「己を出さずに、自分を出す」
高台寺庭師、北山安夫氏の言、
己と自分の何が違うのかというと、私なりの言葉の使い分けなんです。「自分」には敬愛の意味が含まれていて、要するに自分を愛するということです。一方、「己」は利己的な「我」を表している。そういうメリハリを自分の中でつけたほうがいいと思っているということです。・・・・・「己を出さない」ということ自体、ものをつくって人に喜んでもらうことに通じていくわけですからね。言葉はともかくとして、その中にある魂が大事なんです。
高台寺庭師、北山安夫氏の言、
己と自分の何が違うのかというと、私なりの言葉の使い分けなんです。「自分」には敬愛の意味が含まれていて、要するに自分を愛するということです。一方、「己」は利己的な「我」を表している。そういうメリハリを自分の中でつけたほうがいいと思っているということです。・・・・・「己を出さない」ということ自体、ものをつくって人に喜んでもらうことに通じていくわけですからね。言葉はともかくとして、その中にある魂が大事なんです。
まだまだの感があるが、ひとまずスタートし出した。
弊社社員7名で書いていくので、読書内容にそれなりの拡がりが出て、そこそこ面白いものになる予感もする。
弊社顧問の増田さんが素敵な本を出版された。
アニメ関連書籍はいくらたくさんあっても、今までアニメの「ビジネス」について、数字をふまえて語られている本というのはなかった。
外部から見ると何とも得体のしれないアニメ業界のビジネスを浮き彫りにした労作。
本の出版に合わせて著者のブログも開設されたので、アニメビジネスに関心のある方は要チェックである。
ちょっと寝苦しいこともあり手に取った本が、意外と面白い。
そんな日用に手元においておかず、早く読めばよかった。
西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』
日本の情報学の権威が梅田望夫的WEB礼賛論に反発したの図である。
が、さすがに三流ジャーナリストの類とは違い、 西垣基礎情報学理論を根拠にモノを言っている。
本書で一番のやり玉に挙げられている考え方が、WEB2.0文脈でよく言われる「集合知仮説」である。
いわゆるウェブ2.0による集合知仮説は、表向き人間の自由を重んじ、一般ユーザーがウェブに主体的に参入する意義を強調するのですが、無意識にせよ、単眼的に客観的世界のみを想定しています。コンピュータが原理的に人間と同様の機能をもちうると見なすわけです。そのため、どうしても人間機械論(機械還元論)におちいってしまい、ビジネス利益を優先する圧力の前では、生きた人間の自由も主体性もそこなわれてしまう危険性が大きいのです。
とりわけ、一般ユーザーがいつのまにか広告業者にされているという影の部分に気づく必要があります。一部の人々はお金をもうけるでしょうが、それが人間にとって生きる意味につながる知的営為だという保証はないのです。(p.135-136)
これは著者が人間は階層的オートポイエティック・システムであるとの立場であるがゆえの批判なのであるが、読者でオートポイエーシス理論をご存知ない場合には、文中の説明だけでは理解できないと思うので、別途学んでもらったほうがよいかと思う。
まあそのことはさておき、以下のような逆説的な指摘もうなづける。
真のアイデアを練るには情報は少ない方がいい、という逆説さえ成り立つのです。
生物ではないコンピュータには、情報の重要性を判断することなどできません。研究を進めていけばやがて情報の“意味”を直接理解できるようになる、といったことも期待できません。むしろコンピュータには、われわれ人間が身体的に多様な情報にふれ、想像力を活性化できるような“場”を準備させるほうがよいでしょう。そこでは、文字テキストのみならず、画像・音声・動画映像などを自在に処理するマルチメディア技術が活躍するはずです。
さらにまた、「知恵」というのは、不特定多数の膨大な一般ユーザーによるコミュニケーションというより、数人からせいぜい数十人くらいのあいだでの対話から生まれやすい、という点に気づくことも大切です。(p.139-140)
Googleの台頭やウェブ礼賛論をそのまま採用するような単細胞な立場を取らず、だからといって共産党的に何でも新しいものには反対ということでもない理論的根拠をわれわれは持っておく必要があり、そういったところを本書が気づかせてくれるというそのことだけで、読んでみて無駄ではなかった。
