チェリビダッケのオーケストラリハーサルの翻訳を許光俊という方がされていて、そこで氏のことに興味を持っていたところ、本書に出会い、早速読んでみた。
許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』
とはいえ、私はクラシック音楽をよく聴くけれど、この手のクラシック音楽を紹介する類の本は読まないことにしてきた。
音楽理論に詳しいわけでもなんでもない素人であるにもかかわらず。
好き嫌いが極端であるにせよ、それでも私はクラシック音楽をたっぷりと堪能することはできるからである。
(もちろん、知識は多いほうがよいとは思ってはきたが。)
だいたい、名画を鑑賞するのに「ここが見どころですよ!」なんてガイドブックにのっとって鑑賞したところで、魂が揺さぶられたり、なんともいえない宙吊り状態に思考が落とし込まれたりといった体験を味わうことができるのだろうか?
一般的な評価はさておいて、私にとってそれがホンマ物であれば、そんな知識に関係なく感動することがあるのではなかろうかと考えてきた。
実際、ブラームスやシベリウス、ショスタコーヴィチなどの交響曲は、作曲家の生涯や楽典の知識が全くなくても10代の頃から大好きだし、最近ではすっかりブルックナーにハマっている。
それなのに、クラシック音楽紹介本を手に取ってみることになるなんて、私としたことが!と何の期待もせず読み始めると、これがまたとんでもなくオモロい!
副題となっている「お気軽極楽入門書」というのは、著者独特の毒をこめた表現であることがすぐにわかってくる。
いわゆる一般的なクラシックの入門書だと思った人はみな面食らうことになる過激な本である。
著者もいきなり冒頭から本書が猛毒をもっていることを宣言している。
「ショパンってロマンチックで素敵!ああいうきれいな曲をいっぱい教えて!」
「心が清められるような音楽と出会いたい!」
「雄大な音楽の感動に打ちのめされたい!」
なんて思っている方なら、もうここで本を閉じてしまったほうがいいかもしれない。私はあえてそういう人たちの夢を壊したいとは思わない。そういう人たちは、もっと別の、ふつうの本を買ったほうがいいーー甘い嘘、耳あたりのいい詐欺師の言葉でいっぱいの本を。そして、マスコミで話題になるコンサートやCDを追い求めるがいいーー表面的な華やかさばかりで空虚な音楽を。
私も「心が洗われる」みたいなクラシックの評価をする人達が大嫌いで、そもそもそんなことをクラシック音楽に求めたこともなく、ガイドブックの類も読む気にならないので、こう言いたい著者の気持ちはよ〜くわかる。
でも、最初からここまで言ってしまって本の売れ行きは大丈夫なんだろうかとついつい心配してしまう。
本の奥付を見ると、1996年発行で2005年に第7刷。
一応地味に売れ続けているということは、入門書のように見せてはいても、結構マニアが読んでいるのかもしれない。
そして、大物演奏家の否定、クラシックの滅亡が語られていくのだ。
今、いわゆる一流演奏家、有名演奏家が聴かせてくれる音楽は、クラシック音楽ではない。それどころか、彼らはクラシック音楽が何かということすら知らないかもしれないのだ。
と、私がダメだと書いたことのある国内の某大柄指揮者や某韓国系苗字指揮者、テレビ出演も多い某ヴァイオリニストなんていうのを指しているのかなあと思いつつも、ブログ上でちょっと書くというのではなく、よくぞ本でここまで書けるなあと著者の勇気に驚かされる。
このような感じで音楽評論家も実名を挙げて評価がなされている。
そしてクラシックがすでに滅亡しつつあることが語られる。
クラシック入門書の体裁をしつつも、いきなり滅亡が語られるとは!
