2006/08/21 月曜日

チェリビダッケのブルックナー9番にぶったまげる!

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 06:14:15

最近になってチェリビダッケのCDを聴き始めてイロイロと入手してきたが、すでに品切になってしまっているものの、なにがなんでも聴いてみたかったブルックナー9番のミュンヘン・フィル版が、中古市場から新品で入手できた。

ブルックナー:交響曲第9番+リ チェリビダッケ、ミュンヘン・フィル / ブルックナー:交響曲第9番+リハーサル(2CD)

手に入れるのに手こずったことはさておき、聴いてみてぶったまげた!
そして、とても疲れた。

もはや早い・遅いとの意味を無効にするほどの超スローテンポで、にもかかわらず一瞬の弛緩も感じさせない。
ちなみに、手もとにあるギュンター・ヴァントの演奏では63分、チェリではなんと77分!
この速度は古今東西チェリにのみ可能な領域ともいえ、9番の演奏としては想定外のCD2枚組となっている。

他の指揮者と比較できるのは演奏時間くらいなもので、仮に多くの9番の演奏に得点をつけていったとしても、この演奏だけは規格外で異質な演奏のため、つけようがない。

かといってダメだということではなく、ものすごい細部に至るまで磨きに磨かれているがゆえに、楽器間のアンサンブルは完璧だといえるし、今まで気づかなかったような脇役の音までもがチェリ独特の解釈・構築の中で聴き取れるようになっている。
メロディもほんとに美しく歌わせている。
フォルテシモになっても全く音が濁らず、バランスも崩れず、見事にハモっている。
この演奏は完璧だ!
私には理想的な演奏に思えるが、「常識的演奏」とは全く異なるがゆえに、人によって大きく好き嫌いが出るかもしれない。

この超絶的演奏に100点との評価を与えてしまった時点で、他にいくつも存在する素晴らしいと褒め称えられている巨匠達の演奏が0点に近くなってしまう。
そういう意味では、この演奏を聴いてしまった人の多くは無口になってしまうことだろう。

この9番はチェリの亡くなる直前の演奏でもあり、付録としてついていたリハーサルの模様の翻訳を読んでいると、いつも厳しい口調ばかりが目立ったであろうチェリが、リハーサルの最後に楽団員に対して、次のように発言していることが頭に残った。

あなた方を指揮するということは特別な喜びだ。そして、あなた方が音楽に打ち込む力がどこからか得てくるのに、私はいつも驚いている。これはもう4度目の練習だが、私たちは相変わらず同じ集中力で演奏している。
私の生涯を思い出しても、これは唯一無二のことだ。私たちはベルリンでも、それどころかずっと生涯にわたってブルックナーを演奏してきたーーだが、君たちといっしょに演奏したときほどすべてがうまくいった演奏を私は思い出すことはできない。そして、チェリビダッケに賛成であろうが反対であろうがーー誰もが全身全霊で演奏する。それがとても嬉しいことだ。私は変わらず思うのだけれど、ブルックナーが発見された時代に生きたということは、運命の贈り物だよ。

ただ一言、クラシック好きとして、このような想像を絶する演奏に出会えたことに感謝するばかりだ。

追記(メモ)
今日現在で所持しているチェリビダッケ指揮のアルバム中のうち交響曲の内訳
ブルックナー3,5,7,8,9番(ミュンヘン・フィル、シュツットガルト放送響)、
ブラームス1,2,3,4番(ミュンヘン、シュツットガルト)、1,3番(ロンドン響)、
ショスタコーヴィチ1,9番(ミュンヘン)、
チャイコフスキー4,5,6番(ミュンヘン)、
プロコフィエフ1,5番(ミュンヘン)、5番(ロンドン)、
ベートーヴェン3,4,5,7,8,9番(ミュンヘン)、
モーツアルト40番(ミュンヘン)、35,40,41番(シュツットガルト)、38番(ロンドン)
シューベルト5番(ミュンヘン、ミラノ座)、
シューマン2番(ロンドン、ローマ座)
管弦楽曲はまとめるのが困難

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2006/08/20 日曜日

チェリビダッケのロンドン交響楽団との演奏

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 08:02:22

いよいよ一般リスナーの枠をこえてマニアックな世界に突入か?

Celibidache / London Symphony Orchestra 1978-1982 チェリビダッケ&ロンドン交響楽団 1978-1982(11CD)

1980年前後にチェリビダッケがロンドン交響楽団と行ったライブ録音CD11枚組の限定セット!

