2007/03/09 金曜日

ヴァントのブルックナー4番ほか

Filed under: 雑記, (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 00:30:21

最近購入したばかりのブルックナーのアルバムを聴く。
NIKOLAUS HARNONCOURT,WIENER PHILHARMONIKER ブルックナー:交響曲第9番 NIKOLAUS HARNONCOURT,WIENER PHILHARMONIKER ブルックナー:交響曲第9番

まずはアーノンクール指揮の9番。
ブルックナー解釈であれこれいっぱい主張したいことがあるのか、このアルバムでは9番の第4章は存在したとして語りとその音楽を収録したCDが1枚余計についてくる。
「余計」だというのは、個人的に私にはどうでもよいことで、そんなものを付けるくらいなら、そのCDの枚数分購入価格が安かったほうがマシ。

3楽章までの曲はアーノンクールの「秀才ぶり」を存分に楽しめる。

とりたてて文句のつけようもなく細部までまとまってもいるし、ウィーンフィルの演奏もものすごく美しく、CD自体もSACDとして発売されており音質もよい。
人によっては歴史に残る名演だと評するかもしれない。

でも私はあまり高く評価できない。
なんというか、面白みに欠けるとでもいえばよいのか、ちょっとしたタメやマといった余裕がないとでもいうべきか。
まったく違った言い方をしてみると、量子力学を知っている者にとっては簡単に説明できてしまうモノの振る舞いについて、それを知らないながらもニュートン力学を駆使していいところまで量子的振る舞いの説明に肉薄しようとしている人を想起させるとでもいおうか。
だからその肉薄しようとする姿に接すると迫力を感じるが、しかしいくらがんばっても所詮は量子力学には届かないということにもなる。

私は秀才の演奏よりも天才の演奏のほうを好む。

Günter WAND Münchner Philharmoniker,Anton Bruckner Symphony No.4 Günter WAND Münchner Philharmoniker,Anton Bruckner Symphony No.4

そういった意味では同時に購入したギュンター・ヴァントのブルックナーは、チェリビダッケにはかなわないながらも、間違いなく天才の領域だ。

今回購入した4番の演奏は、ブルックナーに関しては抜群の演奏力を見せ付けてくれるミュンヘン・フィルとのもので、 ヴァントが死去する直前のライヴ・レコーディングだ。

チェリが音ひとつひとつの響きとその変化、音の立ち上がりから消滅に至るところをしっかりと聴かせてくれるのに対し、ヴァントの場合には音というのはしっかりとした輪郭と芯があるもので、輪郭ある音のツブツブ感を細部に至るまで浮き彫りにさせてくれるような演奏である。
またそのツブツブ感が心地よいテンポ感を生んでもいる。

そのほかにも、ヴァント+ミュンヘン・フィルの8番も購入したが、Amazonで見当たらなかったので書くのは省略。

2007/01/20 土曜日

Just Blaze来日!代官山のクラブでの一夜

Filed under: 雑記, (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 04:28:50

弊社コレやんとの以前からの約束でクラブに行った。もちろん踊るほうの(^^;

まあ深夜にならないと盛り上がらないだろうとの見込みで先に一緒にメシを喰いにいった。
ここのところ昼間はコンビニのノリ弁とサラダのお世話になっていて、ちょっとうまいものも喰いたく、六本木のFOXTAILに行った。
松坂牛、カニ、刺身や目の前でドレッシングの調合から全てやってくれるシーザーサラダなど、たらふく食べて腹ごしらえ。

午後11時半になりチェックアウトして、いよいよ代官山のクラブ、AIR(エアー)へ。
ここはB1FとB2Fとが吹き抜けになっているので天井が高く、廃墟となった倉庫を思わせるいい雰囲気をかもし出していた。
お目当てはニューヨークから来日した有名プロデューサー兼DJのJust Blaze。

どれだけ大物かというと、

Just Blaze / ジャスト・ブレイズ | notrax
ジャスト・ブレイズ プロフィール

ジェイ・Z(Jay-Z)、ビーニー・シーゲル(Beenie Sigel)、メンフィス・ブリーク(Memphis Bleek)、フリーウェイ(Freeway)、キャムロン(Cam’Ron)、ヤング・ガンズ(Young Gunz)と言ったRoc-A-Fellaアーティストからジョー・バドゥン(Joe Budden)、ファボラス(Fabolous)、マライヤ・キャリー(Mariah Carey)、エリック・サーモン(Erick Sermon)、キース・マレイ(Keith Murray)、バスタ・ライムス(Busta Rhymes)、フリップモード・スクワッド(Flipmode Squad)、イグジビット(Xzibit)、ビッグ・パニッシャー(Big Punisher)……携わったアーティストは数えればきりが無いほど、今や押しも押されぬスーパープロデューサー。

古いクレジットを辿っていくと、プロデュースの前にエンジニアリングでもしっかりと仕事をしており、機材にも精通したプロフェッショナルだからこそ 出来るアイディアフルなサウンドでヒップホップシーンに一石を投じた存在であり、かつDJプレミア(DJ Premier)やピート・ロック(Pete Rock)をアイドルとしているだけあり、サンプリングに対する思い入れがその代表曲からうかがえる。特にソウルミュージックのサンプリングソースのチョ イスに関しては、彼ならではのエモーションを感じさせるモノが多く、ジェイ・Zの”Girls, Girls, Girls”の様なブリッジ部分の器用な使い方や、単なるサンプリングループに終わらない構成の組み方には、彼独特の音楽観が如実に現れている。ヒップ ホップのみならずアッシャー(Usher)をはじめ、ジャネット(Janet Jackson)やアレン・アンソニー(Alen Anthony)、レル(Rell)、元デスティニーズ・チャイルド(Destiny’s Child)のラトーヤ(Latoya)等、R&Bアーティストのプロデュースも精力的に行っている。

NYではDJプレミアらとパーティでDJをしていたりと、まさに往年の「プロデュースも出来るヒップホップDJ」といった一面もあり、DJとしての 来日も果たしている。今後は彼の設立したレーベルからシカゴ出身のデイブ・ヤング(Dave Young)と、NYで現在1番ホットなMCと言われているサイゴン(Saigon)の二人をリリースする予定のようで、これからも当面彼がシーンの中で トップハードワーキンプロデューサーであることは間違いないようだ。

てなことなので、コレやんにすすめられて即効行こうと、随分前から決めていた次第。

さて、到着したのが遅めだったこともあり、もうそろそろ始まるかなあと思っていたところ、なかなかJust Blazeは姿を見せなかった。
結局登場したのは午前2時を過ぎていたかと思う。
そんな時間であっても、花金だということも手伝ってクラブは超満員状態。
500,600名、いや1,000名近くの入場者がいたかもしれない。
JUST BRAZE JAPAN TOUR 2007

