2006/08/12 土曜日

グレン・グールド全集聴き始め

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 20:19:00

酒代への出費がゼロになって9ヶ月、その分をほかのことにまわしていくと、生活が豊かになる実感がある(^^;

Glenn Gould The Original Jacket Collection/Glenn Gould Plays Bach Glenn Gould The Original Jacket Collection/Glenn Gould Plays Bach

本日、HMV Japanから届いたのは、グレン・グールドのLP盤で採用されたオリジナルジャケットデザインをCDジャケットに採用して復刻されたバッハの曲を集めたCD12枚組の全集だ。
この全集って、CDを紙ジャケットにして裏面までLP盤のデザインを再現しているくらいなのだから、本来はマニア向け待望の企画ということになるのだろう。

ファジル・サイのピアノだったらバッハ以外にもいろんな曲を聴いてみたくなるが、グールドはバッハがピカイチだし、バッハさえ聴けたらそれで満足。

一日で全て聴ける分量でもなく、まだ感想をどうのこうの言える段階ではない。
それにマニアではない私にとっては、今回はじめて聴くアルバムがほとんど。

だからとてもざっくりとした感想らしきものをファジル・サイと較べることで言うとすれば、グールドのピアノは徹底して「マシーン」的側面が前面に出ていること。

弾く難しさや旋律を歌わせようとするあまり、テンポが変わったりするところがなく、まるで機械仕掛けのような正確な演奏がベースにあり、そのような起こってしかるべき小さな乱れが起こらないことが、独特のスピード感を持たせていることの一因となっているような気がした。

まあでもそんな屁理屈を言わなくても、プロでもマネできない超絶テクニックで演奏されているというだけでも有無を言わせないものがあるわけだが。

そして、グールドの奏でる音色はいつの場合でも柔らかい。
ファジル・サイだとここぞとばかり「カキーン」と野性味いっぱいに表現してしまうような箇所においても。

なお、収録曲は次のとおり。

HMV.co.jp - バッハ - グレン・グールド オリジナル・ジャケット・コレクション(12CD)

SK 64228
バッハ:ゴルトベルク変奏曲 (1955)
録音:1955年6月
新リマスター

SK 64260
バッハ:2声と3声のインヴェンション
録音:1964年3月[ステレオ]
新リマスター

SK 64282
バッハ:平均律クラヴィア曲集第1巻 第1集(第1-8番)
録音:1962年[ステレオ]

SK 64283
バッハ:平均律クラヴィア曲集第1巻 第2集(第9-16番)
録音:1963年[ステレオ]

SK 64284
バッハ:平均律クラヴィア曲集第1巻 第3集(第17-24番)
録音:1965年[ステレオ]

SK 64294
バッハ:イタリア協奏曲、パルティータ第1番、第2番
録音:1959年[ステレオ]
新リマスター

SK 64297
バッハ:パルティータ第3番、第4番、トッカータ第7番
録音:1962,63年[ステレオ]

SK 64298
バッハ:パルティータ第5番、第6番、平均律クラヴィア曲集第2巻〜BWV883、BWV878
録音:1957年

SK 64300
バッハ:トッカータ集第1集
録音:1976年[ステレオ]

SK 64311
バッハ:トッカータ集第2集
録音:1963,79年[ステレオ]

SK 64312
フーガの技法(CD-Extra機能付)
録音:1962年[ステレオ]

SK 64313
チェンバロ協奏曲集 BWV1054,1056,1058
録音:1967年[ステレオ]

HMVジャパン

2006/08/11 金曜日

企業成功の法則と失敗の法則

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 13:33:16

発売時に購入したまま放置していたジム・コリンズ本を手にとってみる。

ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー【特別編】』 ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー【特別編】』

こちらは『ビジョナリーカンパニー2』の特別編として非営利組織など社会セクターの組織向けに追加された一章を、別冊で発売されたもの。

100ページにも満たないので一瞬で読めてしまう上、「2」の要約として復習的にも読める。

帯に「ドラッカーを継ぐ経営学の巨匠・・・」と書かれているとおり、ドラッカー同様に実践家ではなく研究者ではあるのだが、中に含蓄のある言葉も登場してくるところが特徴。

例えば、著者のいう「第五水準のリーダーシップ」にふれながら、

拳銃を頭に突きつければ、自発的にとるはずのない行動を相手にとらせることもできるだろう。だがこのとき、リーダーシップを発揮しているわけではない。力を行使しているのである。リーダーシップを発揮しているといえるのは、指導に従っている人たちにそうしない自由があるときだけである。(p.35-36)

といった箇所。

ジム・コリンズの中ではとりわけ重要な「針鼠の概念」についても、改めて考えさせられる。

ただ、事例の比較研究だけで発言する研究者であるわけなので、いざ書かれたことを実践しようとすれば、そのようにきれいな形で行っていくには困難がつきまとうことは間違いのないところ。