変てこりんなクラシック音楽好きの私としては、妙に興味が出てくるとともに、これは決して書名のように「お気軽」な本ではないとの確信を深めていく。
じゃあ、私が言う滅亡に瀕しているクラシックとはどういうものか。それはこの本を読み進めばだんだんと明らかになるが、確実なのは、滅びようとしているもの、あるいは滅びてしまったのは、クラシック音楽だけではないということ。クラシック音楽だけが理由もなく滅びてしまったわけではないのだ。クラシックが滅びるということは、それを支えていた環境や感性や考え方が滅びるということに等しい。
つまりは著者は詳しく書いてはいないが、本書はクラシック音楽が崩壊しつつあることを書いていきながら、近代文学や近代芸術、それを支えていた近代思想や近代社会が崩壊しつつあり、それは必然であることをふまえてクラシック音楽を語っているのである。
これは今まで一部の鋭い文芸批評や映画批評の世界では見かけることがあったにしても、クラシック音楽では見かけることのなかった切り口だ。
そこを著者はクラシック音楽のマニアを対象とするのではなく、これから聴こうという人向けに本を書いている。
これまた興味深い取り組みである。
クラシック音楽の聴き方の基本を説明するのに使われるのは、たった3曲。
チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、モーツアルト「ピアノ・ソナタ第15番」、ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付」。
それを聴く前提として実践してほしいと求められることは、本格的推理小説を読むことと、サラダを作って食べること。
たったこれだけのことで、交響曲に象徴的にみられるようなクラシック音楽の肝心要なポイントを説明してしまう。
実はこの基本中の基本と著者が位置づけている中に、すでに一部の天才を除くほとんどのクラシック演奏家を斬って捨ててしまうだけのことを忍び込ませているのだ。
本の最後には「実用情報」として、著者がすごいと思う作曲家、指揮者、演奏家、オーケストラ、評論家が紹介されていたり、 コンサートに行くための初歩的疑問点に答えたりもしていて、ここは表向き入門書らしい体裁を取っている。
が、著者の最も言いたいことは入門書らしからぬ「実践編2」の中で書かれたブルックナーについて述べられた中にある。
著者もブルックナーを入門書として取り上げるのは、一般的にはふさわしくないということはわかっていて、それでもなお、本書の結論的なことをどうしても言いたくて取り上げているのだ。
しかしなぜここでチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルがベストの事例となるのか、私には痛いほどよくわかるが、実際にCDを聴いてみても必ずしも理解できるとは限らないと思う。
その結論だと思われることは、
いままで述べてきた十九世紀クラシック音楽の特徴を、極限まで推し進め、(私たちが納得するかどうかは別問題として)ベートーヴェンがめざした方向で究極の結論にまで達した作曲家は、ワーグナーとブルックナーしかいないからだ。ワーグナーの主要作はオペラであり、登場人物やストーリーが存在する。が、ブルックナーの交響曲のなかには、『第九』みたいに合唱が介入してきたりはしない。彼はオーケストラだけを用いて、独自のミステリアスな曲を書き、最終的な結論を導き出したのである。
クラシック音楽がずっとテーマとしてきたことの極限としてのブルックナー。
次の記述は、ここまでの著者の話を読んでこないと理解しにくいが、本書の最重要なところとなるので、参考までに引用しておく。
クラシック音楽の歴史は、たぶんブルックナーで終わっている。少なくとも、ソナタ形式とか、交響曲とか、ハッピーエンドという、二元論と弁証法と終末論を基本にするクラシックは、ブルックナーで終わっている。チャイコフスキーとかマーラーがやったことがそうしたクラシックの解体であり、ハッピーエンドの不可能性の証明であるとするなら、ブルックナーはクラシックを完成させた人なのだ。
つまり、宗教としてのクラシックの完成と終焉。
続いて、