「録音嫌い」のチェリは当時発売されているアルバムも存在せず「幻の指揮者」などと言われていて、ちょうどロンドン交響楽団とともに来日公演を果たした時、私は中学生ながら必死でお小遣いを貯めて聴きに行った記憶が蘇る。
当時はチェリはもう60歳代という指揮者として脂ののった時期といえるだけのことはあり、たくさんの噂は聞こえてはくるものの、いったいどんな演奏なのかを知っている日本人は皆無に近かった。
来日公演があって国内での知名度がかなり上がりはしたものの、ライブに行った人とFM放送で流れた演奏を聴いた人だけ。
私はライブ・FM両方によって演奏を聴いて、並の有名指揮者を超越した演奏ぶりに完全に魅了されたわけだが、今再びこうして当時のチェリ&Lsoの演奏に触れることができて、たいへん嬉しいのである。

このアルバム自体はほとんど海賊版に近いようなものであって、録音の質も決してよいものではないが、チェリの求めていたライブ独特の空気が伝わってきて、これはこれで素晴らしい。

当時のロンドン響は名手揃いで、とりわけオーボエ、クラリネット(2人とも名前を忘れた)、トロンボーンは金管楽器を吹いたことのある人なら誰でも名前を知っているデニス・ウィック、チューバはジョン・フレッチャーなんていう人達が名を連ねる。
名手であるがゆえの?単独プレーのような演奏も楽しめる(^^;
このあたりがライブのよいところでもある。

11枚もあるので全部聴くには時間を要する。
ちょっとずつ時間をかけて楽しんでいこう♪

ちなみに同時に入手したアルバムに↓がある。

Celibidache / Mozart Sym.40&41 Shubert Sym.5 Schuman Sym.2 Celibidache / Stuttgart.rso, Rai Rome.so / Mozart Sym.40&41 Shubert Sym.5 Schuman Sym.2

こちらはモーツアルトが70年代シュツットガルト放送響時代のもので、シューベルトとシューマンは60年代のもの。
「モーツアルトはサラダだ」との問題発言を残しているチェリのモーツアルトを聴いてみたくなった次第。

巷ではモーツアルト生誕250年を記念してモーツアルトの売り出しに余念がないが、私はモーツアルトをそれほど好まない。

以前にも書いたことがあるが、有閑マダムのアフタヌーンティでのBGMとしてホテルのティラウンジでかかっているのにふさわしいくらいにしか思っていない。
そういう意味において、チェリの問題発言と私自身のイメージとは合致するわけなのだが、そのチェリが一体どういう演奏をするのかに興味を持ったわけである。

で、聴いてみて度肝をぬかれた。

第1楽章は予想だにしなかったスピードのある演奏。
非常に軽快で、かつ細部までこなれている。

ところが第2楽章に入ると、いつものゆったりとしたテンポによってチェリワールドが繰り広げられる。

この極端ともいえる緩急の妙によって、たいへん魅力的なモーツアルトになっている。

一般的にはモーツアルトはサラダであってメインの魚・肉料理にはならないとの考えを持っている私も、オードブルくらいにはなりうるモーツアルトの演奏を聴けたことに驚いたのであった。

追記
1980年という私がまだ中学3年いう多感な時期に、チェリのライブを聴いたということ「だけ」で、ファンとなっているわけではない。

なぜなら、同じ年に来日したダニエル・バレンボイム指揮のパリ管弦楽団、 エーリヒ・ラインスドルフ指揮のベルリン放送交響楽団と、2つも公演を聴いているにもかかわらず、バレンボイムの演奏には大した感銘も受けず、ラインスドルフに至っては凡庸な演奏だったとの印象が残っている。
両指揮者による演奏には、あまり関心を持っていない。

2006/08/19 土曜日

宮沢賢治「貝の火」補足

Filed under: 雑記, 読書 — 咲本 @ 02:51:27

昨日宮沢賢治の短編童話「貝の火」を紹介しながら、例えば「ビジネスの成功」って一般的に言われているものは、そのほとんどが「天上界」を目指したものであって、だとすれば必ずしもそんなにいいものとはいえないというようなことを書いた。
http://blog.tokeidai.net/reading/kainohi/

ちょっと補足しておかないと、このままでは大きな誤解をされかねないので、若干コメントをば。
ただ、補足自体が宗教的な話でもあるので、さらに誤解される可能性があるかも(^^;

私自身も随分前のことにはなるが、頭も冴えわたっていると感じられ、次々とアイデアが発生し、何をやってもやること全てがうまくいき、お金もザクザク入ってくるし、精神的充足感に満たされた感覚でいられた時期があった。

これは今から思うに「天上界」の状態であり、地獄界よりもある意味危険な状態。
このような状態になると、品のよい余裕のある紳士っぽく振る舞おうと意識もするし、実際そのようにしていた。
謙虚であることを忘れずにと思い、人のお役に立ってナンボ!という気持ちもあった。
しかも、「精神的に極めて心地のよい」状態であった。
自分では謙虚を心がけようとは思ってはいても、やはり今から思うと、そういうスタイルに酔っていただろうし、いくら本人は世の中の善人みたいなつもりではあっても、それは「ずる賢い悪魔に取り憑かれていた」といえば極端かもしれないが、振り返るとそのような感じがしてしまう。

宮沢賢治の童話に無理矢理当てはめると、この「ずる賢い悪魔」というのが「キツネ」に該当する。
そして、よかれと思ってやっていることが、本当は世の中にマイナスを与えることにしかなっていなかったりする。