Just Blazeは確かに安定感抜群のテクニックを披露してくれたし、80年代~90年あたりのヒット曲をリミックスしてくれたりする場面もあったこともあり、私のようなオッサンにも楽しめた。
もともとラップ系の音楽は90年ごろクラブ通いをしていてその頃たっぷり聴く機会があり、Just Blazeの王道なDJぶりは私好みであった。
それにしても、来ている客がほぼ全員10代~20代だったのには驚いた。
私はこれだけの大人数の中で間違いなく最年長(^^;
30代、40代の人たちって踊りには行かないものなのだろうか?
それとも大物ゲスト登場の情報が入手しきれていないだけ?
あと残念なことに、いまどきの20代って激しく踊ることがない模様。
微妙に体をゆする程度であって、汗の出ない範囲?
この日はかなり混み合っていたので致し方ないところもあるが、たとえスペースに余裕があっても彼彼女たちの様子を見ている限りでは、踊り方は変わらないのだろうな。
踊る場所に足を運んでいながら思いっきり踊れない若者って、何か間違っているような気が。。。
20代の頃はスーツを絞ると汗がしたたり落ちてくるほど踊っていた私世代のおっちゃんなら、皆そのように思うのだろう。
私は午前3時半くらいに退散したが、コレやんはおそらく朝までいたのだろうな。
ニューヨーク仕込のコレやんの踊りをいつか見てみたい。

2007/01/10 水曜日

ブルオタ必須!チェリビダッケのブルックナー5番

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 00:46:04

クラシックをよく聴く私のことを金持ちのボンボン育ちだと勘違いしている人が結構多いようなので一言断っておくと、どう考えてもかなり貧乏な育ちをしたことは間違いのないところ(^^;
このブログで正月にブルックナー交響曲5番の聴き比べをおこなったが、最近になってチェリのブルックナー5番が新しく発売され、本日手に入れたのでその感想をば。

celibidache brucknerNo.5 CELIBIDACHE Bruckner Symphonie Nr.5 MÜNCHNER PHILHARMONIKER

このアルバムは最近になって1986年の来日公演を収録したものであり、そういう意味では今一番のおススメとなるもの。

演奏時間はなんと驚愕の89分4秒!!
同じ時期の演奏である東芝EMI盤の87分39秒を上回ってしまった。

これはサントリーホールでの演奏であるが、EMI盤の録音よりも音の響き方が自然な感じがする。

このアルバムも、他の指揮者とは比べ物にならないほどの遅いテンポでありながら、まったくテンポの遅さを感じさせない。
人工美の極致によって「あちら側の世界」にまで連れて行ってくれる、もう「すごい」としか言いようのない演奏だ。

ちなみに表題にある「ブルオタ」とはブルックナー・オタクのこと

KNAPPERTSBUSCH Bruckner Symphony No.5 Vienna Philharmonic OrchestraHANS KNAPPERTSBUSCH Bruckner No.5 Vienna Philharmonic Orchestra

こちらはチェリのものすごく息の長い演奏とたまたま対比的なこととなってしまったクナッパーツブッシュとしては唯一のステレオ録音となる5番のアルバム。

本来はいくら巨匠の名演だと評価の高い演奏であっても、古い録音のものは基本的に聴かない方針なのであったが、こちらはかろうじてステレオ録音だということなので一度聴いてみようと思った次第。

でも、その評判にもかかわらず、私には録音が悪いために、とてもではないが楽しめなかった。
これは私のまだ生まれていない時の演奏であって、当然生演奏で聴いたわけでもなく、これだけ音質が悪いと、誰がなんと言おうと素晴らしい演奏だとはいくら想像力を働かせても思えないのである。
ちなみにではあるが、両者の演奏時間を比較すると、チェリが89分4秒、クナッパーツブッシュが60分18秒。
いくらなんでも合計演奏時間が29分も違うとは!

なお、ついでに購入したのは「ミスターS」こと、スクロヴァチェフスキのアルバム2枚。

Stanislaw Skrowaczewski ベルリオーズ:幻想交響曲 Stanislaw Skrowaczewski ベルリオーズ:幻想交響曲

Skrowaczewski Bartok Concerto for Orchestra Stanislaw Skrowaczewski, Bartók: Concerto for Orchestra; Divertimento for String Orchestra

ベルリオーズの幻想交響曲とバルトークの管弦楽のための協奏曲。

曲の隅々にまで明確な表現意思が感じられ、なんとなく曲が流れていくというところがない。
徹底的に鍛え上げられたザールブリュッケン放送交響楽団の演奏レベルも高い。
ミスターSの室内楽かと思えるほどの繊細さが光る名演、とても満足(^^;

2007/01/08 月曜日

なぜかココロに染み渡る歌唱―小椋佳コンサート「未熟の晩鐘」

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 07:48:22

弊社の顧問をしていただいている方にお誘いいただき、小椋佳のコンサート「未熟の晩鐘」に行ってきた。

62歳にしてなんと31都道府県合計41回も敢行される全国ツアーの最後2回を飾るNHKホールでのものだった。
正直なところお誘いをいただかなければ出向くことがなかったかもしれないコンサートではあったが、会場はぎっしり満員御礼状態、年配の方々から絶大なる支持を受けていることが如実にわかる。

東大法学部卒で現・みずほ銀行の支店長まで勤め上げられた銀行マンであったことは有名であるが、人気歌手への楽曲提供も300曲を超えるとのこと。
有名なところでは、布施明の「シクラメンのかほり」、梅沢富美男の「夢芝居」、美空ひばりの「愛燦燦」などがある。
コンサートから帰り、メシを喰ってしばらくするといつもとは違い眠気をもよおし、すっと深い眠りに入っていくことができた。
朝自然に目覚めるととても爽快である。
これは小椋佳のコンサートの影響なのだろうか。
いやきっとそうだろう。

「癒し」という使いまわされている言葉で表現しきれない何かが小椋佳の歌唱にはあると思う。
まったく無理を感じさせずいつも穏やかなのではあるが、ただボサーっとしたのっぺらぼうに穏やかなのではなく、その奥には深い深い哀しみや厳しい試練を乗り越えてきた上での穏やかさのようなものを感じる。
だからシンセサイザー系のヒーリング音楽とは質のまったく違った癒しがそこにはある。

なお、小椋佳の楽曲を聴きたい人は、iモードの「着うたフル」でも楽しめるようになっている。
↓↓ のQRコードから「まるステフル」で約80曲がフル楽曲でダウンロードできるので、是非たくさんの人に楽しんでもらいたい。
まるステフル

