2006/08/31 木曜日

京都寺町「八百卯」の完熟プラムジュースを飲みながら思いめぐらす

Filed under: マーケティング, 食べる・呑む — 咲本 @ 23:35:12

午前中から高台寺のまほうやさんと寺町二条の清課堂さんにご訪問。

用事が終わるとお昼になっていたので、まほうやさんとすぐそばの「八百卯」のパーラーでフルーツサンドを食べた。
私がこのお店に来たのは20年ぶりくらいかな。

フルーツサンドは高級メロンをはじめとして有無をいわせぬ果物ばかりが使われていて、改めてどうこう言うまでもなくウマい。
これがたった600円なのには驚く。
飲み物は完熟プラムのジュースをいただいた。
完熟プラムは今の一時期しか楽しめないらしく、店主さんオススメの品。
渋味もほとんど感じず、さっぱり甘くてとてもおいしい。
作り方は絞って作るらしいのだが、企業秘密らしい。
こんなにおいしいプラムは初体験。
そこで長年このお店に通われているまほうやさんの顔で、プラムの実もいただくことにした。
う〜む。
なぜこれがプラムなのか信じられないおいしさ!

店主さんからイロイロお話をお伺いしていると、お店の果物は一般的な卸売市場ルートばかりから仕入れるのではなく、 果物によっては直接農家から仕入れたり、市場であっても仕入れる農園が決まっていたり、輸入物でも限られた特殊ルートであったりと多岐にわたり、気候の影響が仕入れにまともに響くので、ご苦労が絶えないとのこと。

昔は日曜も無休であったそうだが、今はシャッターを下ろされている。
それもこれも月曜日の仕入れを手配するために営業できなくなってしまったからとのこと。

例えば取り扱われているメロンは宮内庁御用達の農園のものなので、ほとんどの果物屋さんが入手できないらしく、転売しようとすればできるランクのものらしい。

また、商品がデリケートなものであるから、配送業者による商品の取り扱われ方相当敏感になっていらっしゃる。
トラックの荷台で運んでくるなんてもってのほか。
助手席に置いて丁寧に運んでくるのが基本(^^;

ちなみに八百卯のフルーツパーラーは、梶井基次郎『檸檬』の主人公がレモンを買ったのがこのお店1階の果物屋さんで、そちらの2階にある。
1階で果物を買うと高級品ばかりなのでそれなりの金額がかかってしまうが、同じ果物なのに2階のパーラーだとその日の店主さんオススメのフルーツが気軽に楽しめる。

八百卯は創業120年とのことで、おそらく創業時には華族をはじめとした一部の上流階級向けのショップであったのだろうが、この商品へのこだわりは、売上第一主義に安易に走らず、現在に至るまでそのスピリットを引き継いできていらっしゃるということなのだろう。

普段行く機会のない老舗のフルーツショップに来たものだから、今度東京に行った際(ひょっとすると来週早々?)には、まだ一度も行ったことのない「万惣」に立ち寄ってみたくなってきた。

この万惣という果物屋さんも創業160年にもなる老舗。
こちらの果物屋さんにもフルーツパーラーがあり、しかも池波正太郎がこちらのホットケーキを愛してやまなかったという小説家ゆかりのお店という共通点がある。

まあそれはどうでもよいことで、万惣の興味深い点は、東京オリンピック開催の高度経済成長時、果物のニーズが劇的に高まり、今まで取引されていた多くの高級ホテルや料亭から、果物の値段と果物の大きさを見るだけの安易な形での注文が殺到した当時、こられの取引を一切やめてしまわれ、売場面積を縮小されたお店でしか売らないと決断されたのだ。

ずっと品種改良・開発のために産地の農家にまで行かれるほどのおいしい果物を追求され続けてきたその品質を維持しようとすると、その品質を満たせるだけの果物は、縮小した売場で販売するだけのものしか入手できなかったからである。

ここで私は考えてしまう。
八百卯や万惣がされてきたことは、量の拡大ではなく質の拡大であることは理解できるのだが、私自身が経営者の立場だった場合に、売上を劇的に伸ばして飛躍できる千載一遇のビジネスチャンスのようにも見えなくもない時に、「いや、我々は量ではなく質を求めるのだ」と意志決定して、売上を伸ばすどころか、既存のおとくいさんとの取引をお断りしてまで「質」を追求していけるのだろうかということ。

数年のうちに売上を2倍・3倍と拡大していけるチャンスが目の前にあって、それでも「量」ではなく「質」的拡大のほうが優先されると果たして決断できるのだろうか?