子ウサギのような(それは過去の私のようでもあるのだが) まだまだ善根の乏しい者は、キツネのような狡猾な悪魔に騙されるなどして、あっという間に落ちていく。

その状態が長続きするのは、よほど過去生で苦しい思いをしながら善根を積んできて人であろう。
例えば、石油王の子どもとして生まれてくるような生まれながらにして大金持ちの人とか。
大方の人は、一見天上界であるように見えつつも、宮本武蔵のように「修羅界」において実力で人をぶった切ってのし上がり続ける人であったり、ちょっと講演を依頼しただけで新幹線グリーン車代と超高級ホテル宿泊代まで平気で請求してくるような性根を持っているような「餓鬼界」の人である場合が多いのだろう。

要はビジネスでうまくいくというのは、多かれ少なかれ、悪人でなければうなくいかない側面がある。

子ウサギが宝物をもらえたのは、自分の命を投げ出してひばりの子どもを助けたからであった。
いくら人様のお役に立つ側面がビジネスにあるといえども、自らの身命を投げ出してお役に立つというつもりなど毛頭ないどころか、10円のものを100円で売るという、ある意味では人を騙してメシを喰って生きていることからは、宝物との距離は遠すぎる。

そんなことを言い出したら、儲けることなんて全くできなくなるから、普通は深く考えようとしないということがまかり通っている。
最悪の場合には、なんだかんだいっても結局は儲ける人は偉いという、王族の息子として生まれたにもかかわらず、真理を求めて家を飛び出したお釈迦様を鼻で笑うかのような開き直った考えの人まで出てくる。

イエローハット代表の鍵山さんという方がいて、直接お話をしたこともなく実際のところはなんともいえないが、この方は会社の創業時の不安定な時期から、誰に自慢するわけでもなく社員にバカにされながらでも、毎日欠かさず会社のトイレ掃除を続けてこられた。
まさに40年間毎日欠かさず。
念のため自宅のトイレではなく、社員の使う会社のトイレだ。
しかも、会社が安定してから、良い行いをしていたら良い見返りがあるかもしれないという「リターン」を意識しての行動でもなく。

商売の基本的考え方は投資があってリターンがあるというもの。
つまり良い行いをしたら良い結果が返ってくる。
これはあくまでも因果律に基づくことであって、当然といえば当然。

だが、因果律に従ったままでいくと、ある時には天上界、ある時には餓鬼界、そして気がつくとずっと地獄界という六道輪廻の世界をぐるぐる回っていくだけとなる。

その因果律を断ち切ることになるかもしれないのが、子ウサギの命を投げ打った行動だった。
その行いをもっと小さくしたのが、鍵山氏の見返りを求めない掃除であったのかもしれない。

それを知ったキツネのような人であれば「あっ、そうか、トイレ掃除という投資をすれば、会社が発展するというリターンが得られる」と考える。
このキツネのような人達が、ビジネス書を漁って読む読者にたいへん多い。
このような人達は、狡猾な著者が印税でメシを喰うための存在としてしか意味をもたない。

蛇足ではあるが、「成功」を語る著書やセミナーは、主催者の経済的「成功」を目的としたもので、 内容がインチキかどうかを判断する便利なキーワードと考えておいてちょうどよい。
見返りを求めない行動や身命を惜しまない行動は美しく見えるわけだが、「その対象を間違うな」というのが宗教の教え。
好きになった彼女をその対象として身命を惜しまないというのは、必ずしも美しい行動とは言い切れないのだ。

さて、このようにビジネスで成功することがあまり褒められたものではないとは言うものの、だからといってビジネスの世界で何も考えずにただぼおっとルーチンワークをしていくだけというのがいいというわけではない。
これを「畜生界」といい、地獄や餓鬼と較べると少しだけマシではあるが、人間界にも至っていない。

ではどうすればいいのかなんて、取り急いで結論を私に聞くようなことはしないでほしい。

答えを知りたければ、三千帖にものぼる膨大なお経があるから、そちらをご参照ください(^^;

ちなみに私はどこの宗教団体にも属していません。

2006/08/18 金曜日

宮沢賢治の童話「貝の火」

Filed under: 読書 — 咲本 @ 07:49:46

この夏読んだ小説の中では、宮沢賢治の初期の短編童話が最も面白かった。

宮沢賢治全集 (5) 宮沢賢治全集 (5)(ちくま文庫)

確かNHK教育テレビの番組で、女優で著作も多い本上まなみさんが本書所収の「貝の火」をオススメ&朗読しているのをたまたま見たからという、ミーハーな動機により読んでみた。

童話でもあり、読もうと思えばすぐ読んでしまえるのだが、「貝の火」はとても不思議な物語だ。
本上さんも言っていたが、そもそもなぜ「貝の火」というタイトルなのかすらわからない。

あることで善行を行った子ウサギが誰もがうらやむ宝物をもらってから失明するまでの6日間が語られたものだ。
子ウサギがあるきっかけで天上界に昇りつめはしたものの、そこからあっという間に落ちていく。