懐かしの名曲を含むベスト盤はこちら↓。

小椋佳『ゴールデン☆ベスト』 小椋佳『ゴールデン☆ベスト』

今回の全国ツアーと同名のニューアルバムはこちら↓。

小椋佳『未熟の晩鐘』 小椋佳『未熟の晩鐘』

2006/12/31 日曜日

ブルックナー交響曲第5番聴き比べ

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 04:19:33

年末特集というわけでもないが、久しぶりにブルックナー交響曲について。
中でも私の好きな第5番を集めて感想メモを書いておく。

なぜ、ブルックナーの4番や8番ではなく、5番なのか?
それは、ひとえに私の好みということに尽きる。
それに加え、5番の演奏ってアルバムとしてさほど売れるとも思えず、そのわりには指揮者として曲を仕上げるには練習に相当の時間を要する上に、オーケストラに力量がないとよい演奏にならないというふうに、アルバム発売に至る苦労は並大抵ではないことが予想されることから、この5番を出しているということは、相当ブルックナーへの思い入れがあるということに違いなく、どのアルバムを選んでみても、それなりのクオリティの高い演奏が揃っていると考えられるからだ。

Bruckner: Symphony no 5 / Celibidache, Munich PO Bruckner: Symphony no 5 / Celibidache, Munich PO

↑ブルックナー5番の感想が以下続くわけだが、5番を聴いたというには何を差し置いてもチェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルを聴くべし。
ほかの指揮者と比較しようのない領域にまでいってしまっている。
晩年のチェリ特有の他と比べるととてつもないゆったりとしたテンポで、全曲通すと87分39秒にもなり異例の2枚組のアルバムというものであるが、弛緩したところは微塵もなく、最初から最後まで緊張感を強いられる。

緻密なアンサンブルから金管のフォルテシモまで誤魔化したり崩れたりすることもなく、その完璧さと壮大さから確実にあちら側にいかせてくれる。
私はもう100回以上聴いていて、いつの場合でも感動して鳥肌が立ってしまう。

具体的にチェリがどのようによいのかについては、過去のブログエントリーにたくさん書いてきているので、それらを参照願いたい。

Sergiu Celibidache, SWR Stuttgart Radio Symphony Orchestra / Bruckner: Symphonies Nos. 3-5, 7-9 Sergiu Celibidache, SWR Stuttgart Radio Symphony Orchestra / Bruckner: Symphonies Nos. 3-5, 7-9

↑今のタイミングではミュンヘンフィル版は中古でしか入手困難なのだろう。
そんな時はこちらのシュツットガルト放送交響楽団のものでチェリの演奏の一端をうかがい知ることができる。
ただ、晩年の演奏にはいる前の時代のものであることから、あのテンポ設定にはなっていないタイミングであることと、ミュンヘンフィルのような迫力がないので、少し物足りなさが残る。

Bruckner Sym.5: Jochum / Concertgebouw.o (1986 Live) Bruckner Sym.5: Jochum / Concertgebouw.o (1986 Live)

↑ブルックナーといえばヨッフムの演奏が一般的に代表選手のように評価されている。
こちらのアルバムはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と1986年というヨッフム最晩年に収録されたもので、チェリほどではないにしろ、ゆったりとしたテンポで壮大な5番の世界を構築した2枚組でしか収まらない長さのアルバム。
さすがブルックナー協会の会長を務めていただけの大御所最後の5番のライブだけのことはある。
十分に感動的であるが、オケのほうがヨッフムの要求にアップアップでついていっている感と若干の演奏のムラがあるところがたいへん惜しく、ヴァントに続いて第3位の演奏と評価しておく。

Georg Solti, Chicago Symphony Orchestra / Anton Bruckner: The Symphonies Georg Solti, Chicago Symphony Orchestra / Anton Bruckner: The Symphonies

↑ゲオルグ・ショルティ指揮のシカゴ交響楽団って?と首をかしげる人もいるかもしれない。
でもショルティは交響曲0番から9番まで収録された全集まで出ているくらいであり、ブルックナーを得意レパートリーのひとつとしていたことは間違いない。
どの交響曲にもいえることなのかもしれないが、5番の演奏もブルックナーうんぬんというよりも、シカゴ交響楽団の乾いたサウンドと超絶なパワフルさ全開といったものとなっている。
ただ、この5番はブルックナーの中でもかなりパワフルさが引き立つ曲であるので、5番に関しては異色の演奏として聴き応えのあるよい演奏に仕上がっていると私は評価する。

Herbert von Karajan, Bruckner 9 Symphonien Herbert von Karajan, Bruckner 9 Symphonien

↑帝王カラヤンもブルックナー全集を出している。
好きな人も数多くいることなのだろう。
しかし私は大嫌いな演奏のひとつ。
なぜならブルックナー5番は「商業主義」の通じにくい曲だから。
良い悪いを別にしてカラヤン=商業主義を確立した指揮者だと私は思っている。
レコードのダイナミックレンジを意識したレコーディング用の演奏、テンポや強弱の変化にメリハリをつけたり、メロディをうたわせるところをオーバーにやらせたりするようなことにより、ダイナミックな演奏に聴こえるようにすれば、聴衆は感動するのだろうという基本的認識があるように思えてしまい、音楽の背後にひそむ思想なんてどうでもよく、あとはビジュアル的にも様になるようにポーズすれば人気が出るだろうと見えてしまう。
音の強弱、テンポの変化、メロディをうたわせて、この5番を構築できるかというと、そうは問屋が卸さない話であって、カラヤンの演奏は部分部分を聴くとクオリティが高く聴こえつつ、全体として評価すると感動する演奏とはほど遠く、何も伝わってくるものがないのだ。

Nikolaus Harnoncourt, Wiener Philharmoniker / Bruckner: Symphony No. 5 (with Excerpts from the Rehearsals) [Hybrid SACD] Nikolaus Harnoncourt, Wiener Philharmoniker / Bruckner: Symphony No. 5 (with Excerpts from the Rehearsals) [Hybrid SACD]

↑アーノンクールの演奏は秀才的な演奏といったイメージ。
取り立てて弱点のようなところもなく、相当なところまで研究し尽くして演奏しているように思う。
このアルバムにはリハーサル模様まで収録されており、その一端をうかがわせてくれる。
カラヤンからは現場の人間(演奏者)とほとんどコミュニケーションを取らない冷淡な性格をもちつつ机上だけの仕事をしているMBA卒マネージャーのようなイメージを抱くが、アーノンクールのイメージもそれに近い。
カラヤンと違う点は、ブルックナーの曲についてはるかにラディカルな研究を行っているところ。
だから実によい演奏に仕上がっているに違いはないのであるが、何かあともう一歩物足りなさを感じてしまう。
それは何なのか言葉にはしにくい。
おそらくキーワードとなるのは、現場とのコミュニケーションというところに関係しそうな気がしている。

Gunter Wand, Munchner Philharmoniker / Bruckner No.5 ブルックナー交響曲第5番 ヴァント&ミュンヘン・フィル(ライブ)