なぜなら理論と実践との間にそれが繋がっていくための多くの言葉があるはずで、そこは自分自身で考えていかないと何の役にもたたないからだ。

さらには、ジム・コリンズから成功の法則を学ぶのと同様に、畑村氏の失敗学やダニー・ミラーの失敗の経営学からも学んでいくべきだと思う。
成功することよりも、致命的な失敗をしないことのほうが重要なのだ。
ちなみにこのことについてダニー・ミラーは次のように指摘している。

とりわけ劇的な成功を遂げた企業の多くが、こんなにも失敗しやすいのは皮肉なことである。傑出した企業の歴史が、このような事例を繰り返し示している。実際、行き過ぎると成功をもたらした将にその要因、つまり焦点を定め、巧く行くことが立証済みの戦略、自信満々のリーダーシップ、活気溢れる企業文化、更にとりわけこれら全ての相互作用などが、衰退の原因ともなり得るのである。がっしりとした優良組織が、欠陥を抱えた純粋種に変わって行く。豊かな特性を持った者から、行き過ぎた戯画へと移って行き、微妙で繊細な処は全て徐々に失われる。

2006/08/10 木曜日

企画力

Filed under: 講演・講義, 経営戦略 — 咲本 @ 08:05:49

昨夜は事業計画手法の第2回目を行った。

書きながら聴いているBGMはなぜだかショスタコーヴィチ交響曲第11番「1905年」。バルシャイ指揮ケルン放送響の演奏。朝からヤケに暗い曲を聴いても、なぜだかさわやかな気分になれるのであった(^^;

Symphonies Shostakovich、Barshai、Wdr Symphony Orchestra Symphonies Shostakovich、Barshai、Wdr Symphony Orchestra

講義の際にはもちろん事前にしゃべること、議論したいことなど大雑把には決めてはいるが、いざ始まったらどういうふうになっていくかは、その「場」 にもある程度まかせているところもある。

その時に話していたことを応援してくれるような本に、たまたま手が向いていた。

田坂広志『企画力 「共感の物語」を伝える技術と心得』 田坂広志『企画力 「共感の物語」を伝える技術と心得』

田坂氏の本はどの本を手にとっても、簡潔で簡単な言葉によって書かれているけれど、実に深みがある。

だから、誰にでも日本語として簡単に理解できるからといって、誰でも現場でそのように実践できるかというと、まずほとんどの人が実践できないだろう。

なぜなら、田坂氏の求めるだろう戦略論や組織論などの知識と実務経験のレベルがとても高いものを設定されているから。

本書に表面上の言い回しが少し似たようなコンサルの書いたビジネス書も、こういうスタイルが「流行っている」ためなのか一部見受けられるのだけれど、田坂氏の表現を借りるとすれば、それら他の企画力について触れられた似て非なる本は「言葉が軽い」。

いくら文学に接することで本を書く表現力を磨いても、ビジネス書を大量に読破していったとしても、田坂氏のような本にはならないのだ。

ちなみに、田坂氏の考えとミンツバーグの考えとは、田坂氏が一言も発言されていないながらも、多くの共通点が見受けられる。

2006/08/09 水曜日

餅は餅屋、コンサルはコンサル屋に(^^;

Filed under: PCネット・ビジネス — 咲本 @ 06:48:45

ある会社におじゃまして、そちらのIさんと長時間お話していて、当初はWEB絡みでのご相談を受けていたはずなのに、気がつけば9割くらいが組織改革と経営戦略絡みのお話ばかりさせていただいていたことに気づく。

でも私の場合にはこれはよくあること。

よくWEBを活用して企業の売上アップを!なんていうことを制作会社さんなどが言われていて、確かに私もそれに近いようなことも言うには言うが、中味は随分と違ってくる。

なぜなら、WEBだけを切り取ってどうにかしようとしても、それ単独で成果を上げられることなんて、たかがしれている。
経営戦略や組織改革と結びついて初めて大きな威力が発揮するというもの。

だからWEBが重要な問題であったとしても、それに先だってまたは同時に解決していくべき重要問題がたくさんあるほうが普通。

こうなってくると、大体の方向性は共通するにしても、その組織の状態やタイミングによって、複雑な状況を考慮しながらすすめていくということにもなり、結局はやり方が千差万別ということになってくる。

私のようなコンサルなる立場の人間は、ここの複雑さをダイアローグをベースに話を発展させていき、解決していけばいいわけだが、事業会社さんが行われている企画提案って、難しいケースが多いだろうなあと改めて思ってしまう。

提案先のベテラン社員並に内部のことを理解しているのならともかく、そこまでの理解が及ばない状態でベストな企画提案をしていくって至難の業というか、それでピタッとくるのは偶然も味方にしないと無理なのかもしれない。

だから、企画提案をする側は、事前にどれだけ豊富な情報を名医のように患者の詳細な状況を把握できているかがある意味勝負なのであって、一般的にヒヤリングと称して行われているレベルでは、全く情報が足りないはず。

