やはりライブ演奏は有無を言わせない魅力がある。
本日は京都市交響楽団のコンサートに行ってきた。

前から4列目のほぼ中央という、なかなか良いシートが確保できていた。
演目はレスピーギのローマ3部作。
指揮者は常任指揮者の大友氏だったので、それほど大きな期待もせず楽な気持ちで聴きにきた。
実は京響がレスピーギ3部作を演奏するのは中学生くらいの頃に一度聴いたことがある。
だから、今回のコンサートでどの程度レベルが上がったのか、私としては具体的に把握できるということになる。
で、結果は大きくレベルが上がっていることは間違いがないことを実感できた。
予想通りの仕掛けとしては、「ローマの祭」ではトランペット部隊を舞台側のハイバック席のさらに上のスペース、つまりはそびえ立つパイプオルガンの向かって左側のボックスに配置したり、「ローマの松」では金管楽器部隊を一階席の一番奥から演奏させたりということが行われた。
このサラウンド効果のあることは是非ともやってもらわなければいけなかったが、きっちりなされたことには納得。
しかし、しかし、いかん。
クラリネットとイングリッシュホーンが肝心なソロでミスするわ、トランペットのソロは一見きれいに演奏されてはいたが、よく聴くと少し音程がおかしいわ、(もちろん)ホルンは何度もミスがあるわ。
たまたまミスしたというには多すぎるのであって、このような集中力で演奏しているから、全体的にも変なサウンドではないが、決して澄み切ったサウンドにはならない。
しかも大友氏はおそらく叙情的な旋律を歌わせることには興味があるようにお見受けしたが、そのケースに応じて曲を一から組み立てていって構築するという能力を持ちあわせていらっしゃらない模様なので、譜面どおり演奏していて特に問題らしきものはないにしても、個々のパートの演奏が浮き彫りになったり曲の構造がわかったりするようなこともなく、なんとなくボヤッとしたまま演奏が流れていってしまう。
アンコール曲としてプッチーニの歌劇「マノン・レスコー」の間奏曲が演奏されたが、そんなに気合いを入れてメロディに陶酔した感じの指揮をしなくてもいいんちゃうん、と思ってしまった。
いくら様になる激しい指揮の練習を鏡の前で行っても、演奏のクオリティが上がるわけでもないのに、なんでそんなに必死になってポーズつけてるの(^^;
演奏レベルが上がるのは、練習時に楽団員に問題点を指摘し、何度も何度も完璧になるまでやらせ、鍛えていくことしかなく、指揮の身振りの激しさなんて三文の値打ちもないのだ。
ローマ3部作の盛りあがるところではリズム感のない素人向けのような指揮であり、ワンパターンなクレッシェンドの指示しかできないその淡泊さゆえに、響きを構造化させようなんてことは全く考えてなさそうに見えるのとはえらい違いだ。
大友氏は明らかかつ残念なことに、下記の文言のあてはまる典型的指揮者にしか見えない。
チェリビダッケが同僚の指揮者やソリストたちを批判するのは、彼の目から見ると、彼らが音楽演奏に関するこうした現象学的な条件を十分に意識せず、またはまったく無視してしまっているように見えるからである。残念ながらこの観察は、多くの場合まさに的を射ている。音楽そのものよりも、むしろみずからの意識的・無意識的な自己演出に精力を傾けている演奏家がなんと多いことだろうか。『評伝 チェリビダッケ』p.266
演奏の出来がどのようであっても惜しみない拍手を続けるというところが、いかにも日本人的であって、それはある意味よいことなのかもしれないが、京都市の税金で成り立っている指揮者とオーケストラなわけなのだから、聴きにきている大多数を占めるであろう京都市民は、今回のような注意力散漫なところを見せた演奏の場合には、露骨にブーイングなり拍手をしないなり、そういった態度にあらわすことで、楽団関係者にこのままではダメだという危機感を持たせないといけないと思う。
なんだか、とっても辛口のことばかり書いてしまっているようだが、指揮者は演目にするものは全て暗譜で指揮できるくらい徹底的に曲を把握しきってしまうことを常任指揮者の条件にしてしまい、練習(プローベ)を2倍以上していって楽団員の緻密なアンサンブル力向上に力を注いでいけば、まだまだレベルの高い演奏ができるものだと思うからこそ辛口にならざるをえないのだ。
組織的取り組みであるがゆえに、二流と一流の差の大半のところは、組織として特別な努力をするわけでもなく、よくある平凡なオーケストラと同じようにしていればよいと思っているのか、それとも他の何倍もの練習をして日々磨いていっているかで、かなりのところが決まってくる。
京都市民の聴衆が会場で拍手をしないという方法が最もよく効くとは思うが、 ブログで構わないのでみんな辛口意見をどんどん書いて、少しは緊張感をもってもらうようにしてはどうか。
こんなことを書くと、「まあまあ、そんなに熱くならなくても、イロイロ制約もあるようですし、それなりには頑張っているのと違いますのん」なんて意見が聞こえてきそう。
指揮者チェリビダッケの場合には、晩年をともにしたミュンヘン・フィルのごく一部の楽団員や楽団事務局の責任者などと何度も衝突があった。
チェリは正論を曲げて妥協することがほとんどなかったからである。
口が悪いほうだったのかもしれないが、遠慮なくズバっと斬り込まれるので、素直さと向上心に欠ける楽団員や聴衆側に目がいかない官僚的な関係者の一部には、鬱陶しく思われることがあったのだろう。
では「まあまあこの辺で」とチェリが妥協すればよかったのかというと、それによって演奏の質が落ちることなんてチェリには考えられなかったのである。
一方のお客であるミュンヘン市民の聴衆からは、もの凄い演奏が聴け、世界に誇れる楽団に育ててくれたということで大絶賛されたのであった。
諍いを避けようと質の低下に繋がりかねないことにも安易に妥協する人が、お客様から絶賛されることは決してないのだ。
チェリは一見こわそうにも見えかねないが、実は多くの楽団員とは友人関係を築いており、楽団員のみならず守衛や譜面係の人に至るまで全ての人達の名前を覚えていて、お互い「おまえ」で呼び合う関係であったのだ。
しかるがゆえに、人間関係で楽団員と一定の距離を取り、楽団員を一つのモノとしか扱わない指揮者とくらべると衝突も起こりやすかったともいえる。
あ〜、それにしてもクラシックのライブをチケット入手済みのものだけで、あと3回分もある。(内、3回分とも海外からの来日公演で高価なチケット)
来週から東京生活が始まり出すと、時間が確保できず、全てのチケットがパーになってしまうんだろうな。
まあ致し方がない←ここは妥協(^^;