↑ヴァントは晩年になってからブルックナー演奏の人気が急上昇した指揮者だけあって、この5番でもその評価されるだけのことがあると唸らせてくれる。
演奏のテーマとなるのはテンポ感ということになるかと思う。
テンポの変化のつけ方、それによる演奏表現の変化、これがものすごくうまい。
テクニックでどうこうしているといったことでもなく、それらに必然性を感じさせるものがある。
また、演奏もチェリによって超一流に仕上げられたミュンヘン・フィルと行っていることから、演奏クオリティもたいへん高い。
チェリの名盤は例外だとすると、その次に挙げてよい、かなりおススメできるアルバムであることは間違いないところ。

ブルックナー:交響曲第5番 スクロヴァチェフスキ ザールブリュッケン放送交響楽団 ブルックナー:交響曲第5番 スクロヴァチェフスキ ザールブリュッケン放送交響楽団

↑あまり期待せずに聴いたが、その予想が見事に裏切られた好演奏。
買ったきっかけもブルックナー全集として破格の安さにつらされてだったからいたし方ない。
未だにスクロヴァチェフスキの名前が覚えられず、通称「ミスターS」のほうでしか記憶できないでいる(^^;
ザールブリュッケン放送交響楽団についても、そんなオケってあったっけ?という印象。
演奏はというと、ミスターSのオケへの指導が行き渡っていて、かなり鍛えられたのであろうことが予想されるだけの繊細さとまとまりのよさを感じさせてくれる。
商業主義の流れからは縁遠い存在だったミスターSの素晴らしい演奏を知ることができてとても嬉しい。
5番においては、とりわけフィナーレ部分で通常は金管楽器がガンガン鳴っているところに木管楽器の旋律を浮き上がらせる表現に脱帽した。
すごい掘り出し物を見つけたような気持ちになった全集。
かなりおススメ。

Claudio Abbado, Wiener Philharmoniker / Bruckner: Symphony No.5 Claudio Abbado, Wiener Philharmoniker / Bruckner: Symphony No.5

↑クラウディオ・アッバードがいくら人気指揮者だといっても、まさかブルックナー5番を出しているとは想像できず、試しに聴いてみようと思ったわけだが、これはかなりひどい演奏というか論外なダメさ加減。
たまたま演奏に失敗したというよりも根本的にだと断言する。
なぜならこれ以外にも4番のアルバムを聴き、今年のルツェルン祝祭管弦楽団との来日公演で4番をライブで聴いた上での感想だからだ。
何を血迷ったのか、巨匠と呼ばれるにはブルックナーも手がけなければいけないとでも思ったのだろうか?
アッバードがブルックナーを取り上げると、まるでヴェルディのオペラの序曲のような腰の軽さで演奏してしまう。
神々しさ、気高さ、崇高さ、神秘性、・・そういった要素をすべて剥ぎ取ってしまい、BGMで鳴っていても差し障りのないように獣の牙をすべて抜き取ってしまった演奏とでもいえばよいのか。
彼に何を演奏させても巨匠とよべるようなものとはならないとも言えるが、まあ商業主義的には売れやすいということもあって、これからも目一杯アルバム新譜が発売されていくのだろうが。

ロブロ・フォン・マタチッチ指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団/ブルックナー:交響曲第5番 ロブロ・フォン・マタチッチ指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団/ブルックナー:交響曲第5番

↑マタチッチは国内オケを指揮するため来日したりしたこともあるので、意外と知られた存在でその評価も高いが、やはりブルックナーは海外オケのものでないと評価するレベルにならない。
ということでチェコ・フィルとの演奏のものを聴いてみる。
確かに表情豊かな5番の演奏。
しかしながらチェコ・フィルだからなのか、神々しさのようなものが見えてこないことも事実。
これではテクニックが勝った演奏のような印象を持ってしまう。
もっともチェコの人たちからすると、このような演奏がウケるのかもしれないが。
チェコ・フィルのサウンド自体、クセが強いからねえ。

ブルックナー:交響曲第5番 ジュゼッペ・シノーポリ ドレスデン国立管弦楽団 ブルックナー:交響曲第5番 ジュゼッペ・シノーポリ ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

↑ブルックナーは晩年まで世間からひんしゅくをかってばかりいた変態なスケベオヤジだったわけだが、変態には変態をというわけでもないが精神科医でもあるシノーポリがどんな演奏をするのか興味があったわけ。
もっとも精神科医がみんな変態だというわけではないが、精神科医かつ指揮者というだけでもある意味変態なところがあるに違いない(^^;
聴いてみると、やはり変態同士気持ちがわかるのか、素晴らしい演奏!
長年にわたってドレスデンで指揮してきたことからか、オケとの息もピッタリ合っているし、しっかり腰を据えて演奏し切っている。
世界最古のオケといわれるシュターツカペレ・ドレスデンの分厚く温かみのあるサウンドが印象的でありつつも、もうちょっと鋭さも併せ持った演奏になっていたほうがよかったかも。
とはいえ、世間であまり注目されていない演奏のわりには、私の評価は高い。
それにしても、まだまだ頑張れるだろうに、惜しい指揮者を亡くしたものだ。

ブルックナー:交響曲第5番 クリスティアン・ティーレマン指揮,ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 ブルックナー:交響曲第5番

↑この指揮者はまだ現役バリバリだろうから、今後ともますます活躍することに期待したい、そんな演奏。
チェリが晩年率いたミュンヘン・フィルの音楽監督に就任したくらいのことがあって、まずまずの評価をしてもよい演奏だ。
ここまで読んでもらえればおわかりだろうが、少なくともカラヤンやアッバードといった超有名どころの演奏より数段レベルが高いことは間違いない。
ジャケットの気取ったポーズでの写真が、「オイ、その路線で売りたいんかい!」って、かえって将来性に不安を感じさせもするが(^^;
まあ、今後のダークホース的存在といったところ。

感想メモは以上なのであるが、 やれカール・ベームはどうしたとか、朝比奈隆はとか、クナツパーツブッシュだとか、フルトヴェングラーは?なんて言わないでほしい。

クナツパーツブッシュやシューリヒト、フルトヴェングラーのような演奏はステレオ録音であり、かつ録音クオリティがよければ是非聴いてみたいし(逆にそんなよい録音がないというのなら、いくら名演だと言われていても生で聴いたことがない以上はCDからその素晴らしさを伝えることなんて無理だと思っている)、そもそも今回の一覧に入っていない最近発売されたチェリビダッケ5番来日公演盤は単にまだ購入していなかっただけなのであり、近日購入して必ず聴いてみたい。

2006/12/18 月曜日

新進音楽監督ティーレマンの名演

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 23:47:45

徹夜明けで若干きつい状態であるが、Amazonから届いた商品の中からテーレマンのブルックナーを見つけてルンルン気分(^^;

ブルックナー:交響曲第5番 クリスティアン・ティーレマン指揮,ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団,ブルックナー:交響曲第5番

チェリビダッケ亡きミュンヘン・フィルの音楽監督に就任したティーレマンが就任披露演奏会で選んだ曲が、なんとブルックナーの5番。
このCDはその時のライブ盤だ。

ミュンヘンのクラシックファンなら、まだチェリビダッケの神がかり的なブルックナーの名演をついこの間の事のように記憶しているだろうし、ヴァントがミュンヘン・フィルでタクトを振ったことも鮮明に覚えていることだろう。