一方で提案を受ける企業側の問題の立て方自体がまずいケースも相当多いのではなかろうか。

たとえば、WEBをリニューアルしたい、何とかしたいということ「だけ」を問題とすることなどできるわけがない。
いや、それだけで問題になるといえばなるのだろうが、それは「目的」がWEBのデザインを垢抜けさせたいとか、面白いコンテンツを追加したいとか、企業の売上・利益にはほとんど貢献しそうにないことだけを目的にした場合に限るのだ。
当然、普通はそんな目的設定というのはありえない。

問題にすべきツボがわからないままの企業が、WEBを改善したら棚からぼた餅のようなことが起こるかもしれないとの漠然とした思いだけで、外部事業者からいかなる提案をされたとしても、大きな利益を生み出すWEBとはならないだろう。

だから、普通は経営戦略にWEBがどのように絡んでくることになるのかというところから時間をかけて説明していく必要があるはず。

ということは、一般事業会社からすれば、高度なコンサルティング営業というところに行き着くんだろうな。

でも、事業会社内にどれだけそんなことができるスキルを持った人材がいるというのだろう。

結論:餅は餅屋ということで、コンサル屋の私も、今後とも多少は出番があるということか(^^;

2006/08/08 火曜日

大学院で「ちょっとアホ!理論」をば

Filed under: 講演・講義 — 咲本 @ 12:15:08

今年の夏のお出かけは全く未定。
毎日こうクソ暑いと、とりわけお盆時期にどこかへレジャーなんて考えたくもない。

それに最近注文して入荷待ちの音楽CDが枚数ベースで38枚もある(^^;
で、なぜだかお盆休みは宮沢賢治の童話を読みまくることがGoogle Calenderに入っているし。

さて、明日の大学院講義の教材は『ちょっとアホ!理論』(^^;

出路雅明『ちょっとアホ!理論 倒産寸前だったのに超V字回復できちゃった!』 出路雅明『ちょっとアホ!理論 倒産寸前だったのに超V字回復できちゃった!』

冗談みたいなホンマの話、ちょっとアホ!でも大丈夫(^^;

2006/08/07 月曜日

自由とは何か(長文)

Filed under: 読書 — 咲本 @ 07:01:47

「自由とは何か」
これまたベタなテーマに見えるかもしれないが、私たちって表向きは自由主義社会で安穏としていられて恵まれた環境であるように見えつつも、本当のところは全然自由じゃないんだよね。

ポストモダニズムだかなんだか知らないが、そんなことを標榜しそうな若手社会学者の本などからは、言葉遊びのような発言が多く見受けられるばかりで、そろそろそんなことはやめて本番の話に入ってねと思うばかりである。
まあ、銭儲けに関するヒントが得やすそうな議論がなされていることは否定はしないが(笑)
そんな中、リベラリズム研究者、佐伯啓思氏による本書は、誰にでもわかるようにかみ砕かれた論理で「イラク戦争と人質事件における自己責任論」や「神戸の酒鬼薔薇事件」、「個人の自由と開き直る援助交際」といった問題を取り上げながら、著者自身がもつ違和感や疑問から出発して、自由といわれている構造に迫っていこうとしていて、読んでいてなるほど!と思わせてくれるものであった。

かなり、かなり、オススメの良書である!

佐伯啓思『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』 佐伯啓思『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』

ここで著者は現代のリベラリズムには3つの柱があると説く。

(1)価値についての主観主義、および、「正義(自由の権利)」の「価値(善)」に対する優位」、(2)中立的国家、(3)自発的交換、の三つの柱である。この柱を前提にして言い換えれば、現代のリベラリズムの立場は、基本的に個人の価値の多様性を認め、それを尊重する、そのためには、「自由への平等な権利」という正義の原則がまずは確立していなければならない、そのもとで、国家は中立性を守るべきであり、また諸個人の主要な社会的行為は個人の自発的な交換としてなされるべきだというのである。(p.159-160)

だから例えば、援助交際をしている女子高生の「誰に迷惑をかけているわけでもないから、ほっといて!」との主張に対して、善より自由の権利が優位となるリベラリズムの考え「だけ」によっては、簡単には反論しにくくなる。

また、市場経済における社会的価値観の話が出てきて、著者は4つの考えが存在すると指摘する。

(A) 市場中心主義:「市場を形式上の機会の均等さえ満たされればよしとする競争ゲームとみなす」
(B) 能力主義:「市場競争が望ましいのは、個人の能力やら努力が報われるから」であり、それによらない不労所得や投機的利益に対しては、税をかけたり禁止したりすべきである
(C) 福祉主義:「市場競争がその人の人生のすべてを決めてしまうというのはいささか酷なこと」であり、「弱者に対しては福祉給付や所得再分配などによって補償すべきである」
(D) 是正主義:「市場競争とはいっても、初期条件において人々は違った立場に置かれてしまっている」のであり、「初期条件をできるだけ平等化するために政府が積極的な役割を果たすべきである」