確かに極上のおいしい果物をお客さまに提供することで、お客さまに感動を提供することができるのだろうが、このような意志決定は、口先で言うほど実際には簡単なものではなく、しかもこの点が「ブランド」を研ぎ澄ましていくのには、とても重要なポイントに思えるのだ。

てなことで、東京へ行った際に時間が確保できれば、万惣のパーラーで名物のホットケーキと共にフルーツを堪能してみたいと思っている(^^;

2006/07/20 木曜日

大学院講義「いかにマーケティングは成立するのか」

Filed under: マーケティング, 講演・講義 — 咲本 @ 03:19:14

デジハリ大学院のインターネット・マーケティング講義、今回は「いかにマーケティングは成立するのか」と題して、私がいかなる思想的基盤によって思考していっているのか、その一端をお話させていただいた。

おおまかな内容としては

  • マーケティングを本業にしながら、なぜ私は以前から「マーケティング」という言葉になじめず、違和感を感じ続けてきているのか?
  • MarketingのMarket(市場)とは?
  • 市場社会(または工業化社会、近代社会)の特殊性と非市場社会の普遍性
  • 物の交換の起源が物々交換というのは大ウソ
  • 「交換」より上位概念となる「交易」とは?
  • 「意味」という病
  • 工業化社会の価値観を問い直す
  • インターネット社会というものがありうるとすれば?
  • お金儲けをゴールとしない思考
  • 「解を求めようとする」Plan→Do→Seeモデルから、消費体験の顧客との共創ー学習による「問題そのものの発見」モデルへ
  • 「共創」パラダイムにおけるマネジャーの活動、「即興演奏」モデル

という感じ。

次回の講義がマーケティングの最終回となり、大学院生さんからの課題発表を行ってもらう予定なので、実際上は今回が私がお話できる最後ということでもあるので、ちょっと面食らうような展開だったかもしれない講義とさせていただいた。

大体、マーケティングとは限らなくても、少なくともビジネスのお話をしているはずの立場の私が、講義の参考にしている著作者の中に、カール・ポランニー、マルセル・モース、マーシャル・サーリンズ、今村仁司、柄谷行人、橋本治のような人達が入り込んできているのって、ちょっと変かもしれない(笑)

気がついたら「え〜っと、全然関係なさそうやけど、実はマーケティングの根幹に関係ある話なんですよ」と必死に断りながらしゃべっている私がいた(爆)

2006/07/13 木曜日

仏具工房での体験が込められた小学生達の卒業記念品

Filed under: マーケティング — 咲本 @ 04:05:09

昼間、京仏具の小堀さまの仏具工房にお伺いさせていただいた。
目的は地元小学生が自分たちの卒業記念品となる文鎮(ぶんちん)のとっておきの装飾となる金箔張り体験学習に来訪されるとのことで、その見学のため。

先日いくつかのエントリーで書いたとおり、平田先生の「魔法の掃除」がきっかけとなって子供達の自問につながりそうなことに関心が俄然高いことと、小堀さまの「手を合わす心を子供や孫たちに」との企業方針に基づかれたご活動にも注目していたところ、たいへん有り難いことに小堀専務さまからお誘いいただき、これ幸いとばかりに訪問させていただいたのだった。

金箔張り

日常子供たちと接触する機会もなく、学級崩壊などのよろしくないニュースばかりがマスコミを通じて入ってくる私がまず驚かされたのは、子供たちのとても澄んでいる心と物事に素直に取り組もうとする姿勢であった。
6年生ともなると、マセたガキがシラケモードで、嫌々やらされているような感じなのかもしれないと勝手な想像をしていたが、そんな先入観は見事に打ち砕かれた。

子供たちが学習することの基本的な構えを身につけてきているからに違いはないが、金箔張りを一生のよき体験・想い出としてもらおうとの小堀さま側のマインドが私にもジンジンと伝わってきた。

午前中に2クラス、午後から1クラス、総勢100名の生徒さんに万全のフォロー体制で臨むべく、約10名のスタッフさん達が、かかりっきりで金箔張りのお手伝いをされていた。
子供たちが真剣なら、小堀さま側もガチンコの真剣モードなのだった。