クラシックとは、キリスト教の地位が下落し、王様たちが消えていく十九世紀にあって、それらの代わりをつとめた一種の宗教なのである。十九世紀ヨーロッパにおいては、それまでみたいに、『聖書』を読んだり、祈ったりすることで神とか世界とか真理とかを理解するのではなく、芸術家たちが苦しみもがきながら、真実に達しようとしていたのだ。それは音楽、文学、美術を問わない。芸術家たちは、あたかも荒れ野や山奥で修行する隠者のように、さまざまな苦労を重ねながら、作品を作るということで真実に達しようとしていたのだ。そのために、彼らは俗世間の価値観とか習慣と戦わねばならなかったのだ。
という近代芸術全般に共通した問題が指摘され、
そんな宗教としてのクラシック、礼拝としてのコンサート。これをどんどん推し進め、究極の段階に達したのがブルックナーなのだ。
とブルックナー交響曲が位置づけされるのである。
そして、著者が冒頭からクラシックが滅亡しつつあると指摘した理由が、この段階になって明らかとなってくる。
つまり、憧れなき時代、希望なき時代(これはイコール絶望の時代ということではない)、理想なき時代、すなわち宗教を必要としない時代なのだ。ハッピーエンドという終末も調和も待望できない時代なのだ。ならば、宗教であるクラシックは、早晩滅んでいくしかないのだ。娯楽としては、生き残るかもしれない。だが、ブルックナーの音楽が娯楽として演奏され聴かれるとき、それはもはやブルックナーではないし、クラシックですらない。
だから、
結局のところ、楽譜が存在しようと、オーケストラが存在しようと、音楽大学が毎年大勢の卒業生を出そうと、そんなことはクラシック音楽とは関係がない。クラシック音楽の本質は、ただ作曲家と、演奏家と、聴き手の心のなかにだけ存在している。そして、彼らの死とともに消滅していく。
のだ。
著者は、クラシック音楽を聴くにあたって、著者が一流だと思うごくわずかの演奏家のものをライブで聴くことを強く推奨している。
私は幸運なことに10代の頃から世界の一流指揮者・オーケストラの演奏会をたびたび聴きに行ったことがあるので、会場でのサウンドを体験してしまうと、いくら同じ演奏家のものをハイレベルな録音技術で収録したCDを高級オーディオ機器で聴いたとしても、天と地ほどの違いがあることを身をもってわかっている。
だからファンでもあるチェリビダッケの演奏にしても、既に死去しているがゆえに生演奏で聴くことができないので、昔、生演奏で聴いた体験を思い出しながら、仕方なくCDで聴いているというのが現実。
生演奏にしても、地元、京都市交響楽団の演奏会に時々行くが、これも演奏レベルに妥協して聴いているのが現実。
懲りずに9月6日にもレスピーギ三部作を聴きには行くが、あくまでも地元贔屓で行く程度のもの(^^;
まあ、楽団員に京都市の税金を使って給料が支払われているので、損しない程度に聴いておこうという感じかな。
ホントだったら、納税者である京都市民に限れば、現状のようなレベルの演奏レベルしか聴かせることができないのであれば、S席500円くらいでも安すぎることはないと思う。
いや、いくら音楽史に残る巨匠とはいえ大昔のフルトヴェングラー指揮のモノラル録音を聴くくらいなら、生で京響を聴いたほうがマシなので、CD1枚が1,500円くらいだとすると、京響が今の料金を取ることもアリか。
京響のみなさん、いや〜、失礼失礼(→許光俊的な毒舌がうつってしまいそうになる)
少し脱線してしまったが、私がこのブログで賞賛を惜しまないチェリビダッケについて、著者もなぜほどこれまでに高い評価をするのか、私の書き方では伝わりにくかった点についても、本書を読めば、なるほどと認識してもらえるかもしれない。
私の紹介の仕方から、本書がちょっとお堅い本であるのでは?と思われるかもしれないが、難しい表現は一切登場せず、たいへん読みやすい。
例えば、ベートーヴェンの本質を理解しやすくするように、第九の終楽章の歌の部分を、現代的に超意訳して(「あーい、ダチ公よ、こんな音楽じゃないぞ!もっときもちいいヤツを歌おうぜ、もっとハッピーなやつをさ!」といった翻訳)掲載してみたりもしている。
この本はとりわけクラシックファンではないが、企業について社会について、なんていうことをあれこれ考えてしまう方全てに対してオススメできる。
私自身も許光俊氏のほかの著書にも手を出していこうと思わせるに十分なものであった。