このように整理してもらえると、たいへんわかりやすくなる。

ここで補足しておかなければいけないのは、これら4つの立場をうまく混ぜ合わせた政策を政府が行うということは不可能であるということだ。

4つの立場はそれぞれ全く違うわけだが、これら全てに共通することがあると著者は指摘する。

それはそれぞれなりに、『個人は何に「値するか」をめぐって議論している』という点にある。

すなわち、この4つのモデルが指し示している共通点は、

すべてある種の道徳的価値を含んでいるのである。言い換えれば、ここにはそれぞれ「善についての構想」が存在する。どのとうに活動することが望ましい(賞賛される)かについて社会的な了解が成り立っているのである。そこでは道徳的価値観に基づいた「善についての構想」がインプリシット(暗黙)に想定されており、その「善についての構想」に基づいて、それぞれに特有な「社会モデル」が暗黙のうちに想定されていることになる。(p.216)

そして、この何を善とするのか、望ましい活動とされるのかという「社会的価値観はあくまで集団による選択できまる」のである。

ここに恐ろしくもリベラリズムの価値観の転倒が起こる。
すなわち、本来「(1)価値についての主観主義、および、「正義(自由の権利)」の「価値(善)」に対する優位」であるはずのリベラリズムの原理が逆転するのだ。

この選択は個人の嗜好に基づく選択ではなく、集団の選択だということだ。個人は、個人としてではなく、集団として選択し、場合によっては集団の決定に従属することになる。
この時、個人はリベラリズムのいう「自由」を失わざるを得ない。なぜなら、この四つのタイプの社会の選択は、善についての構想の選択であり、善についての価値観を画一化することにほかならないからである。四つのタイプによって善についての考え方が違っており、想定している生き方のモデルが違っているということである。
だから、ひとつの社会がこれらの善に関する想定のうちのひとつを選ぶということは、ある意味で、生き方についての個人の選択の自由は排除されたことを意味している。(p.217-218)

著者はあくまでも冷静に議論を展開していっているが、たいへん恐ろしい議論をしていることになる。

繰り返すと、「生き方についての個人の自由は排除された」のが、現代社会なのである。

次期首相選が近く控えているが、首相候補が上記4つのモデルのうち、どの社会にしていきたいのかということは、好き勝手言いたい放題で無責任極まりない評論家の意見など参考にすることもなく、誰もが明確に認識しなければならない自らの生き方にかかわるたいへん重要な問題なのである。

そのほかにも重要な指摘がいくつも出てきて、例えば、近代社会を構成する重要な価値として「生命尊重主義」「抑圧からの解放」「合理的な実証主義」の3つが挙げられていて、ところがこれらは「手段」や「条件」にはなりえても、「目的」にはなりえない。
「手段・目的」があって「目的」はお好きにどうぞというのは価値観の転倒といわざるをえないのだ。

いずれにせよ、私たちは社会の価値観に従属するばかりであって、それ以外の道が残されていないのだろうか?

ポストモダニズムの思想家達は今までこの段階で自爆してきた。

例えば、フーコーの権力論であれば、現代のあらゆるところに、知らないうちに監視され訓練を受け教育される監獄の存在を発見していく。
この場合の権力とは必ずしも官庁のようなものだけを指すわけではなく、あらゆる科学的知識が権力として作用する構図となっていたりして、誰もが簡単に気づかないようなところにまで権力が及んでいるのであった。

ではそのような権力による監獄から自由となるにはどうずればよいのかというと、人間関係のあらゆるところに出てくる権力全てにさからう具体策などあるわけもなく、結局はポストモダニズムは破綻してしまったのであった。

ポストモダニズムのエース的存在であったドゥルーズの自殺、そしてフーコーもエイズにより死去してしまうことは衝撃的であり、象徴的でもあった。

著者はどうかというと、ここで自らの「宿命の自覚」、それと「義」という古典的な思想を持ち込む。

「宿命の自覚」とは次のようなことである。

宿命を自覚するとは、結局、猶予期間である自分の生に意味を与えるものはいったい何かを自問することだ。余計なもの、本質的でないものを捨てていけばいったい何が残るのか。社会的な名誉や地位、さしておもしろくもない付き合い、会社の肩書き、また自己利益へのこだわり、我執、多少の金銭への愛着、こうしたものを捨てていって何が残るか、とわれわれは自問する。そこで最終的に残ったものを自分の宿命として引き受ける。(中略)
確かに、「生」の宿命的な選択も自由な選択には違いない。しかし、それは、人それぞれの幸福を自由に選択して追求するという議論とは何の関係もない。「死」へ向けた覚悟という次元の選択(決断)は、むしろ何を自分の義務として、それを共同体(死者)に対する責務として引き受けるかという選択である。そこにこそ本当の自由というものの意味がある。(p.254-255)