中途半端な気持ちでいくら格好をつけて「手を合わす心を子供や孫たちに」と謳ってみたところで、準備と後片づけを含めると、約10名もの人達が丸一日かけて子供たちによい体験をしてもらおうと汗を流すことは、そうそう出来ることではない。

では金箔張り体験の団体予約が年に一度きりのことかというと、そんなわけでもなく、とりわけ修学旅行シーズンには殺到するらしい。
しかも小堀さまは土産物店のような業種ではないので、いくら子供たちのために時間と手間をかけたところで、直接的には1円の儲けになるわけでもない。

ここがマーケティング的観点からも、たいへん注目すべきところだと思うのである。
その観点とは、CSRという文脈で語られているものとは全く違った点においてである。

金箔張り体験が終わったあとにも、質問タイム、その他詳しくはあえて書かないが子供たちを驚かせる気の効いた企画が続く。
徹底的に子供たちによき体験を提供させていただきたいとの姿勢が貫かれている。

ちなみにこのイベントにはマスコミ2社が取材に来られていたが、これだけ充実した企画であれば納得といったところなのだろう。

2006/06/28 水曜日

男前豆腐の別バージョンを食す

Filed under: マーケティング, 食べる・呑む — 咲本 @ 14:17:08

昨日に続き、昼食には豆腐(^^;

男前豆腐1

しかも男前豆腐の昨日とは違うタイプ(^^;

昨日のはおぼろ豆腐2人分を商品化したものであるが、本日のものはパッと見るとインパクトはあるがオーソドックスなタイプ。
ただ、重量感はほかの豆腐とは全く違う。

上部セロハンを取ってみると、豆腐は吸水性の高いクッキングペーパー状のものに包まれていた。

そしてなんと↓のように抜けた水分が豆腐と分離されるようなパッケージ構造となっていた。

����2

おぼろ豆腐を食べてみてわかったのは、味が濃厚で大豆のうまみそのものがしっかり味わえたこと。

おそらくこちらのタイプも豆腐の水分を抜く工夫によって濃厚な味を提供しようというための工夫なのであろう。

そういえば「ざる豆腐」という、ざるに豆腐を盛られたものを飲食店で食べることがあるが、あれはざるの上で長時間かけて豆腐の水切りをすることで大豆の持つ味を楽しめるようにする工夫のひとつである。

この豆腐はざる豆腐に見られる発想を豆腐のパッケージに活かそうとしたのだと想像する。

食べてみると普通の豆腐に見られる食感とは違うことがすぐにわかる。
どちらかというとクリームのような食感とでもいえばよいのだろうか。

味はやはりしっかり濃厚なのだが、「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」とは違って、もともと水分を普通の豆腐と同じように含んでいたものから水分を抜いていったがゆえに、 味は濃厚ではありながら比較的あっさりと食べることができた。

ただただ目新しさだけの豆腐でないところが伺い知れる。

2006/06/27 火曜日

京都的な企業、男前豆腐店

Filed under: マーケティング, 食べる・呑む — 咲本 @ 16:47:58

風に吹かれて豆腐屋ジョニー京都は昨日と比べて気温10度アップ。
こうクソ熱い時は・・・ということで昼メシに冷や奴を食べる。
味が濃厚かつなめらかな食感でウマい。
京都の八木町という田舎にあって全国メジャーとなった「男前豆腐店」。
一見キワモノ扱いされかねないように見えながら、京都的ともいえる骨太コンセプトかつ繊細なモノ作りへの取り組みが結実した商品だ。

とはいえ今やセブンイレブンでも買えるんだよね。

この会社、おもろい。

フルFlashで作られたWEBがダメだということを講演の中では話したばかりだが、こういう風にやるのだったらGood!でも普通の企業だったらこのノリではようやらんでしょ?
http://www.otokomae.jp/

なに?京都らしくないって?
そう思った人は大きな誤解をしている。

「古臭い」のが京都らしいというのは、単に頭が堅く柔軟性に欠けるだけなことを伝統だと勘違いしているジリ貧企業が考える幻想であって、新しもの好きというか、それらには敏感な感性を持ってビジネスに取り入れていくのが京都的な姿なんだと思う。
これは、流行っているからカッコよさそうだからIT系やってますといった根無し草な振る舞いを起こす起業家達ともちょっと違うところ。
新しさは一見古〜く思われそうな豆腐みたいな業界でもいくらでも可能なのだ。
で、京都的な起業家はそれをやっていくところがいかにも京都的。
そういえば、3年前にあえて豆腐を選んで書いたコラムのことを思い出した(^^;
http://www.crafting.jp/blog/differenciation/