宮沢賢治は仏教の影響が強いはずなので、これは万物が決して逃れることができない因果律に縛られた中で、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六道をぐるぐる輪廻するしかないさまを描いているように思った。
ちなみに地獄、餓鬼等々はもちろん地理的場所を指しているのではなく、魂の状態のことである。
たまたまカネがザクザク入ってくるようになる状態は天上界で、逆にカネが欲しくてたまらないのに入ってこないのは餓鬼界である。
これらは因果律によって、天上界から地獄界にすってんころりんと落ちてしまうことが必ず起こるので、現在天上界であったとしてもそれが良いことでもないし、そもそも天上界の上にさらに声聞、縁覚、菩薩、仏と4つあるわけで、究極は仏界にいかないと、この輪廻する世界からは逃れられないのだ。

地獄界はまだダメなのがわかりやすいからマシなんだけど、一番やっかいなのは天上界。
ビジネス書で語られている「成功」というのは、主としてこの天上界のことを指す。
だから成功を企てて計画したことがうまくいくこと自体はいいとしても、ビジネスで「成功」することは、実はあまり手放しで褒められることとはいえない。
このようなことを言い出すと、「ではビジネスで成功することがダメなのか?」と、一部単細胞な人が思うのかもしれない。

ビジネスで「成功」すると、いくら謙虚でいるつもりであっても本人の気がつかないうちに増上慢になる。
そうすると必ず地獄に一直線に落ちることになる。
ほかにも言い出すとキリがないので詳しいことはやめておくが、要は良い・悪いや成功・失敗というのは六道をぐるぐる回っていくだけの世間的常識の範囲内での価値観では判断しやすいが、菩薩・仏を含めたら、その価値観がひっくりかえったりして常識では理解不能な世界となっていく。
さて、盲目になった子ウサギにお父さんは最後にこのように言っている。

「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

もう一度いうと、天上界は目標にするほど素晴らしいものでもなんでもない。

2006/08/17 木曜日

soul II soul,東京事変そしてチェリビダッケ(^^;

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 03:13:51

私が聴くのはクラシック音楽、とりわけチェリのファンということは否定はしないが、もちろんほかの音楽も聴くこともある。
比率は少ないけど。

本日届いた中には、懐かしのソウル IIソウルが混じっていた。
といっても20代の人とか知ってるのかなあ。
↓のアルバムなんだけど1989年に出たもので、それまでブラック系といえばEarth Wind & Fireのようなものが多かったんだけど、ソウルIIソウルが今のクラブミュージックの形の原型になった側面もあるのではないかと思えるようなグループ。

soul II soul / Club Classics, Vol. 1 soul II soul / Club Classics, Vol. 1

Soul II Soul - Club Classics Vol. One: 10th Anniversary Edition

当時はバブル全盛期で京都では2店舗あったマハラジャも連日満員だったが、私はやむを得ない時以外はイマージアムビルの5Fか6Fにあった「True」というクラブでよく踊っていた。
そこでは一切ユーロビート系がかからなかったので心地よかった。
当時よく踊りはしたが、曲名やアーチスト名なんて全く知らず、唯一すぐに思い出せたのがソウルIIソウル。
う〜む、今でも通用するような曲ばかりやな〜。

と書いていると、なんだかかなり久しぶりにクラブに行きたくなってきた(^^;

どなたか、オシャレできれい目な曲のかかっているクラブに一緒にいかへん?

東京事変/大人(アダルト) (通常盤) 東京事変/大人(アダルト) (通常盤)

↑こんなアルバムも注文していたりする。
実は2年前に出たアルバム「教育」も所持している(^^;
決して「懐かしいなあ」というCDではない。
今回のアルバムは前回と較べて、さらにバンドとしてのクオリティが明らかに上がっている。

てなアルバムをチェリビダッケのアルバムを注文するついでに頼んでいたりもするのだ。

ちなみに本日届いたチェリのアルバムは、ブラームス交響曲2,3,4番、プロコフィエフ交響曲1,5番、ベートーヴェン交響曲3番。

ブラームスはすでにチェリによるシュツットガルト放送響版を全集で所持していたが、どうしてもチェリ晩年のミュンヘン・フィルでの演奏が聴きたくて購入。
近日中にブラームス1番のミュンヘン・フィル版とロンドン響版とも取得予定。

聴いてみたところ、やはり全然演奏の質が違う。
ミュンヘン・フィル版は1980年の来日公演で生で聴いたブラームスに近い。

まず予想通りテンポが有名指揮者の中では最も遅い設定。
その分、細部にまで目を光らされ、とりわけ第4版最終楽章の中盤の金管のコラールやその前後の弱音での演奏が限りなく美しく聴かせてくれ、まるで遅さを感じさせない。

シュツットガルト放送響の演奏もチェリ壮年期らしい若々しい勢いが楽しめるのではあるが、やはり晩年の緻密さと悟りきったかのように余計な力は全てそぎ落とされた上での豊かな表現力・構築力は捨てがたい。

結果的にはブラームスとブルックナーの交響曲はシュツットガルト放送響版とミュンヘン・フィル・フィル版とを揃えてしまうことになる。
ここ短期間の行動としてはマニアックな買い方かも。

Sergiu Celibidache,Münchner Philharmoniker Orchester / Brahms: Symphonies Nos. 2, 3, 4 Sergiu Celibidache,Münchner Philharmoniker Orchester / Brahms: Symphonies Nos. 2, 3, 4