そんな巨匠達の数々の名演とすっかりブルックナー・オケとして有名となったミュンヘン・フィルを前にして、5番を演奏したとは、これは誰しも一度は聴いてみたくなるのではなかろうか。

少なくとも巨匠と呼ばれる年齢にはなっていないであろうティーレマンの演奏は、粘りのある実に丁寧な演奏であり、ブルックナーを聴くのが久しぶりであったためか、鳥肌ものだった。

惜しいのは第2章の長いフルートソロが指揮者とまったく息が合ってないまま続き、かなりぎこちなくなってしまったところ。
それ以外については、さすが相変わらずのミュンヘン・フィルの音色に暖かみがあり繊細かつパワフルな演奏が堪能できたし、ティーレマンの音の終わり方にこだわった指示が見事に活かされてすばらしい。

お正月付近に一度、手持ちのブルックナー第5番を勢ぞろいさせて演奏批評でもしてみようと思う。

2006/11/05 日曜日

iTunes利用からCD walkmanへと時代逆行の道に

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 12:55:57

Macで作業中は大抵の場合にiTunesでCDを聴きながらということをしていたのであるが、ついにサウンド系の基盤がヘタってきた模様。
小さな音量しか出なくなってしまった。
本体のボリュームを最大にしてiTunesのボリュームも最大、なおかつiTunesのイコライザーであらゆる数値を目一杯高くして、やっとダイナミックレンジのない、かなり歪んだ音で聴くことができる有様(泣)。
そろそろパソコン本体自体がご臨終となる時期も近い徴候か?
会社で使用しているDellのノートも、つい最近基盤が壊れて修理行きとなっている。
こちらは新品購入から一ヶ月で故障。
ちなみに、Dellだからなのか、以前これでiTunesを使い音楽を聴いてみたところ、音飛びが激しい上に明らかにMacと比べて音質が荒く、ひどいものだった。

てな状態だったので、日常のリスニング用にSONYのCDウォークマン、D-NE20を購入。
walkman

walkmanを使うのが初めてであるためか、オモチャかいなと思ってしまう外観。
まあしかし、CDポータブルの中では上位機種にはいるらしい。
とはいえ上位機種でも値段からすると大したものではないのだろうが(^^;
同じオモチャ風であってもiPodの類で音楽を聴くということには興味が持てない。
データを圧縮するフォーマット全般については明らかに音質が悪くなるので、私が楽しめると思えるレベルの音質には届かない。

とはいえ、購入したのもオモチャ風ポータブルなので、どうなのだろうと聴いてみたところ、比較的素直な音であり、音の輪郭もしっかりひきしまった感じなので、予想していた以上の出来でひとまず安心した。
ちなみに、リモコンを取り外して、本体に直接ヘッドホンを取り付けたら更に音質が向上した。
搭載されたデジタルアンプもこれはこれでなかなかよいものだ。
これで日常音楽を聴く分に困ることはなさそう。
このウォークマンはATRAC3plusという高音質圧縮フォーマットで編集したCD-R/RWを再生できるらしい(編集ソフトが付属) 。
おそらく通常のMP3より高音質であることに興味を示す人も多いのだろう。

ウォークマンシリーズの中でも、現在は圧縮ファイルの再生ありきであるメモリーオーディオタイプが主流となっており、CDウォークマンなんて今どき落ち目。
確かにより小型軽量化に進んできているということと、好きな曲だけを編集して組合せやすいというところが便利だということなんだろう。

この流れ自体は、自作の音楽作成や既存楽曲の編集がしやすくなって、今まで表現したくても敷居が高く難しかった多くの人達が手軽に表現できるようになってきたということでもあり、ファイルが軽くなった分ダウンロードによる流通が促進されるということでもあるので、喜ばしいことだといえるのだろう。

クリステンセンのいうイノベーションによる破壊的技術(品質は落ちるが低価格で提供できる技術)の理論とも、普及することについての理屈が合う。

インターネットをビジネス的観点から関心を持つ人間としても喜ばしい傾向であることに違いない。
WEB2.0的路線が推進する猫も杓子も皆表現者という方向と発想が合うからである。

しかし、である。
これは音質にこだわらざるをえない大規模オーケストラ好きの私となれば、よからぬ傾向と言わざるをえない。
私だけが特殊ということではなく、少なくともクラシックの好きな人達は間違いなくそう思っているだろう。
なぜなら現在ありうる圧縮フォーマットでクラシックを聴くと、聴くに堪えない音質しか得られず、少なくともCDレベルの音質が得られなくては話にならないからである。

変化の激しい時代だからなのか、音質劣化を伴う技術革新ばかりが目につくのだが、上位機種のCDポータブルだというのならMP3に対応しているかどうかなんてどうでもよいから、SACD規格に対応なんていう付加価値・高機能のものにも是非取り組んでほしいな。

世の中音質劣化フォーマットによって音楽が普及していくメリットも確かにあるが、耳がバカになりそうなフォーマットでしか音楽が聴けないという時代には絶対になってもらいたくない。
Sony Style(ソニースタイル)

2006/10/20 金曜日

ルツェルン・フェスティバルin東京に行く

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 02:40:43

午前中の大阪での打ち合わせを終え、新幹線で東京に戻って午後4時。

なんやかんや仕事をして、午後7時開演のルツェルンフェスティバルin東京の会場、サントリーホールへ。

コンサート看板
サントリーホールへは、会社から徒歩で行ける距離。

ギリギリ開演前に滑り込む。

サントリーホール

演目にブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」が入っているので、客は男性ばかりかなあと思いきや、やはり巨匠ポリーニによるブラームスのピアノ協奏曲第2番目当てがいるようで女性客も比較的多かった。

私は指揮者クラウディオ・アバドが大嫌いなのであるが、ひょっとするとアバド目的の女性客もいるのかもしれない。

なぜアバドが好きじゃないかというと、重みのあるブルックナーの曲をまるでベルディの歌劇序曲のように軽快に演奏させてしまうから。
確かにアップテンポで軽快さがあると心地よいと感じる人もいるのかもしれず、むしろそのほうが今風なのかもしれないが、そんなものは真のクラシック音楽ではない。
BGMとして適した演奏と真のクラシックとは別物なのだ。

ともあれ、前半のポリーニのピアノはさすがというしかなかった。
いぶし銀の演奏というか、華麗なテクニックを楽しむというより、構築美を味わうという感じの演奏だった。
ここにおいて、ピアノ曲である前半部もやはり女性客向けではないコンサートなのでは?と思ってしまった。
少なくともフジ子・ヘミングの演奏会に駆けつけるような人達が観客に混じっていたら、さぞ演奏にがっかりしたことだろう。
なんといっても、ほとんどの席がS席でありチケットは45,000円もするのだから。

