはいても、やはり今から思うと、そういうスタイルに酔っていただろうし、いくら本人は世の中の善人みたいなつもりではあっても、それは「ずる賢い悪魔に取り憑かれていた」といえば極端かもしれないが、振り返るとそのような感じがしてしまう。

宮沢賢治の童話に無理矢理当てはめると、この「ずる賢い悪魔」というのが「キツネ」に該当する。
そして、よかれと思ってやっていることが、本当は世の中にマイナスを与えることにしかなっていなかったりする。

子ウサギのような(それは過去の私のようでもあるのだが) まだまだ善根の乏しい者は、キツネのような狡猾な悪魔に騙されるなどして、あっという間に落ちていく。

その状態が長続きするのは、よほど過去生で苦しい思いをしながら善根を積んできて人であろう。
例えば、石油王の子どもとして生まれてくるような生まれながらにして大金持ちの人とか。
大方の人は、一見天上界であるように見えつつも、宮本武蔵のように「修羅界」において実力で人をぶった切ってのし上がり続ける人であったり、ちょっと講演を依頼しただけで新幹線グリーン車代と超高級ホテル宿泊代まで平気で請求してくるような性根を持っているような「餓鬼界」の人である場合が多いのだろう。

要はビジネスでうまくいくというのは、多かれ少なかれ、悪人でなければうなくいかない側面がある。

子ウサギが宝物をもらえたのは、自分の命を投げ出してひばりの子どもを助けたからであった。
いくら人様のお役に立つ側面がビジネスにあるといえども、自らの身命を投げ出してお役に立つというつもりなど毛頭ないどころか、10円のものを100円で売るという、ある意味では人を騙してメシを喰って生きていることからは、宝物との距離は遠すぎる。

そんなことを言い出したら、儲けることなんて全くできなくなるから、普通は深く考えようとしないということがまかり通っている。
最悪の場合には、なんだかんだいっても結局は儲ける人は偉いという、王族の息子として生まれたにもかかわらず、真理を求めて家を飛び出したお釈迦様を鼻で笑うかのような開き直った考えの人まで出てくる。

イエローハット代表の鍵山さんという方がいて、直接お話をしたこともなく実際のところはなんともいえないが、この方は会社の創業時の不安定な時期から、誰に自慢するわけでもなく社員にバカにされながらでも、毎日欠かさず会社のトイレ掃除を続けてこられた。
まさに40年間毎日欠かさず。
念のため自宅のトイレではなく、社員の使う会社のトイレだ。
しかも、会社が安定してから、良い行いをしていたら良い見返りがあるかもしれないという「リターン」を意識しての行動でもなく。

商売の基本的考え方は投資があってリターンがあるというもの。
つまり良い行いをしたら良い結果が返ってくる。
これはあくまでも因果律に基づくことであって、当然といえば当然。

だが、因果律に従ったままでいくと、ある時には天上界、ある時には餓鬼界、そして気がつくとずっと地獄界という六道輪廻の世界をぐるぐる回っていくだけとなる。

その因果律を断ち切ることになるかもしれないのが、子ウサギの命を投げ打った行動だった。
その行いをもっと小さくしたのが、鍵山氏の見返りを求めない掃除であったのかもしれない。

それを知ったキツネのような人であれば「あっ、そうか、トイレ掃除という投資をすれば、会社が発展するというリターンが得られる」と考える。
このキツネのような人達が、ビジネス書を漁って読む読者にたいへん多い。
このような人達は、狡猾な著者が印税でメシを喰うための存在としてしか意味をもたない。

蛇足ではあるが、「成功」を語る著書やセミナーは、主催者の経済的「成功」を目的としたもので、 内容がインチキかどうかを判断する便利なキーワードと考えておいてちょうどよい。
見返りを求めない行動や身命を惜しまない行動は美しく見えるわけだが、「その対象を間違うな」というのが宗教の教え。
好きになった彼女をその対象として身命を惜しまないというのは、必ずしも美しい行動とは言い切れないのだ。

さて、このようにビジネスで成功することがあまり褒められたものではないとは言うものの、だからといってビジネスの世界で何も考えずにただぼおっとルーチンワークをしていくだけというのがいいというわけではない。
これを「畜生界」といい、地獄や餓鬼と較べると少しだけマシではあるが、人間界にも至っていない。

ではどうすればいいのかなんて、取り急いで結論を私に聞くようなことはしないでほしい。

答えを知りたければ、三千帖にものぼる膨大なお経があるから、そちらをご参照ください(^^;

ちなみに私はどこの宗教団体にも属していません。

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