Sergiu Celibidache,Münchner Philharmoniker Orchester / Beethoven: Symphony No. 3 Sergiu Celibidache,Münchner Philharmoniker Orchester / Beethoven: Symphony No. 3

Sergiu Celibidache,Münchner Philharmoniker Orchester / Prokofiev: Symphonies 1 & 5 Sergiu Celibidache,Münchner Philharmoniker Orchester / Prokofiev: Symphonies 1 & 5

2006/08/16 水曜日

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その5(最終回)

Filed under: 読書 — 咲本 @ 01:35:27

中公新書で現在入手できる古典的名著をオススメするコラムの最終回。

清水博『生命を捉えなおす―生きている状態とは何か』

清水博『生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理』

同じ著者による本であるが、前者と後者とで大きな違いがある。
前者が書かれたのは東大教授時代であり、後者は定年退官後に他大学に移られてからのものである。
前者は「自己組織化論」に至る分子生物学の国内最高峰の研究として注目され続けてきた重要書籍であり、後者は基礎的研究から導かれる結論を語るのには「東大教授」というしがらみというか制約のようなものがつきまとっていた著者が、それらから自由になった立場になったあとになってから、思想としての自己組織化論に突っ込んでいるものである。

一般的には前者の本が圧倒的に重要だと思われているだろうが、学術的な内容であるので多少敷居が高いかもしれない。

後者になると、前者から導き出された結論を思想的に応用していこうということになり、「場の創出」「共創」「創造性」といったキーワードに興味がある人であれば、普通に読んでいけるものとなっているだろうし、断然面白い。

本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』

こちらは最早説明の必要がない超ベストセラー。

先程の清水氏にしろ本川氏にしろ、たとえ比喩的であれビジネス系に応用できそうな内容であれば人気がでるということなのだろうか。

榊原清則『企業ドメインの戦略論―構想の大きな会社とは』

「企業ドメイン」をテーマにした書籍というのは、あるようでいて意外に見かけない。
戦略論の入門としてはずせないテーマでありながらも。

そういった意味でも本書は「いまさら知らないでは格好悪いし‥」という方にとっても、短時間で明解に理解できる良書だといえる。

なんとなくわかっているつもりという人にとっても、ここがわかっていないと戦略論には入っていけない入口として復習するのにもちょうどよい。

以上、お盆期間ということもあり、5回にわたってなぜだか中公新書の中から紹介してきた。
手もとに本がないものがほとんどなので、勘違いや誤解があればごめんなさい。

この数日間(というか、いつものことと言ってもよいほど)、チェリビダッケが指揮する曲を何度も何度も聴いている。
これ以上のやさしく美しいサウンドは今後とも登場しないのではないかと思わせる天才チェリの音楽については以前のエントリーでも何度かふれたことがあるが、改めてウィキペディアから引用すると、

セルジュ・チェリビダッケ - Wikipedia
音楽は【無】であって言葉で語ることはできない。ただ【体験】のみだ。」というのがもっともシンプルにまとめられた彼の音楽論であろう。しばしば行われ た「音楽現象学」の講義はさまざまな疑問を投げかけながら高慢な学生の鼻を折るどちらかというと意地悪なものであったようだが、その本質には「始まりの中 に終わりがある」という思想が貫かれている。

実際の演奏に関しては、楽曲の徹底した構造分析と、モチーフによる構成の統一。時にはそのモチーフの同一性を強調するために極端なテンポ・音程の改変が採用されている。(中略)

またハーモニーの純度・楽器間のバランスも徹底的に追求され、彼のトレーニングしたオーケストラは徹底的に室内楽的な「聞き合い」を要求されることにな る。また弦楽器の肥大した現代オーケストラにおいては、木管楽器の増強がしばしば見られるが、そのことにより、全奏時においても木管楽器の存在感は際立っ ている。

総じて晩年のテンポが非常に遅い事で知られている。再晩年のスペインで演奏されたブルックナーの交響曲第8番は105分かかっている(普通は約80 分)。その思想的根拠はどこにあったか、を考えてみると、音楽を構成する諸要素が自律的な法則に従いながら生成・発展する、という原理原則を徹底しようと したことによるのではないかと思われる。そこには、演奏者の解釈や気まぐれといった要素を極力排除し、楽器同士のモチーフの完璧な受け渡し、どんなに編成 が大きくなってもハーモニーの透明度を維持しようとした点、そのためオーケストラ全体が一つの生き物として歩むような表現が深化して行く様子がうかがえ る。
(※強調部分は咲本)

言葉にしてみると一応はこういうことになるのだろうが、「目的ではなく結果的には」このような音楽から得られる独特の美学も、実は仕事に大いに関係する。

仮に同じブルックナーの交響曲であっても、ギュンター・ヴァントでもなく朝比奈隆でもなく、チェリからしか感じられない多くのものがある。

チェリビダッケ,ブルックナー:交響曲第8番 Bruckner: Symphony no 9 - In Concert And Rehearsal / Celibidache, Munich PO チェリビダッケ,ブルックナー:交響曲第7番 Bruckner: Symphony No. 6 チェリビダッケ,ブルックナー:交響曲第4番 Bruckner: Symphony no 5 / Celibidache, Munich PO