一方の「義」については、

それは、多様なレベルの共同体の規範を超えたいっそう超越的な規範への自発的な従属である。それを本書では「義」と呼んだ。いや「義」としかいいようのない「何か」がわれわれを動かしているということである。
定言命法といってもよいし、東洋思想のように天といっても、また道といってもよいだろう。儒教のように五倫といってもよいし、仏教のように六度といってもよい。それは、国家や共同体の他者からの評価や評判を超えたものだ。もしも、戦時中のように、「お国のために死ぬこと」が絶対的な意味を持つとするのなら、それは国家が絶対的な権力を有しているからではなく、「お国のために身をささげることが、ある状況では義にかなう」とされるからである。(p.279-280)

「宿命の自覚」や「義」というところに著者が一歩踏み込んだところに、この著者は並の学者じゃないなあという意味で拍手を送りたい。
本当ならここまで問題を大きくせずに無難なところで話を終わらせてしまってもよかったのかもしれない。
とりわけ著者は京都大学の教授という肩書があるがゆえに、「宿命の自覚」という議論はハイデガーの『存在と時間』とナチスとの結びつきが云々されることとかかわってくるし、さらにはテロリズムや新興カルト宗教ともかぶってしまう「義」という価値観を語ったりするのは、その言説に大きな危険をともなうのだ。
さすがに下記のように補足することで、その危険度を薄め、バランスを取ろうとはされてはいるが。

確かに多くの「義」は独りよがりの偏狭なものであろう。だが本当は、彼らの「義」があまりにも独断的で不都合なものであったか否かは、実際には、歴史の中でしかわからないものなのである。歴史だけが審判者であり、歴史だけがそれをふるいにかけていく。われわれができることは、われわれの「義」によって、それと対抗することだけである。(p.281-282)

とすれば、問題は、いかにそれらを信じるか、にこそある。そして重要なことは、あまりに軽々と信念の対象を変えてゆく「軽信」でもなく、また、逆にひとつの信条を深く絶対化して顧みない「盲信」でもなく、その中庸に道を求め、その両極端を避けることである、「中道」とは足して二で割ることではない。たとえば仏教でいう「中道」とは、正しい道に中る(あたる)ことにほかならない。「信じること」のバランスをとるとは、「信じる」ことのこの両極端を排することによって、適切に「信じる」ことだ。ポストモダン的シニシズムでもなく、超俗的なファンダメンタリズムでもなく、そのバランスをとること、そこにこそ適切な「信じること」がある。このバランスこそはアリストテレスが「徳」のもっとも中心的な意味と考えたものであった。(p.282-283)

このように「宿命の自覚」や「義」なんてことを持ち込むことを古くさいと決めつけるのはよくない。
そこが定まっていかない限り、精神の空洞化が起こりうるのだろうし、カルト宗教に走ったり、ニートになってしまったりという現代的問題も「宿命の自覚」や「義」の不在から起こるといえるのではなかろうか。

ちなみに著者は別の本では次のようにも言っている。

佐伯啓思『現代日本のリベラリズム』 佐伯啓思『現代日本のリベラリズム』

あらゆることを自分の内面で引き受けるのではなく、外部のメカニズムや機構の問題として処理しようとするとき、われわれはたぶん、精神の空洞化という現代人の最大級の病に侵されることになる。自由の問題を、すべて自分の外部に押し出してしまってはならないのである。抑圧を自己の外部に求め、自己は無限の可能性の中心だなどとするわけにはいかない。逆説的なことに、この仮説を受け入れたとたんに、人は、どんどん自由を失ってゆく。そして、あげくの果てに「精神」まで失ってゆくのだ。(p.99)

しかし、何物にも制約されない自由、などというものは空想の産物でしかない。解脱という無制約な自由もやはりそうだろう。むしろ、人間は、とりわけ個人は、絶対的な不自由から出発する以外にないのであり、またそこで終わる以外にない。われわれはひとつの不自由との交換でひとつの自由を手に入れるにすぎない。しかし、宿命の中に自由を見いだすという内面の作業の中にしか精神はない、とまずは考えるほかない。このような精神の風土が失われつつあることこそがオウムの土壌であり、われわれの現代日本の姿であるように見える。(p.100)

「義」という超越的規範がなく、宿命の中に自由を見いだす作業もなく、残された道があるのだろうか?
良い悪いという価値判断はおいておくとして、現在、多くの人達がよってたっているところに「オタク」というものがあることは間違いなさそうだ。

東浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』 東浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』

近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。
しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいでにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシュミラークルの水準で動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。(p.140)

「動物的な欲求に還元」というところがドゥルーズ=ガタリのいう「欲望する機械」を想起させるが、そのことはここでは取り上げないこととして、このように超越的な価値観たる「義」がなかった場合に、オタク的な世界の中に閉じこもってしまうことで満たすという方向性にいくことも、ある意味、必然的な帰結のように思われるのだ。

しかし、これはさきほど佐伯氏によって批判されていたポストモダン的シニシズムの姿そのものではなかろうか。

最後に再度佐伯氏の発言を引用しておくと、
「信じること」のバランスをとるとは、「信じる」ことのこの両極端を排することによって、適切に「信じる」ことだ。ポストモダン的シニシズムでもなく、超俗的なファンダメンタリズムでもなく、そのバランスをとること、そこにこそ適切な「信じること」がある
のである。