今読み返してみると、まるで男前豆腐店を事例にして書いたようなものになってて我ながら面白かった。

京都を本社におくヒューマンフォーラムの出路社長が提唱する「ちょっとアホ理論」の実践も、私からすればとっても京都的(^^;

2006/06/20 火曜日

マーケティングにおける記号学の活用

Filed under: マーケティング — 咲本 @ 04:11:16

「無謬性が私のモットーです」みたいな公的職員の方とメール交換していると、ほんま疲れる。ふぅー。

先週の大学院講義で文化記号論やレトリックへの造詣がマーケターには必要との私自身の言葉に影響を受けて、かなり久しぶりに丸山圭三郎氏の著書を取り寄せた。
文化のフェティシズム 丸山圭三郎『文化のフェティシズム』



この手の本の中では1984年以来第13刷まで続いており、なかなか健闘しているほうではなかろうか。

丸山氏の存在は、言語学者ソシュールの言わんとしていることをソシュール以上に明快に説明してもらえ、かつ廣松物象化論や市川浩身体論、 ボードリヤール象徴交換論など諸分野との関係性まで明らかにしてくれた上に、ソシュール自体も乗り越えていこうとするスリリングな理論を提唱されたという意味で、当時20歳前後のうら若き青年であった私に大いなる知的刺激を与えてくれた学者だ。

本書が出るまでにNHKのフランス語講座講師のイメージからソシュール研究の世界的権威へと認識を新たに変えさせられたのであったが、この書で「言分け(ことわけ)構造」なる仮説を提唱されて以来、丸山独自理論を提唱するための書籍が量産といってもよいペースで出版されていき、急逝されたのはまるでご自身の死期がわかっていて理論を世に問うのを急がれたようにも見えなくもなかった、そんな出発点ともなるのが本書である。

丸山氏の提唱する「言分け構造」とは、市川浩が身体論哲学を推し進めるのに「身分け(みわけ)」というアプローチに活路を見いだしたことをヒントにされており、

人間が動物である限り、私たちもまた〈環境世界・内・存在 In-der-Umwelt-sein〉であり、この〈身分け構造〉のなかに生きていることは間違いないと言ってよい。ところが、人間だけがこのような本能の図式に加えて、もう一つのゲシュタルトを過剰物としてもってしまった時から人間となったのではあるまいか。これが私の仮説用語である第二次分節の結果生ずる〈言分け構造〉であり、その網の目は「シンボル化能力とその活動」という広い意味でのコトバによるゲシュタルトにほかならない。(p.73-74)

と定義付けされているものだ。

その後、なぜ〈過剰 excès, surplus, ubris〉なのかという議論に移っていくのだが、そちらは省略して、なぜ「身分け構造」ではなく「言分け構造」の視点が必要なのかというと、

〈言分け構造〉に見出される〈用在性 Zunhandenheit〉は、あくまでも人工的道具を介しての用具連関であり、その基底は〈欲求 besoin〉でなく〈欲望 désir〉である。動物と人間に共通して見られる二大本能として、個体維持のための食欲と種族保存のための性欲があることはよく知られていても、動物における食欲と性欲が、それぞれ身分けによる生理的食欲求と性欲求であるのに対し、人間のそれは、言分けられた食欲望と性欲望であることに気づく人は少ない。(p.115)

から、そこに焦点を当てる必要があるからだ。

それがなぜマーケティングに必要になってくるねん!というところに少しだけ話を近寄せると、

J・ボードリヤールの諸著作に一貫して見出されるものも、この「欲求から欲望へ」変容した人間性に対する、ラディカルな批判である。これは人間の行動様式が生物学的不足・充足の関係で規定されると考えていた〈有用性 utilité〉中心主義、生産中心主義の近代西欧経済学への批判でもあり、この発想を百八十度転換させない限り、巨大なテクノクラート的企業が生み出した現代の技術・管理社会や、ブランド価値、威信価値、マスメディアが作り出す疑似イヴェントというシミュラークルに操作される大衆文化の解明は不可能であるという。このボードリヤールの指摘を幾分修正して言えば、彼が告発する「欲求から欲望へ」の変容は、何もポスト・インダストリヤルな現代社会に限った現象ではなく、はるか原始の世界から人間文化の基底にあったのである。(p.115-116)