前半が終わったあとの20分の休憩時間には、ネスレがスポンサーだけのことがあって、ホットコーヒーが無料で振舞われた。

コーヒー進呈

さて、後半はいよいよブルックナーの4番だった。
アバドの指揮にはまったく期待していなかったが、そういった意味では期待通りの演奏で、 演奏に「ため」がなく、金管楽器の張り詰めた緊張感もない。
終始、早目のテンポ設定で重い曲を軽く演奏してしまう。
時折、弦によるフレーズに極端なクレッシェンドを伴う謳わせ方を表現に取り入れるが、わざとらしく気に入らない。
もっとゆったりと音楽に浸りたいという箇所でも、なんだか忙しそうな演奏がなされる。

でも、ルツェルン祝祭管の演奏技術は間違いなく第一級のもの。
弦の音が国内オーケストラとは誰にもわかるほど違う。
フルートとオーボエも天才的にうまい。

まあそもそも、このオーケストラのサウンドを聴きにきたようなものなので、この点については満足できた。

会場のサントリーホールは初体験であったが、なかなかよいコンサートホールだと思った。
たとえば京都コンサートホールと比べてみると、せまっ苦しいホールということになるが、そこが拍手をすると割れんばかりの拍手となるし、オケの音量もちょうどいい塩梅で愉しめた。

それにしても、高額チケットなのにチケット予約の段階であっという間に売り切れにしてしまったこのコンサートの魅力はどこにあるのだろうか?

やはり世間ではアバドが人気ということなのだろうか?

もしそうだとすると、商業主義に染まりきったクラシック業界のよからぬ傾向が見えてきて、私としてはよろしくない傾向だと思ってしまう。

追記

「のだめ」最新刊に付いていたシャープペンシル(^_^;
なかなかよくできている。

のだめシャーペン

2006/09/07 木曜日

なめるのもいい加減にしなさいよ、京都市交響楽団

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 00:34:45

やはりライブ演奏は有無を言わせない魅力がある。
本日は京都市交響楽団のコンサートに行ってきた。

京響コンサート

前から4列目のほぼ中央という、なかなか良いシートが確保できていた。
演目はレスピーギのローマ3部作。

指揮者は常任指揮者の大友氏だったので、それほど大きな期待もせず楽な気持ちで聴きにきた。

実は京響がレスピーギ3部作を演奏するのは中学生くらいの頃に一度聴いたことがある。
だから、今回のコンサートでどの程度レベルが上がったのか、私としては具体的に把握できるということになる。

で、結果は大きくレベルが上がっていることは間違いがないことを実感できた。

予想通りの仕掛けとしては、「ローマの祭」ではトランペット部隊を舞台側のハイバック席のさらに上のスペース、つまりはそびえ立つパイプオルガンの向かって左側のボックスに配置したり、「ローマの松」では金管楽器部隊を一階席の一番奥から演奏させたりということが行われた。
このサラウンド効果のあることは是非ともやってもらわなければいけなかったが、きっちりなされたことには納得。

しかし、しかし、いかん。
クラリネットとイングリッシュホーンが肝心なソロでミスするわ、トランペットのソロは一見きれいに演奏されてはいたが、よく聴くと少し音程がおかしいわ、(もちろん)ホルンは何度もミスがあるわ。
たまたまミスしたというには多すぎるのであって、このような集中力で演奏しているから、全体的にも変なサウンドではないが、決して澄み切ったサウンドにはならない。

しかも大友氏はおそらく叙情的な旋律を歌わせることには興味があるようにお見受けしたが、そのケースに応じて曲を一から組み立てていって構築するという能力を持ちあわせていらっしゃらない模様なので、譜面どおり演奏していて特に問題らしきものはないにしても、個々のパートの演奏が浮き彫りになったり曲の構造がわかったりするようなこともなく、なんとなくボヤッとしたまま演奏が流れていってしまう。

アンコール曲としてプッチーニの歌劇「マノン・レスコー」の間奏曲が演奏されたが、そんなに気合いを入れてメロディに陶酔した感じの指揮をしなくてもいいんちゃうん、と思ってしまった。
いくら様になる激しい指揮の練習を鏡の前で行っても、演奏のクオリティが上がるわけでもないのに、なんでそんなに必死になってポーズつけてるの(^^;
演奏レベルが上がるのは、練習時に楽団員に問題点を指摘し、何度も何度も完璧になるまでやらせ、鍛えていくことしかなく、指揮の身振りの激しさなんて三文の値打ちもないのだ。

ローマ3部作の盛りあがるところではリズム感のない素人向けのような指揮であり、ワンパターンなクレッシェンドの指示しかできないその淡泊さゆえに、響きを構造化させようなんてことは全く考えてなさそうに見えるのとはえらい違いだ。

大友氏は明らかかつ残念なことに、下記の文言のあてはまる典型的指揮者にしか見えない。

チェリビダッケが同僚の指揮者やソリストたちを批判するのは、彼の目から見ると、彼らが音楽演奏に関するこうした現象学的な条件を十分に意識せず、またはまったく無視してしまっているように見えるからである。残念ながらこの観察は、多くの場合まさに的を射ている。音楽そのものよりも、むしろみずからの意識的・無意識的な自己演出に精力を傾けている演奏家がなんと多いことだろうか。『評伝 チェリビダッケ』p.266

演奏の出来がどのようであっても惜しみない拍手を続けるというところが、いかにも日本人的であって、それはある意味よいことなのかもしれないが、京都市の税金で成り立っている指揮者とオーケストラなわけなのだから、聴きにきている大多数を占めるであろう京都市民は、今回のような注意力散漫なところを見せた演奏の場合には、露骨にブーイングなり拍手をしないなり、そういった態度にあらわすことで、楽団関係者にこのままではダメだという危機感を持たせないといけないと思う。

なんだか、とっても辛口のことばかり書いてしまっているようだが、指揮者は演目にするものは全て暗譜で指揮できるくらい徹底的に曲を把握しきってしまうことを常任指揮者の条件にしてしまい、練習(プローベ)を2倍以上していって楽団員の緻密なアンサンブル力向上に力を注いでいけば、まだまだレベルの高い演奏ができるものだと思うからこそ辛口にならざるをえないのだ。

組織的取り組みであるがゆえに、二流と一流の差の大半のところは、組織として特別な努力をするわけでもなく、よくある平凡なオーケストラと同じようにしていればよいと思っているのか、それとも他の何倍もの練習をして日々磨いていっているかで、かなりのところが決まってくる。
京都市民の聴衆が会場で拍手をしないという方法が最もよく効くとは思うが、 ブログで構わないのでみんな辛口意見をどんどん書いて、少しは緊張感をもってもらうようにしてはどうか。