と、ここまできて、突然ではあるが、平田治氏の「自問清掃」の大人版、あるいは鍵山氏の「掃除道」という日々の実践における背景的肉付けということに、やっと自分なりに繋がってきた(^^;

平田治『子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ』 平田治『子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ』

鍵山秀三郎『掃除道 会社が変わる・学校が変わる・社会が変わる』 鍵山秀三郎『掃除道 会社が変わる・学校が変わる・社会が変わる』

2006/08/05 土曜日

ヘッドフォンを買う

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 21:39:04

本日も音楽系の話。

何年も使用していたヘッドフォンの調子が悪く、時々Skype用のヘッドセットで代用までしてCDを聴くのにたまらなくなり、まずはこの環境から脱却しなくてはと思い、注文していたヘッドフォンが届いた。

audio-technica ATH-A500 アートモニターヘッドホン audio-technica ATH-A500 アートモニターヘッドホン

たかがパソコン内蔵のCDで聴いている程度なので音質へのこだわりはほどほどで、それよりも長時間聴いても耳への圧迫感が少なそうなお手頃価格のものということで選択した。

ということで実際に装着してみての感想は、
予想はしていたがデカいので持ち運びには不向き。
布巻き製のコードが3mあるので装着したまま少しは動ける。
実際に装着してみると予想以上に軽く感じ、予想通り耳への圧迫感が少ない。
音質についてはエージングを始めだしたばかりなので、まだ正確なところはいえない段階だが、
少なくとも耳に突き刺さってくるような「痛い」音がするようなところは全くなく、
そこそこ深みのある音を出してくれ、
密閉式なので定位はよく、
変なクセのようなものがない、
低音が若干ボケた感じがするがフォルテシモの迫力感はある、

このように表現してしまうと、あまり大したことなさそうに思われかねないが、私の場合、聴く音楽の90%くらいは大編成オーケストラの曲なので、そういったオーディオ機器泣かせの曲ばかりを聴いた上で、価格の割には高い評価が出せるということ。

なので、そもそもパソコン内蔵CDでの「ながら族」レベルである私には、このヘッドフォンの実力は十分合格点。
オーディオテクニカさん、こちらのメーカーのヘッドフォンは昔から好んで使用しているが、相変わらず低価格のモデルでもなかなかの仕事やってくれますなあ。

ただ、SACDなどの専用機にヘッドフォンアンプをつないで聴くようなこだわり派には、選択すべきはこのモデルよりも価格が2,3倍する上位モデルということになるだろう。

HMVジャパン

2006/08/04 金曜日

チェリビダッケのチャイコフスキーにどっぷり浸る

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 23:40:10

HMVジャパン

HMVからCDとDVDが届いた。
昨日に引き続き(というか毎日聴いているけど)チェリビダッケのCDライブ3枚とDVDライブ1枚。
そのほかにCD2枚。

CELIBIDACHE,MÜNCHNER PHILHAMONIKER/Tchaikovsky: Symphony 4 CELIBIDACHE,MÜNCHNER PHILHAMONIKER/Tchaikovsky: Symphony 4

チェリビダッケ,ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団/チャイコフスキー交響曲第5番 チェリビダッケ,ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団/チャイコフスキー交響曲第5番

上の2枚、チャイコの4番と5番、興味のある人には絶対オススメ。
ただし、いくら超有名な曲であるとはいえ、知らない人にはあまりオススメできない。
なぜなら、知らない人が聴いて、これがチャイコの交響曲なんだとの認識を持たれてしまったら、一般的に持たれているイメージと、あまりにも大きくかけ離れすぎていて、大きな誤解をされてしまわれても困るから。

明らかに違うのがテンポ。
大人気のゲルギエフ指揮のものと第5番の演奏時間を較べてみると、ゲルギエフ46分に対してチェリはなんと55分!
どちらの曲も冒頭からCDが故障してしまったと錯覚してしまいそうなほどゆったりとしたテンポはこび。

本場?ロシア勢がアップテンポで野性的ともいえる激しい演奏で魅了しようとするのに対して、チェリはゆったりとしたテンポ設定で細かなフレーズやちょっとした伴奏に至るまでを浮かび上がらせる。
普通なら油断していたらあっという間に曲が随分先にまで進んでいってしまいかねないところも、各セクションがこんなことをしていたんだと気づかせてくれる。

チェリに野性味を感じさせるようなところはないが、細かなフレーズの謳わせ方や緻密なサウンドバランスへの配慮を感じさせてくれる。

先程初めての人にはオススメできないと書いたが、世間的なチャイコのイメージなんて気にしないということであれば、このチャイコは他の指揮者では味わえない曲自体のもつ美しさを存分に堪能できる。