ほんと2年ぶりだか3年ぶりだか、かなり久しぶりにコヤマンと合い、万年橋近くのADK松竹スクエアで昼食。
私が東京に移動してからも、なんやかんやでまったくメールでの連絡すら取れていなかった。
で、せっかくなのでうちの社長も連れて会食することに。
ちょうどコヤマンは今月、4冊目の著書を出したばかりのところで、著書をいただいた。
会って何を話していたかはおいといて、本書のことをちょこっとだけ書いておくと、この書はコヤマンが今まで出してきた本とはいくぶん趣がかわっている。
今まで出してきた本はいますぐ使えるTIPSがたくさん集まっているところが、ひとつのウリとなっていた。
今回の本もそうかと思いきや、まったくそうではなかったのである。
どう違うかというと、今までのものは「ハック」そのものを寄せ集めたものであったのが、本書は「ハックのつくりかた」について説明されているのである。
これは「ハックのハック」、「メタ・ハック」ともいえるべき事柄なわけだから、いくぶん概念的・抽象的・思弁的にならざるをえない。
結果的には著者いわく「咲本さんの好きなアフォーダンスやオートポイエーシスについても触れていますよ。」ということになっていて、私にはたいへん興味深い内容となっている。
そのぶん、頭脳を使って物事を考えることの嫌いな人や頭脳自体作動しない人たちは敬遠したがる路線となっているのかもしれない。
だが、そういうところから枠組みを考えていけなければ、あるいはいこうとする姿勢くらいなければ、ライフハックなんてありえない。
誰かが決めてくれた紋切り型の文言を暗記して、ひたすらそれを使うことだけで仕事をやってきている人には、こういった提示はしんどく見えるかもしれないが、コヤマン的な説明の仕方はかなりわかりやすいとも言えるので、世の中の大半のビジネスマンに見られる紋切り型ダメダメパターンを脱却したいと思われる方こそ、是非とも本書をひもといてもらいたい。
それにしても「天文学」の時代から「気象学」へと複雑な時代へと変化していっているという説明の仕方、うまいなあ。。。
最近あまり本のこと書かないですねえと言われた。
って、正直あまり読んでないからなのであって、まあこれから読もうと2,3日前会社に届き、本日持ち帰ってきた本をお見せしてお茶を濁しておこう(^^;
ちなみに一番上の「きのこ」は、「ケータイ魂」出演中のまゆみんから譲り受けたUSB接続の加湿器で、 水の中に私の好きなレモングラスのエッセンシャルオイルを1滴落とすと、よい香りが部屋に拡がってなかなかよい。
京仏壇の小堀さんところにお邪魔している際に、とある話の中から「利益」(りえき・りやく)ということばの意味についてお教えいただいた。
また、「利益」を含むさまざまな仏教由来のことばがエッセー風にとりまとめられた本をいただいた。
この本によると、利益というのはもともとお金儲けのことというわけではない。
利益(りやく)ということには、自分が利益を得るということだけでなく、他の人を益するということ、恵みを与えるということがなければならない。仏教では、仏の教えに生きて得られた恩恵を、自利・利他の益(やく)として明らかにしている。自ら利益を得ることは同時に、他の人びとを利益することでなければならない。それが菩薩の精神であり、実践である。
このように菩薩の精神、実践によって得られた恩恵のことだとすると、 「菩薩」と呼べるというところがたいへん重要であるともいえる。
この本で「菩薩」という項目の中から一部を引用すると、
ただ単に自らの覚りを求めるだけではなく、広く衆生の覚りの手助けをする人、人々の救済に懸命になって、自らの身をすり減らすような人、そうした人がよく菩薩と呼ばれる。
ということになってくる。
菩薩というと一見聞こえはよいが、 実は自らの寿命を縮めてしまったり失うくらいの覚悟をもち、自分のことはさておいて人々のために懸命になっている姿のイメージなのである。
そのような自らの命を投げうった実践をひたすら行っていくことが、「一隅を照らす」ということにも繋がるのだろう。
では、そのような実践を行おうとする方向と、昨日のエントリーで取り上げた「個人主義」ということとは矛盾しないのだろうか?