すなわち、ブランド価値を理解したり商品価値を考えていくには、人間文化の基底にある「欲望」の構造を理解していこうとすべきなのであり、

ランガージュは、それ自体が一つの過剰であると同時に、過剰な〈意味=現象〉をもちたいと願う欲望の源でもあるのだ。(p.117)

と主張されているように、「ランガージュ」の解明が、ひいては「欲望」の解明にもなっていくのであり、マーケターはランガージュを理解して、その構造をビジネスに活用していくべきとの論理となるのである。

全くの余談ではあるが、ランガージュの仕組みを悪用して銭儲けしようとセミナーのネーミングを発想すれば、某氏のように「人運・金運、ツイてる経営者になる魔法の・・・あっ、やめとこ(^^;

2006/06/14 水曜日

両義性のマーケティング

Filed under: マーケティング — 咲本 @ 06:07:29

久しぶりに古典的名著、山口昌男『文化と両義性』を読み返してみる。
初めて読んだのはなんと20年くらい前(^^;

山口昌男『文化と両義性』 山口昌男『文化と両義性』



このような記号論的・文化人類学的視座に立った本って、軽いノリのビジネス書を読むよりも、余程マーケティングについて考えていくヒントとなるなあ。

かっちり使わせていただきます。

これらの例が示すように、境界には、日常生活の現実には収まり切らないが、人が秘かに培養することを欲する様々のイメージが仮託されてきた。これらのイメージは、日常生活を構成する見慣れた記号と較べて、絶えず発生し、変形を行う状態にあるので生き生きとしている。日常生活の内側にあった記号でさえ、境界に押し出されると、意味の増殖作用を再び開始して、新鮮さを再獲得する。これは、人間についても言いうることで、人は、自らを、特定の時間の中で境界の上または中に置くことによって、日常生活の効用性に支配された時間、空間の軛から自らを解き放ち、自らの行為、言語が潜在的に持っている意味作用と直面し、「生まれ変わる」といった体験を持つことができる。(中略)
こうして考察してきたところでは、文化の中の挑発的な部分は、それが秘める反社会性のゆえに、発生状態においては、周縁的部分に押しやられるが、絶えざる記号の増殖作用のゆえに、中心部分を生気づけている。中心的部分は、境界を、時と場所を定めて視覚化、強調し飾り立てることによって、中心を構成する秩序に対する「逆定言(カウンター・ステートメント)」を行うのである。(p.98-99)

2006/05/08 月曜日

ホテルニューオータニからの夜景

Filed under: 雑記, マーケティング — 咲本 @ 01:06:08

ホテルニューオータニの部屋はタワー棟36階のダブル。
たまたま偶然のラッキー部屋だった!

なぜなら↓下の写真のように東京タワーが真っ正面でそこに向かって延びていく赤坂の灯りが見える眺望の部屋だったからだ。

東京タワー夜景

同じ位置にある31階の部屋の眺めを確認してみたが、5階下になるだけで写真左側奥に青く光っているプレジデンシャルタワーは見えなくなってしまう。

なぜそんな確認ができたかというと、3日間限定企画として「TOKYO “YAKEI-ROOMS”EXHIBITION 2006」なるイベントが開催されており、タワー棟31階全ての部屋をこのイベント用に使用されていたからである。

このイベントはホテルからの夜景を楽しんでもらうことと、夜景とともに楽しめる新しい部屋の演出の提案がなされたもの。
イベントをプロデュースした「夜景評論家」丸々もとお氏の講演も行われたのであった。

31階を3つのエリア、それぞれ「自分を見つめる夜景エリア」「遊び心が高まる夜景エリア」「恋心が高まる夜景エリア」とされていたのだが、それらの部屋によって「音」「光」「香り」「グッズ」によるかなり個性の強い演出がなされていた。(例えば下の写真2つ)

YAKEI-ROOMS1

YAKEI-ROOMS2

一見悪趣味にもなりかねないギリギリのところといった感じがしなくもなかったが、例えば「青」や「赤」という光についてもカラーセラピーからのアプローチらしく、単なる思いつきだけではないらしい。

いやいやこれは悪趣味かどうかというよりも、上の写真にあるようなハート型の窓とハート型の風船を使った部屋にして夜景を楽しみながら出張Barによるカクテルサービスなども盛り込んだ企画をクリスマスイブにぶつけてみると、意外と予約が殺到するかもしれない。