こんなことを書くと、「まあまあ、そんなに熱くならなくても、イロイロ制約もあるようですし、それなりには頑張っているのと違いますのん」なんて意見が聞こえてきそう。

指揮者チェリビダッケの場合には、晩年をともにしたミュンヘン・フィルのごく一部の楽団員や楽団事務局の責任者などと何度も衝突があった。
チェリは正論を曲げて妥協することがほとんどなかったからである。
口が悪いほうだったのかもしれないが、遠慮なくズバっと斬り込まれるので、素直さと向上心に欠ける楽団員や聴衆側に目がいかない官僚的な関係者の一部には、鬱陶しく思われることがあったのだろう。
では「まあまあこの辺で」とチェリが妥協すればよかったのかというと、それによって演奏の質が落ちることなんてチェリには考えられなかったのである。
一方のお客であるミュンヘン市民の聴衆からは、もの凄い演奏が聴け、世界に誇れる楽団に育ててくれたということで大絶賛されたのであった。

諍いを避けようと質の低下に繋がりかねないことにも安易に妥協する人が、お客様から絶賛されることは決してないのだ。
チェリは一見こわそうにも見えかねないが、実は多くの楽団員とは友人関係を築いており、楽団員のみならず守衛や譜面係の人に至るまで全ての人達の名前を覚えていて、お互い「おまえ」で呼び合う関係であったのだ。
しかるがゆえに、人間関係で楽団員と一定の距離を取り、楽団員を一つのモノとしか扱わない指揮者とくらべると衝突も起こりやすかったともいえる。
あ〜、それにしてもクラシックのライブをチケット入手済みのものだけで、あと3回分もある。(内、3回分とも海外からの来日公演で高価なチケット)
来週から東京生活が始まり出すと、時間が確保できず、全てのチケットがパーになってしまうんだろうな。
まあ致し方がない←ここは妥協(^^;

2006/08/27 日曜日

「近代」とクラシックの滅亡ーー許光俊氏のクラシック音楽入門書

Filed under: 読書, (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 22:28:25

チェリビダッケのオーケストラリハーサルの翻訳を許光俊という方がされていて、そこで氏のことに興味を持っていたところ、本書に出会い、早速読んでみた。

許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』 許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』

とはいえ、私はクラシック音楽をよく聴くけれど、この手のクラシック音楽を紹介する類の本は読まないことにしてきた。
音楽理論に詳しいわけでもなんでもない素人であるにもかかわらず。
好き嫌いが極端であるにせよ、それでも私はクラシック音楽をたっぷりと堪能することはできるからである。
(もちろん、知識は多いほうがよいとは思ってはきたが。)
だいたい、名画を鑑賞するのに「ここが見どころですよ!」なんてガイドブックにのっとって鑑賞したところで、魂が揺さぶられたり、なんともいえない宙吊り状態に思考が落とし込まれたりといった体験を味わうことができるのだろうか?
一般的な評価はさておいて、私にとってそれがホンマ物であれば、そんな知識に関係なく感動することがあるのではなかろうかと考えてきた。

実際、ブラームスやシベリウス、ショスタコーヴィチなどの交響曲は、作曲家の生涯や楽典の知識が全くなくても10代の頃から大好きだし、最近ではすっかりブルックナーにハマっている。

それなのに、クラシック音楽紹介本を手に取ってみることになるなんて、私としたことが!と何の期待もせず読み始めると、これがまたとんでもなくオモロい!

副題となっている「お気軽極楽入門書」というのは、著者独特の毒をこめた表現であることがすぐにわかってくる。
いわゆる一般的なクラシックの入門書だと思った人はみな面食らうことになる過激な本である。

著者もいきなり冒頭から本書が猛毒をもっていることを宣言している。

「ショパンってロマンチックで素敵!ああいうきれいな曲をいっぱい教えて!」
「心が清められるような音楽と出会いたい!」
「雄大な音楽の感動に打ちのめされたい!」
なんて思っている方なら、もうここで本を閉じてしまったほうがいいかもしれない。私はあえてそういう人たちの夢を壊したいとは思わない。そういう人たちは、もっと別の、ふつうの本を買ったほうがいいーー甘い嘘、耳あたりのいい詐欺師の言葉でいっぱいの本を。そして、マスコミで話題になるコンサートやCDを追い求めるがいいーー表面的な華やかさばかりで空虚な音楽を。

私も「心が洗われる」みたいなクラシックの評価をする人達が大嫌いで、そもそもそんなことをクラシック音楽に求めたこともなく、ガイドブックの類も読む気にならないので、こう言いたい著者の気持ちはよ〜くわかる。
でも、最初からここまで言ってしまって本の売れ行きは大丈夫なんだろうかとついつい心配してしまう。
本の奥付を見ると、1996年発行で2005年に第7刷。
一応地味に売れ続けているということは、入門書のように見せてはいても、結構マニアが読んでいるのかもしれない。
そして、大物演奏家の否定、クラシックの滅亡が語られていくのだ。

今、いわゆる一流演奏家、有名演奏家が聴かせてくれる音楽は、クラシック音楽ではない。それどころか、彼らはクラシック音楽が何かということすら知らないかもしれないのだ。

と、私がダメだと書いたことのある国内の某大柄指揮者や某韓国系苗字指揮者、テレビ出演も多い某ヴァイオリニストなんていうのを指しているのかなあと思いつつも、ブログ上でちょっと書くというのではなく、よくぞ本でここまで書けるなあと著者の勇気に驚かされる。
このような感じで音楽評論家も実名を挙げて評価がなされている。

そしてクラシックがすでに滅亡しつつあることが語られる。
クラシック入門書の体裁をしつつも、いきなり滅亡が語られるとは!
変てこりんなクラシック音楽好きの私としては、妙に興味が出てくるとともに、これは決して書名のように「お気軽」な本ではないとの確信を深めていく。

じゃあ、私が言う滅亡に瀕しているクラシックとはどういうものか。それはこの本を読み進めばだんだんと明らかになるが、確実なのは、滅びようとしているもの、あるいは滅びてしまったのは、クラシック音楽だけではないということ。クラシック音楽だけが理由もなく滅びてしまったわけではないのだ。クラシックが滅びるということは、それを支えていた環境や感性や考え方が滅びるということに等しい。

つまりは著者は詳しく書いてはいないが、本書はクラシック音楽が崩壊しつつあることを書いていきながら、近代文学や近代芸術、それを支えていた近代思想や近代社会が崩壊しつつあり、それは必然であることをふまえてクラシック音楽を語っているのである。

これは今まで一部の鋭い文芸批評や映画批評の世界では見かけることがあったにしても、クラシック音楽では見かけることのなかった切り口だ。
そこを著者はクラシック音楽のマニアを対象とするのではなく、これから聴こうという人向けに本を書いている。
これまた興味深い取り組みである。

クラシック音楽の聴き方の基本を説明するのに使われるのは、たった3曲。
チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、モーツアルト「ピアノ・ソナタ第15番」、ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付」。
それを聴く前提として実践してほしいと求められることは、本格的推理小説を読むことと、サラダを作って食べること。