言葉にはできないので、何度も演奏を聴いて体験する。

言葉にできることは、今回何冊もご紹介したような書籍から、主として「問いの立て方」や「思考プロセス」 を学んでいけばよい。
そういうことなので、ご紹介した本にはハウ・ツーものが1冊もなかったはず。
たとえハウ・ツー本を1000冊読んでも、思考プロセスなき答えや鋭い問いのない答えからは、得られるものはほとんどないと思っておいてちょうどよいのだ。

本文と関係のない追記

コミック「のだめカンタービレ」が月9フジテレビでドラマ化決定ばんざ〜い(^^;

のだめカンタービレ(1)のだめカンタービレ (2)のだめカンタービレ (3)のだめカンタービレ (4)のだめカンタービレ (5)のだめカンタービレ (6)のだめカンタービレ (7)のだめカンタービレ (8)のだめカンタービレ (9)

のだめカンタービレ (10) のだめカンタービレ (11) のだめカンタービレ (12) のだめカンタービレ (13) のだめカンタービレ (14) のだめカンタービレ (15)

2006/08/15 火曜日

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その4

Filed under: 読書 — 咲本 @ 02:34:55

古い中公新書の中からのオススメ書、第4弾。

阿部謹也『刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活』

私の中では西欧中世史といえば阿部謹也、日本中世史といえば網野善彦。
両者とも社会史というか、当時の庶民の生活に焦点を当てた歴史家である。
彼らの異色の研究が、それまで権力側の歴史ばかりが語られてきた趨勢への強烈なアンチテーゼとなった。

本書が手もとになく、代わりといってはなんだが著者の代表作ともいえる『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』からこのことを引用すると、

では民衆史を中心にした社会史はどうしたら可能なのか。これが本書に課した大きな課題である。この課題は何よりもまず、これまでの歴史研究、すなわち生活現実を理知的に解明せんとして、長い間知識人が行ってきた知的営為そのものに対する批判的反省として、出発しなければならないであろう。

ということになるだろうし、

歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内面と呼応しない歴史を私は理解することができない

という基本姿勢でのぞんでいるのだ。

フランスでは20世紀前半から細々とした研究活動として、雑誌「アナール」を舞台に社会史研究のような動きがあり、この潮流を後になって「アナール学派」と呼ばれ、商人の活動を浮き彫りにすることで資本主義発生前の商業の起源に迫るフェルナン・ブローデルの『交換のはたらき1』『交換のはたらき2』といった名著もこの系譜に含まれる。

国内ではこの2人が今では増えてきつつある社会史的な研究への道を切り開いた先駆者であり、当時はそんなことを知らずして読んだ記憶がある。

阿部氏は本来なら王道とはいえなかったであろう研究が評価されたためなのか、近年では一橋大の学長にまでのぼりつめられ、研究領域も西欧史にとどまらず社会史的視点で日本を研究した『「世間」とは何か』(講談社現代新書)といった本まで出ている。

三木成夫『胎児の世界―人類の生命記憶』

↑の存在は、吉本隆明の思想書の中では最も重要だと思われる一つなのに、なぜだか現在品切れしたままの『心的現象論序説 改訂新版』と深い関係にあることが、著者のエッセーからわかったことが読んでみたいと思うきっかけとなった。

例えば『心とは何か―心的現象論入門』所収の「三木成夫について」というエッセーにも書かれているとおり、

<こころ>とわたしたちが呼んでいるものは内蔵のうごきとむすびつくことを第一義としたあるひとつの表出です。また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよいわけです。わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以後の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できる見とおしが得られました。もちろん内臓系の<こころ>のうごきはわたしの定義している自己表出の根源であり、体壁系の感覚器官のはたらきは指示表出の根源をつくっています。
この著者への頌辞になるかどうかわかりませんが、知識に目覚めたはじめの時期に、もっとはやくこの著者の仕事に出あっていたら、いまよりましな仕事ができていただろうに、そんなすべのない後悔をしてみることがあります。ひとりでもおおくの読者が、こんな後悔をしないように、とこの解説を試みました。(p.133)

と、吉本氏が折にふれて絶賛されているからであった。

確かに読んでみると、解剖学者なのにひとつの文学でもあるかのように面白い。

時代の寵児であるかのような存在となっている養老孟司氏も脳の解剖学者であるが、鋭い指摘がなされているにもかかわらず昔から違和感を感じてしまうのは、養老氏の理論が意識的に大脳部分だけを取り上げた議論を展開している点においてである。

理論自体は説得力があるように見えても、よ〜く考えてみると極論であり片手落ちの感があるのはそのためなのだ。

養老氏の本を読んだ後に三木氏の本を読むと、バランス感覚を取り戻したように爽快な気分となるのは、私だけではないことであろう。

綾部恒雄『文化人類学15の理論』

祖父江孝男『文化人類学入門』

後者の本は最初に読んだのが高校1年の頃だったと思う。
私がはじめて学問に興味を持ったのが本書によってである。

今でも改訂版として発売されているのを嬉しく思う。

正直言って、現在の文化人類学の進展具合からすると古くさいといえなくもない。

しかし、発行された時点ではまだ文化人類学という学問についての認知度もそれほど高くはなく、まずは興味をもってもらうことを目的の啓蒙書という位置づけでは大成功してきた本だといえる。