実際、部屋一つを出張Barコーナーにしていた部屋も企画されていたくらいなのだ。

観覧した客の意見を参考にしようと思ってなのか、やたらとホテルスタッフさんも多くいらっしゃって、イロイロと説明をしながら客とコミュニケーションしようとの意向も明らかだった。

そう、東京のホテル業界は新規オープンするホテルの多くが、次から次へと新しく建設される高層ビルの高層階を使うので、「ホテルからの夜景」ということによる競争が既に始まっているのだ。

建物自体を変えるわけにはいかないとすれば、夜景を含む部屋の空間の提案合戦が始まろうとしている、というかそこで一歩リードしようと思っているのがニューオータニだというわけ。

それにしても「夜景評論家」なる方が、ホテルはもとより各地方自治体からも引っ張りだこの人気だということには驚いた。

2006/04/30 日曜日

コラム【愛と感動のレストラン「カシータ」のホスピタリティ】が完成

Filed under: 雑記, マーケティング — 咲本 @ 04:54:11

やっと4回シリーズのコラムの最終編【愛と感動のレストラン「カシータ」のホスピタリティ(4/4)】を書き上げた。

書き始めるとスイスイと進むのだけれど、期限がないものを書くって意外と難しいものだなあ。

2006/03/31 金曜日

ヒトはなぜその商品を選ぶのか?-脳とクオリアから解き明かす

Filed under: マーケティング, 読書 — 咲本 @ 10:06:31

著者の方から直メールをいただいた。

ヒトはなぜその商品を選ぶのか?-脳とクオリアから解き明かす 平林 千春
『ヒトはなぜその商品を選ぶのか?-脳とクオリアから解き明かす 』


きっかけは、およそ2年ほど前(2004年5月)に発売された本書について、2004年9月に私がメルマガ用の書評コラムで取り上げたのをご覧になってのことであった。

当時は2週間に一度のペースでSOHO事業者向けの書評コラムを書いていた時期。
SOHOであるかどうかにかかわらず、マーケティングについての書籍ははずせないと思っていて、それこそコトラーの分厚い本でも俎上に乗せようかと考えたこともあったが、そんなことを思っている時に何気なく出会った書であった。

本の外観をパッと見ただけでは、ノウハウ本のような軽さを感じてしまう。
が、そこは日本実業出版社という実務系実用系書籍の出版社から出ているために致し方ない。
そんな印象を持って購入した方は面食らうことになる(^^;

どういった点に感心して書評でご紹介しようとしたのかについては、当時のコラムを読んでいただいたほうが早いが、 最も驚いたのは、現在テレビでもお馴染みの茂木健一郎氏のクオリア論と佐々木正人氏が日本で展開するようになって一躍脚光を浴びているアフォーダンス論とを、サイエンスとしてのマーケティングに持ち込もうとしたところ。

私自身もクオリア論とアフォーダンス論には並々ならぬ関心を持ち続けていただけに、本書を読んで「あっ、やられた〜!」との感を持ったのと同時に、同じような方向からマーケティングを模索しようと考える方もいるもんだなあと、親近感を抱いたことを思い出す。

いただいたメールによると、現在はフリーのマーケターをされながら、東北芸術工科大学デザイン工学部未来デザイン学系で教授をされている。
大学でも「より本質的見方ができるプランナーやデザイナーを育てようと思っています。クオリアの探求はここでも重要なテーマになっています」とのこと。

「今後クオリアから見た時代や市場の分析は不可欠と思っています。
ただ著書は50冊を超えたのですがなかなか思うような本が出せずいらいらしているところです。
前出の著書も不満は残るのですが、それでもあなたのような方のお目に留まり、出してよかったと思います。
最近は企業ものしか出せなくなったのですが、現在『クオリア工学』をテーマに出版を計画中です。」

私が「私の本棚」:認知論というコンテンツでのオススメ書籍に茂木健一郎氏のクオリア論と佐々木正人氏のアフォーダンス論とをピックアップしているのは、実は平林氏の言われるようにマーケターとしてより本質的な見方ができる視点を得るためのヒントとなりそうだからであった。

今後の平林氏の出版から勉強させていただけることは多いだろうし、たいへん期待してしまう。
見習うべき先輩として今後ともお付き合いできれば嬉しい。

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