たったこれだけのことで、交響曲に象徴的にみられるようなクラシック音楽の肝心要なポイントを説明してしまう。

実はこの基本中の基本と著者が位置づけている中に、すでに一部の天才を除くほとんどのクラシック演奏家を斬って捨ててしまうだけのことを忍び込ませているのだ。

本の最後には「実用情報」として、著者がすごいと思う作曲家、指揮者、演奏家、オーケストラ、評論家が紹介されていたり、 コンサートに行くための初歩的疑問点に答えたりもしていて、ここは表向き入門書らしい体裁を取っている。

が、著者の最も言いたいことは入門書らしからぬ「実践編2」の中で書かれたブルックナーについて述べられた中にある。
著者もブルックナーを入門書として取り上げるのは、一般的にはふさわしくないということはわかっていて、それでもなお、本書の結論的なことをどうしても言いたくて取り上げているのだ。
しかしなぜここでチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルがベストの事例となるのか、私には痛いほどよくわかるが、実際にCDを聴いてみても必ずしも理解できるとは限らないと思う。

その結論だと思われることは、

いままで述べてきた十九世紀クラシック音楽の特徴を、極限まで推し進め、(私たちが納得するかどうかは別問題として)ベートーヴェンがめざした方向で究極の結論にまで達した作曲家は、ワーグナーとブルックナーしかいないからだ。ワーグナーの主要作はオペラであり、登場人物やストーリーが存在する。が、ブルックナーの交響曲のなかには、『第九』みたいに合唱が介入してきたりはしない。彼はオーケストラだけを用いて、独自のミステリアスな曲を書き、最終的な結論を導き出したのである。

クラシック音楽がずっとテーマとしてきたことの極限としてのブルックナー。
次の記述は、ここまでの著者の話を読んでこないと理解しにくいが、本書の最重要なところとなるので、参考までに引用しておく。

クラシック音楽の歴史は、たぶんブルックナーで終わっている。少なくとも、ソナタ形式とか、交響曲とか、ハッピーエンドという、二元論と弁証法と終末論を基本にするクラシックは、ブルックナーで終わっている。チャイコフスキーとかマーラーがやったことがそうしたクラシックの解体であり、ハッピーエンドの不可能性の証明であるとするなら、ブルックナーはクラシックを完成させた人なのだ。
つまり、宗教としてのクラシックの完成と終焉。

続いて、

クラシックとは、キリスト教の地位が下落し、王様たちが消えていく十九世紀にあって、それらの代わりをつとめた一種の宗教なのである。十九世紀ヨーロッパにおいては、それまでみたいに、『聖書』を読んだり、祈ったりすることで神とか世界とか真理とかを理解するのではなく、芸術家たちが苦しみもがきながら、真実に達しようとしていたのだ。それは音楽、文学、美術を問わない。芸術家たちは、あたかも荒れ野や山奥で修行する隠者のように、さまざまな苦労を重ねながら、作品を作るということで真実に達しようとしていたのだ。そのために、彼らは俗世間の価値観とか習慣と戦わねばならなかったのだ。

という近代芸術全般に共通した問題が指摘され、

そんな宗教としてのクラシック、礼拝としてのコンサート。これをどんどん推し進め、究極の段階に達したのがブルックナーなのだ。

とブルックナー交響曲が位置づけされるのである。

そして、著者が冒頭からクラシックが滅亡しつつあると指摘した理由が、この段階になって明らかとなってくる。

つまり、憧れなき時代、希望なき時代(これはイコール絶望の時代ということではない)、理想なき時代、すなわち宗教を必要としない時代なのだ。ハッピーエンドという終末も調和も待望できない時代なのだ。ならば、宗教であるクラシックは、早晩滅んでいくしかないのだ。娯楽としては、生き残るかもしれない。だが、ブルックナーの音楽が娯楽として演奏され聴かれるとき、それはもはやブルックナーではないし、クラシックですらない。

だから、

結局のところ、楽譜が存在しようと、オーケストラが存在しようと、音楽大学が毎年大勢の卒業生を出そうと、そんなことはクラシック音楽とは関係がない。クラシック音楽の本質は、ただ作曲家と、演奏家と、聴き手の心のなかにだけ存在している。そして、彼らの死とともに消滅していく。

のだ。

著者は、クラシック音楽を聴くにあたって、著者が一流だと思うごくわずかの演奏家のものをライブで聴くことを強く推奨している。

私は幸運なことに10代の頃から世界の一流指揮者・オーケストラの演奏会をたびたび聴きに行ったことがあるので、会場でのサウンドを体験してしまうと、いくら同じ演奏家のものをハイレベルな録音技術で収録したCDを高級オーディオ機器で聴いたとしても、天と地ほどの違いがあることを身をもってわかっている。

だからファンでもあるチェリビダッケの演奏にしても、既に死去しているがゆえに生演奏で聴くことができないので、昔、生演奏で聴いた体験を思い出しながら、仕方なくCDで聴いているというのが現実。

生演奏にしても、地元、京都市交響楽団の演奏会に時々行くが、これも演奏レベルに妥協して聴いているのが現実。
懲りずに9月6日にもレスピーギ三部作を聴きには行くが、あくまでも地元贔屓で行く程度のもの(^^;
まあ、楽団員に京都市の税金を使って給料が支払われているので、損しない程度に聴いておこうという感じかな。
ホントだったら、納税者である京都市民に限れば、現状のようなレベルの演奏レベルしか聴かせることができないのであれば、S席500円くらいでも安すぎることはないと思う。

いや、いくら音楽史に残る巨匠とはいえ大昔のフルトヴェングラー指揮のモノラル録音を聴くくらいなら、生で京響を聴いたほうがマシなので、CD1枚が1,500円くらいだとすると、京響が今の料金を取ることもアリか。
京響のみなさん、いや〜、失礼失礼(→許光俊的な毒舌がうつってしまいそうになる)
少し脱線してしまったが、私がこのブログで賞賛を惜しまないチェリビダッケについて、著者もなぜほどこれまでに高い評価をするのか、私の書き方では伝わりにくかった点についても、本書を読めば、なるほどと認識してもらえるかもしれない。

私の紹介の仕方から、本書がちょっとお堅い本であるのでは?と思われるかもしれないが、難しい表現は一切登場せず、たいへん読みやすい。
例えば、ベートーヴェンの本質を理解しやすくするように、第九の終楽章の歌の部分を、現代的に超意訳して(「あーい、ダチ公よ、こんな音楽じゃないぞ!もっときもちいいヤツを歌おうぜ、もっとハッピーなやつをさ!」といった翻訳)掲載してみたりもしている。

この本はとりわけクラシックファンではないが、企業について社会について、なんていうことをあれこれ考えてしまう方全てに対してオススメできる。

私自身も許光俊氏のほかの著書にも手を出していこうと思わせるに十分なものであった。

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