特に美しさを感じやすいのが、ぐっと音量を抑えさせた箇所の演奏。
フォルテシモはこれでもか!というくらいに演奏する側につらい要求がなされていつつも、ピアニシモでの演奏はそれ以上に難しいだろうし、ピアニシモでなくてもある時ふと音を抑えさせる箇所がいくつもあり、その音の独特の抜き方も相当練習をしないとうまくできないのであろう。

ミュンヘン・フィルの演奏レベルも相当高い。
これだけテンポを抑えての演奏であったら、通常よくある演奏のように勢いにまかせて誤魔化してしまうことができないどころか、少しおかしなところがあると、それが浮き彫りになってしまう。
そんなことにもならず、1つ1つの音がきれいに響かせている、とても丁寧な演奏だ。
一言で表現すれば、まるでブルックナーの交響曲を聴いているような印象を受ける。

私は今までチャイコの交響曲があまり好きになれなかった。
なぜなら、激情やロマンティックな雰囲気を表現したものであって、その表現の仕方もなんとなく胡散臭いウソ泣きみたいな印象を持ってしまっていたからだった。
チェリのチャイコを聴いて、そんな印象はコッパ微塵となった。
改めて私によからぬ印象をいだかせたのはなぜかと考えるに、多くの指揮者が顔の表情を怒ったり泣きそうになったりという極端に変化させていったり、オーバーアクションによって汗を飛び散らせながらヘトヘトになって指揮をするのを見かけるからだ。
これを見かけると、全然成果を出せないビジネスマンが、必死の形相をしてマジメに仕事をやっているフリをしてみたり、成績を上げようと走り回った結果、汗だくになっているように演出している姿を想起してしまう。
いくらそんな演出をしてみたところで、仕事の成果自体は何も変わらないわけで、指揮をするにしても、いくらオーバーな演出をしてみたところで演奏そのものが変わるわけではない。
逆にそんなところに神経を使っていると、演奏自体のクオリティが下がってしまうことになりかねないというものだ。
チェリなら、どうしてもここはというクライマックスには、声によって楽団員に気合いを一発入れたら、それだけでシャキッとなるというもの。
実際、オーバーアクションな指揮者達は、演奏も雑でサウンドバランスを崩していたり、細部への指示が行き届いていない。
テンポのよさは、そういったアラを勢いで誤魔化すためのものとしか機能していないのだ。
そんな演奏がチャイコの交響曲には多いがゆえに今まであまり好きになれなかったことが、今回のチェリの演奏でよ〜くわかった。
決して手放せないアルバムが、また増えた。

(DVD)チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル、ドビュッシー / ラヴェル (DVD)チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル、ドビュッシー / ラヴェル

こちらは、チェリの晩年の指揮する姿を観たくて購入。
チェリの得意とするフランスの管弦楽曲集のDVD。
歩くのも危なっかしいほどではあるが、いざ指揮が始まると全くモウロクしたところを感じさせない。
途中、盛りあがっていくところで楽団員に気合いを入れるための声まで収録されてしまっているほど。
さすがにオーバー気味なアクションは全く見受けられないが、手をあまり動かさなくても眼だけで指揮してしまうほどの練習とそれによる息の合い方。
チェリ特有の美学はこのように指示されているんだあと納得できる。
演奏も完成度が高く、ライブが大成功した模様がよくわかる。

SIR GEORGE SOLTI,Chicago Symphony Orchestra / Stravinsky: Le Sacre du Printemps SIR GEORGE SOLTI,Chicago Symphony Orchestra / Stravinsky: Le Sacre du Printemps

チェリのアルバムのついでに買ってしまった。
ストラヴィンスキー、バレエ音楽「春の祭典」は小澤征爾@ボストン響とサロネン@フィルハーモニア管のものを持っていて、これが3枚目。
実はまだ体験したことがなかった「xrcd」フォーマットの高音質な世界に触れてみたかったのだった。

xrcdとは下記オフィシャルホームページに詳しく書かれている。

xrcd Official Homepage
xrcd24の特徴

・全ての通常CDプレーヤーで24bit相当の音が再生可能
・世界初の24bitマスターによるダイレクトカッティングと音質管理
・外部からの音楽信号変化要因を徹底排除し、原音を維持
・マスタリングからカッティングまで全機器をカスタマイズしてパワーアップ
・選び抜かれた音の職人たちの耳による厳しい音質管理
・原音探求JVC K2テクノロジーの集大成

私の選んだアルバムはショルティ指揮シカゴ交響楽団のハルサイ。
「春の祭典」というよりもパワフル金管楽器群が炸裂した「猛牛の祭典」といった演奏なんだろうなあと思いながら聴き始める。
すると、猛牛とのイメージは私の先入観だけのものだったことにすぐ気づかされた。
巨大編成となるこの曲のごく細部まではっきりと聴き取れるxrcdだけのことがある。
ショルティが細かなところまで行き届いた指示をしていることがよくわかる。
さすがに金管楽器群は最後まで全くバテそうな気配を感じさせないパワフル演奏ではあるが、xrcdだとピアニッシモでのアンサンブルの妙が楽しめる。
値段は少し高めになってしまうが、演奏会で聴くよりもはるかに鮮明な演奏である。
そこまでクオリティが高いことがよいものなのかどうかということはともかくとして、xrcdであればこそ堪能できそうなアルバムを厳選すれば、これはこれで良いものだ。