中味は文化人類学の概要にとどまらず、国立民族学博物館などの施設情報やオススメの専門書、専門的に勉強できる大学の一覧や、人類学者が学部では周辺分野を専攻し、大学院で人類学を専攻するパターンが多いということまで、興味を持った人のためのガイドがたいへん充実していた記憶が残っている。

興味を持った人は前者の本でさらに理解を深めていけばよい。

ちなみに私は祖父江氏の本の影響をまともに受けて、高校時代はずっと考古学ならぬ先史学を大学で勉強して、その後大学院に進み、文化人類学を研究しようと思っていた。
実際には全くそんなことにはならなかったが(^^;

2006/08/14 月曜日

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その3

Filed under: 読書 — 咲本 @ 17:44:59

今でも発売されている中公新書名作のその3。

江上波夫『騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ』

上山春平『照葉樹林文化―日本文化の深層』

↑の2つの本は日本文化の起源にかかわる論議を活発化させた代表的なもの。

騎馬民族が日本に来て国家を建てたという説は、現在ではこっぱ微塵に粉砕されてしまった感があるが、照葉樹林文化論は未だに生き続けている。
著者は私が高校生だった頃、山川出版社版の世界史教科書の執筆者か監修者だった記憶があり、日本文明の発生に限らない、世界の古代文明を専門とする権威。

後者のほうは、当時ベストセラーとなったことで、著者の上山氏が中公新書から今は絶版となっている『照葉樹林文化 続―東アジア文化の源流 (2)』『稲作文化―照葉樹林文化の展開』と続編を出していくのではあるが、著者の専門は宗教学なのであって、発行部数に関係なく本来的な専門家の本としてピックアップするのであれば、NHKブックスから出た佐々木高明『稲作以前』や、古典的なところでは岩波新書の中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』といったところになるのではなかろうか。

こういった論争からしばらくすると、ここから派生したかもしれない議論として「あなたは縄文人?それとも弥生人?」なんていう話もあるにはあったが、そんなバラエティ番組のようなテーマだけを問題にするよりも、ウイルス学から日本人のルーツを探り、今や絶版となっている中公新書、日沼頼夫『新ウイルス物語―日本人の起源を探る』のほうに私は衝撃をおぼえた。

縄文人の末裔が比較的高い比率で残っていそうな島の白血病羅患率と都道府県調査など各種統計データと比較していきながら、日沼氏は縄文人は弥生人と較べて白血病にかかりやすかったという仮説を導き出す。
そして、縄文人よりも「進んだ文化」を持った弥生人に武力によって滅ぼされたと主張する人達が多いとはいえ、「進んだ文化」と主張する説得的な根拠は乏しいのであり、とすると一時期に縄文人が白血病で大量に死に、弱りきっていた縄文人に弥生人がとどめの一撃をくらわしたと考えられなくもない。
そんな仮説の可能性成立を大いに考えさせてくれるのであった。

高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上)』

高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (下)』

↑本書が名著たるイメージは未だに持ってはいるものの、正直なところ内容は忘れてしまった。
とにかく、よかった(^^;

なぜなら、アートに特別関心を持っていなかった当時20歳前後だった私が、本書を読んでから近現代美術に興味を持ちはじめ、特別展開催情報をチェックしながら美術館巡りをし始めたのだから。

あと、本のことでいえば、画家の画集は高価なものが多く、貧乏学生だった私が見つけたのが「新潮美術文庫」という1000円程度で買えるシリーズもので、現在も一部の本が発売されている。

河合隼雄『無意識の構造』

↑本書は著者が75年にカール・グスタフ・ユングの主著となる『人間と象徴 上巻―無意識の世界』『下巻』とを翻訳した後、77年に出したユング心理学入門書。

今でこそ著者は日本を代表するユング心理学の大家ではあるが、当時は現在のようにカウンセリングや心理療法が一般的とはいえなかった状況のもとで書かれたのであって、これほどコンパクトにうまくまとめられたユング心理学の入門書は、未だに他には見かけないのではなかろうか。

まだユング心理学をかじったことがないという人には、今でも自信をもって本書をオススメできる。

2006/08/13 日曜日

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その2

Filed under: 読書 — 咲本 @ 22:41:44

中公新書における名著のご紹介その2。
今回から個々の書籍説明に入ります。

川喜田二郎『発想法―創造性開発のために』

川喜田二郎『発想法 (続)』

↑上の2つは野口悠紀雄『「超」整理法―情報検索と発想の新システム』が93年に発売され、大ベストセラーとなるはるかに前、60年代に出た超ロングセラー。
人類学者たる川喜田氏がアイデアの断片から考えをまとめるための方法が公開されたもの。
いわゆる「KJ法」としてたいへん有名になった創造性開発の方法が書かれている。