私は矛盾しないと考える。
個人主義といってもこの場合にはエゴイズムのことを言っているわけではなく、リバタリアリズムのことを言っていたわけで、利益(りやく)という側面からいえば、悪しき業界慣習をぶち壊してそれによって多くの人々に利益をもたらすということにも繋がるわけなのである。
私は個人主義者だ。
見た目はただのハゲたオッサンだけど、自分のことがとてもかわいいし、とても大切だと思っている。
自分のことをさしおいて社会貢献することなんてサラサラないだろうし、逆に社会からあれこれと強制されるのも御免蒙りたい。
何よりも「自由」を愛する。
源泉徴収されることはヒドく腹が立つ。
だけど、個人主義とエゴイストとはまったく違うものだと思っているし、そもそも個人主義こそ民主主義の根本原理ともいえるものなのだ。
その点、現在の民主主義は国家権力があまりにも大きすぎる点や、国家による免許制度や規制があまりにも多すぎる点で、私にとっては理想的な個人主義の社会であるとはいいがたい。
このような立場は何も私一人だけが言っていることではなく、実はオバタリアンならぬリバタリアンと分類される古今東西の知識人達が展開する自由主義の立場でもあるのだ。(リバタリアニズムlibertarianism)
たとえば、その中に分類されると言ってもよい「自由な社会」を追求したノーベル経済学賞受賞のF.A.ハイエクによると、
真の個人主義は民主主義を信じるだけではなく、民主主義の理想は個人主義の基礎的原理を源泉とすると主張することもできる。(中略)個人主義は、民主主義のもとにおいても、他のどのような統治形態のもとにおいてと同様に、「強制による支配の領域は固定された限界内に制限されるべきである」と信じる。そして個人主義はとくに、世に流布している民主主義のあらゆる誤解のなかでももっとも致命的で危険な誤解――われわれは多数派の意見を真実で将来の発展に対して拘束力をもつものとして受容しなければならないという信仰――に反対する。 民主主義は多数意見が共同の行為を決定するという協約を基礎としているのではあるが、そのことは、今日多数意見であるものが一般に受容される意見になるべきであるという意味では決してない。仮にそうなることが多数意見の目的の達成に必要であるとしてもである。それとは反対に、民主主義の正当性の全根拠は、時の流れのうちに、今日はほんの少数の意見にすぎないものが多数意見になることも可能だ、という事実にもとづいている。
「真の個人主義と偽の個人主義」(『市場・知識・自由―自由主義の経済思想―』p.37)
補足しはじめだすととても長くなりそうなのでごく簡潔に付け加えておくと、私はハイエクの理論を全面的に支持しているわけではないが、上記引用箇所については賛同している。
これに本来なら「平等」ということも付け加えて話さないといけないのだろうが、これもとても長くなるので省略。
少なくとも私は国家による手厚い年金給付制度のような社会民主主義的・福祉主義的な「平等」の立場には賛同しかねるとだけ付け加えておこう。
このようなことを日々ふと考えるのは、実は事業にまつわることにもかかわるのであった。
たとえば、ハイエクも上記、真の個人主義に関連して次のようなことを言っている。
なによりもまず私は、ことが或る特定の産業部門の利害に関係するときには、多数意見はつねに反動的、停滞的な意見であること、そして競争の長所はまさに少数者に勝つ機会を与える点にあることを、堅く信じている。(p.38)
このような文章に触れて、果たしてテレビ放送業界や広告代理店業界はどうなのだろうかと考えてしまうのである。
あと余談ではあるが、「みんなの意見は案外正しい」というWEB2.0の文脈で登場するテーゼがあるが、これが成立しうるのはあくまでも「或る特定の産業部門の利害に関係」しないことが大前提となる。
ただ事業をやっていくには、いくら単に自由主義=個人主義うんぬんと言い出しても、それ自体がひとつの相対的な価値観であるともいえ、社会的環境として望ましいということは言えても、邁進していく原動力とはならない。
やはりそこで最も重要となってくるのは「大義」ということになってくるのだろう。
これもひとつの価値観ということにはなろうが、少なくとも「大義」には「信じる」という要素が入ってくるから、事業の推進力が格段に増したり、多くの人を巻き込めるパワーを秘めているからだ。
正月3日目ともなって、年末できていなかった掃除などの野暮用も一段落、時間的余裕もできてきたので本を手にとってみた。
週刊金曜日取材班『増補版 電通の正体―マスコミ最大のタブー』
あともう1冊は、
どちらもサクッと短時間で読める軽めの本。
前者は電通が広告業界のみならずマスコミ、政財界、ひいては国を牛耳っているとも思える現状を垣間見させてくれる。
メディアを制することが国を制するということにもなるということか。
後者はテレビ業界のビジネスモデルに疎い私に、そのおいしいビジネスモデルの実態とそれがネットの台頭と政府の政策によって、崩れていきかねない可能性があることを知らしめてくれる。
この2冊、広告代理店的立場とテレビ放送局的立場の両方のビジネスのおいしさと危機に感じている点をふまえた上で、改めて我々の事業展開にあたっては、高い使命感を持ちつつ今以上に「政治」を知って動いていかねばならないと痛感。
ネットバブルの頃に続々登場したネットベンチャー達のように、 ビジネスモデルがあれば政治のことがわからなくても正面突破できるという能天気な事業展開だけは絶対に行いたくないものだ。
ここのところ仕事しているか寝ているかの二者択一しかないかのような日々を過ごしてしまっている。
気がつけば一ヶ月くらい読書もしていない。
読む以前にすぐ眠ってしまうのだろうと勝手に予想してしまって、手に取ることがなかった。
でも、これって改めておかしな考えじゃないかと思い直した。
安岡正篤の言葉にふれて。
読書して疲れるようではまだ本当でない。疲れた時読書して救われるようにならねばならぬ。