Carlo Maria Giulini / Pictures at an Exhibition

Carlo Maria Giulini / Pictures at an Exhibition

もうひとつおまけで購入したのがジュリーニ@シカゴ響の「展覧会の絵」。
購入理由は当時世界一うまかったであろうトランペットのソロを聴きたかったから。
しかも贔屓にしているジュリーニの指揮であればなおさらのこと。
聴いてみてさすがに他では聴くことのできない素晴らしい音色のトランペット・ソロだった。
もちらもシカゴ響とはいえ猛牛的な演奏ではなく、とても繊細なところをもった好演奏。

HMVジャパン

2006/08/03 木曜日

ブルックナー交響曲第5番がお気に入り

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 23:55:59

昨年末くらいから15年ぶりくらいにクラシックを聴きまくる生活に入っている。
1日に聴く時間は平均5時間くらい。
ちょうど以前だったらお酒を呑んでいた時間に相当するかも(笑)
でも、ただ漫然と聴いているというのではなく、本を読みながらというもっぱらの「ながら族」。

そんな私のお気に入りトップは、ブルックナーの交響曲第5番。
もうブルックナーというだけで、あの重厚なサウンドが好きで仕方がないのではあるが、各セクションの美しさがとりわけ感じやすいのが第5番だと思う。
あまりクラシックを聴かない人であれば第4番「ロマンティック」が有名であって、ブルックナー好きの人なら一般的には最晩年の第8番・第9番ということになるだろうから、ちょっとひねくれた趣味なのかもしれない。

交響曲第5番の演奏の中で感動ものなのは、写真のショルティ指揮シカゴ交響楽団とチェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団の2つ。
この2つはダントツですばらしい。

ブルックナーNo.5

ショルティ+シカゴ響は、ホールの関係なのか音質が乾いた感じがしてしまうところが少し残念でありながらも、この金管楽器のパワフルさは、いくら指揮者が指示をしたところで他のオケでは不可能な領域。
フォルテシモの演奏でも音が割れずに芯のある音で、その上きっちりハモっている。
他のオケで同じようなことをさせようとすれば、音が割れ、音程に狂いが生じ、楽器ごとのバランスが崩れ、おまけに演奏途中でバテてしまい、聴くも無惨なことになってしまう。
もうこのブラスサウンドが聴けるだけでも鳥肌が立ちっぱなしの感動が最後まで続く。
そしてショルティが妙な小細工などせずに、骨太に堂々と演奏させているところが好感を持てる。
チェリ+シュツットガルト放送響のほうは、全集版の中に入っていて、晩年のミュンヘン・フィル時代と比べるとテンポ設定が早めであるとはいえ、ショルティの79分に対してチェリは83分。
ヴァント指揮ミュンヘン・フィルが74分であるくらいだから、そのゆったりしたテンポ設定が際立つ。
当たり前だがショルティのように金管をフルに鳴らすのではなく、あえて抑え気味に表現させる箇所も多くあり、隅々に至るまでチェリの美学を堪能できる。
私のチェリ好きは中学生の頃からのもので、以前にいくつかのエントリーでも書いているので、これ以上チェリの神がかった演奏について書く必要もなかろう。
例えば http://blog.tokeidai.net/classical_music/celibidache_bruckner/

さて、日本でブルックナー交響曲の生演奏を聴く機会というのは、恵まれていないというか、国内オケではどうしてもパワー不足でしかも後半にバテてしまっているのがありありとわかってしまうので、開催されても聴きにいくかどうか迷うところであるのだが、今年はなんと10月19日にアバド指揮+ルツェルン祝祭管による第4番という超豪華な演奏が東京のサントリーホールで行われる予定なので、一般発売前に速攻チケットを入手してたのしみにしている。
その前に未体験のアバドによるブルックナーもCD体験しておくことにしておこう。

HMVジャパン

2006/08/02 水曜日

カード会社からのプレミアムな粗品

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 23:58:59

カシータのオーナー、高橋氏の著作に書かれていることを体験したくて、一ヶ月ほど前に某プレミアムカードを作ったのだが、本日、カード会社から感謝の意味をこめて粗品が送られてきた。

デスククロック

一応カード名称は赤で消しておくが、スチール製で円柱形にたためる結構立派なものだったのには驚いた。

ちなみに、ケースも本体と同じ色のもので、そこにカード名称が印刷されており、リボンにもカード名称が入っている。

デスクまわりに置いてもさほど邪魔にはならず、どのような粗品が喜ばれそうか、たいへんよく考え抜かれているなあと感心する。

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