当時、野口悠紀雄氏の本にあたるのが、KJ法が紹介された本書と梅棹忠夫『知的生産の技術』であった。

そもそも本書と梅棹氏の本に興味を持った理由は、文化人類学に並々ならぬ関心を持っていたからで、川喜田氏は有名な文化人類学者、梅棹氏は国立民族学博物館の館長だったことによる。

当18歳だった私もこの2人の著者に大きな影響を受けた結果、↓のような3ミリ方眼の入った野帳と呼ばれるものを常にポケットに忍ばせ、気になったことをメモしたり、スケッチや図にして書き残しておくことを常としていた。(ちょうど現在ならデジカメとボイスレコーダーを持ち歩いているような感覚かも。)

野帳

あと、↓のようなB6版の通称「京大型カード」なんて呼ばれるものを講義ノート代わりや読書メモなんかに使っていた。

京大型カード

普通のノートに記入するのではなく、1枚に1項目記入ということになり、あとになってKJ法的に使ってみたり、順序を入れ替えたりするのに便利だと思ったからである。

さすがに普段使用することはなくなったが、ブレインストーミングの時には、現在でもこのようなカードを使用したほうが便利なケースが見受けられるわけであり、発想法の原点に立ち返る意味で、ふりかえって読んでみたら新たな気づきがあるのではと思わせる本である。

中村雄二郎『哲学入門―生き方の確実な基礎』

私の哲学入門書との出会いは、おそらく中村氏の↑がはじめてだったように思う。

本当なら難解に記述されるような事柄を、不思議なくらいに簡単で明解に書かれる中村氏の本には随分とお世話になってきた。
では簡単な話かと改めて考え出すと、とっても難解なことを問題にされていたことに後になって気づく。

中村氏の本の軽やかさは、その後岩波新書から発売された『哲学の現在―生きること考えること』という本書の続編にあたるものや、現代思想にかかわるキーワードを簡潔に説明してみせた『術語集―気になることば』といったもの(後年さらなる続編も出る)など、気むずかしい大御所らしからぬ本が次々と世に出て行ったのであった。

その後も『共通感覚論』を読んだことで、今でも流行っている五感の復権論が依って立つところの底の浅さを見透かすことができるし、『魔女ランダ考―演劇的知とはなにか』を読み、「演劇的知」について中村氏が発想された原点たるバリ島の舞踊にも興味を持ち、バリ島の舞踊団来日公演を見に行った記憶もある。
(さらにその後も著者は岩波書店を中心に著作を量産していった。)
哲学書なんて頭が痛くなりそうと先入観を持っている人は多いのだろうが、私にとっては中村氏の著作と出会ったことで、「哲学はオモロい」との印象を持つようになったのであった。

夏だ!読書だ!なぜだか中公新書編(^^; その1

Filed under: 読書 — 咲本 @ 00:53:08

夏休みの時期らしく?読書コーナー(^^;

中公新書って昔からお世話になってきているが、改めてふりかえってみると名著というべきものを実に多く出してきていると思う。

新書の中では、岩波新書は出版界では王様というか、テレビでいうNHKみたいな存在なので、このテレビ局に出演できない有名人がたくさん存在するか のごとく、書き手の中にも岩波からお声がかからない優秀な人達がたくさんいるわけで、現在のように多くの出版社から新書が発行されるようになるはるかに前 から、必ずしも岩波からお声がかかるわけでもない書き手を含めてずっと発行を続けてきたわけなのだ。
(中公新書で認められた上で、のちに岩波新書でも発行された著者も多い)
そんな中公新書の中から私が名著だと思ったものに限って、しかも10年以上前に発行されたもので現在もなお発売されているものだけからピックアップしてみたい。

ただし私の手もとには一冊もなく、記憶をたどって書いていくため、いくつか誤解や勘違いをしている可能性がある。
それと、私にはワケがあって、90年代は98年くらいまで全くといってよいほど読書をしなかった。
その間テレビも観ず新聞も読まず、流行ったであろう音楽も全く聴かなかった。
といった、ちょっとした浦島太郎状態ともいえる時期があるので、結果的に下記に登場する本のほとんどが90年以前のものであるかと思う。
今回ふりかえってみて気づいたのは、良書がたくさんあったのに、品切れまたは絶版となってしまっているケースの多さ。
いったんは経営破綻した出版社なので無理に在庫は抱え込みたくない気持ちはわかるが、新刊書の発行点数が倍増していくことにともなって、出版後の本の寿命が短くなっていく傾向が強まったことは残念でならない。

下記が今後何回かに分けて紹介する予定の本一覧。(順不同)

川喜田二郎『発想法―創造性開発のために』

川喜田二郎『発想法 (続)』

中村雄二郎『哲学入門―生き方の確実な基礎』

江上波夫『騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ』

上山春平『照葉樹林文化―日本文化の深層』

高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上)』

高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (下)』

河合隼雄『無意識の構造』

阿部謹也『刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活』

三木成夫『胎児の世界―人類の生命記憶』

祖父江孝男『文化人類学入門』

綾部恒雄『文化人類学15の理論』

清水博『生命を捉えなおす―生きている状態とは何か』

清水博『生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理』

榊原清則『企業ドメインの戦略論―構想の大きな会社とは』

本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』

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