2006/08/31 木曜日

京都寺町「八百卯」の完熟プラムジュースを飲みながら思いめぐらす

Filed under: マーケティング, 食べる・呑む — 咲本 @ 23:35:12

午前中から高台寺のまほうやさんと寺町二条の清課堂さんにご訪問。

用事が終わるとお昼になっていたので、まほうやさんとすぐそばの「八百卯」のパーラーでフルーツサンドを食べた。
私がこのお店に来たのは20年ぶりくらいかな。

フルーツサンドは高級メロンをはじめとして有無をいわせぬ果物ばかりが使われていて、改めてどうこう言うまでもなくウマい。
これがたった600円なのには驚く。
飲み物は完熟プラムのジュースをいただいた。
完熟プラムは今の一時期しか楽しめないらしく、店主さんオススメの品。
渋味もほとんど感じず、さっぱり甘くてとてもおいしい。
作り方は絞って作るらしいのだが、企業秘密らしい。
こんなにおいしいプラムは初体験。
そこで長年このお店に通われているまほうやさんの顔で、プラムの実もいただくことにした。
う〜む。
なぜこれがプラムなのか信じられないおいしさ!

店主さんからイロイロお話をお伺いしていると、お店の果物は一般的な卸売市場ルートばかりから仕入れるのではなく、 果物によっては直接農家から仕入れたり、市場であっても仕入れる農園が決まっていたり、輸入物でも限られた特殊ルートであったりと多岐にわたり、気候の影響が仕入れにまともに響くので、ご苦労が絶えないとのこと。

昔は日曜も無休であったそうだが、今はシャッターを下ろされている。
それもこれも月曜日の仕入れを手配するために営業できなくなってしまったからとのこと。

例えば取り扱われているメロンは宮内庁御用達の農園のものなので、ほとんどの果物屋さんが入手できないらしく、転売しようとすればできるランクのものらしい。

また、商品がデリケートなものであるから、配送業者による商品の取り扱われ方相当敏感になっていらっしゃる。
トラックの荷台で運んでくるなんてもってのほか。
助手席に置いて丁寧に運んでくるのが基本(^^;

ちなみに八百卯のフルーツパーラーは、梶井基次郎『檸檬』の主人公がレモンを買ったのがこのお店1階の果物屋さんで、そちらの2階にある。
1階で果物を買うと高級品ばかりなのでそれなりの金額がかかってしまうが、同じ果物なのに2階のパーラーだとその日の店主さんオススメのフルーツが気軽に楽しめる。

八百卯は創業120年とのことで、おそらく創業時には華族をはじめとした一部の上流階級向けのショップであったのだろうが、この商品へのこだわりは、売上第一主義に安易に走らず、現在に至るまでそのスピリットを引き継いできていらっしゃるということなのだろう。

普段行く機会のない老舗のフルーツショップに来たものだから、今度東京に行った際(ひょっとすると来週早々?)には、まだ一度も行ったことのない「万惣」に立ち寄ってみたくなってきた。

この万惣という果物屋さんも創業160年にもなる老舗。
こちらの果物屋さんにもフルーツパーラーがあり、しかも池波正太郎がこちらのホットケーキを愛してやまなかったという小説家ゆかりのお店という共通点がある。

まあそれはどうでもよいことで、万惣の興味深い点は、東京オリンピック開催の高度経済成長時、果物のニーズが劇的に高まり、今まで取引されていた多くの高級ホテルや料亭から、果物の値段と果物の大きさを見るだけの安易な形での注文が殺到した当時、こられの取引を一切やめてしまわれ、売場面積を縮小されたお店でしか売らないと決断されたのだ。

ずっと品種改良・開発のために産地の農家にまで行かれるほどのおいしい果物を追求され続けてきたその品質を維持しようとすると、その品質を満たせるだけの果物は、縮小した売場で販売するだけのものしか入手できなかったからである。

ここで私は考えてしまう。
八百卯や万惣がされてきたことは、量の拡大ではなく質の拡大であることは理解できるのだが、私自身が経営者の立場だった場合に、売上を劇的に伸ばして飛躍できる千載一遇のビジネスチャンスのようにも見えなくもない時に、「いや、我々は量ではなく質を求めるのだ」と意志決定して、売上を伸ばすどころか、既存のおとくいさんとの取引をお断りしてまで「質」を追求していけるのだろうかということ。

数年のうちに売上を2倍・3倍と拡大していけるチャンスが目の前にあって、それでも「量」ではなく「質」的拡大のほうが優先されると果たして決断できるのだろうか?

確かに極上のおいしい果物をお客さまに提供することで、お客さまに感動を提供することができるのだろうが、このような意志決定は、口先で言うほど実際には簡単なものではなく、しかもこの点が「ブランド」を研ぎ澄ましていくのには、とても重要なポイントに思えるのだ。

てなことで、東京へ行った際に時間が確保できれば、万惣のパーラーで名物のホットケーキと共にフルーツを堪能してみたいと思っている(^^;

介護対応タクシー

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 02:02:17

すごい!介護対応のタクシー。
乗降時に頭が当たらないように天井部分がもち上がる。

介護タクシー

社内スペースも広く、健常者でもゆったりとした気分で、ちょっとリッチな貸切京都観光が楽しめそう。

2006/08/30 水曜日

指揮者=トップマネジメント論の細部

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 06:29:07

別サイトで、なまじコラムなんぞ書いてみると、チェリビダッケのことについてもう少し詳しく知りたくなり、1冊読んでみた。

クラウス・ヴァイラー『評伝 チェリビダッケ』 クラウス・ヴァイラー『評伝 チェリビダッケ』

決して学術的なものではなく、かなりチェリ贔屓な立場から書かれているものではあるが、チェリのベルリン時代から面識のある著者が、数え切れないほど演奏会で聴いてきた経験だけでなく、多くの新聞評、インタビュー記事なども参照しながら書き上げたものだ。

読んでみての感想は、ここでは書かない。

私が気になっていたのは、ドラッカーの語るトップマネジメントについて、オーケストラと指揮者がモデルにされているのは、本当に有効な考え方なんだろうかということ。

ドラッカーが語るのであれば、実際にマエストロ・チェリビダッケを持ち出して、トップマネジメントを語ってみようと思い、コラムを書いたわけだった。→「知識社会のトップマネジメント

コラムを書く際のベースとなったのは、ライブ演奏のCDとリハーサルの一部を収録したCD、それと1980年に行った来日コンサートの記憶だけという、乏しい情報から書いたのであった。
書いてから、私のチェリについての認識が、とんでもない誤解ばかりしているのではないかと少し不安になってきたので、本書を読んでみたのである。

結論的には私のチェリについての認識は、大きくはズレてはいなかったように思う。
だから、ドラッカーの指摘に間違いさえなければ、私のコラムも多少は参考になるかもしれない。

しかし、私が取り上げた指揮者の事例がチェリビダッケであったということが大きな問題!!

チェリとCDを量産している人気指揮者の多くとでは、実際の演奏・音楽に対する考え方・楽団員との接し方などあらゆる点で水と油ほどの違いがあるのだ!!

それを批評家の許光俊氏に言わせれば、チェリビダッケ以外のほとんどの有名指揮者の演奏は「クラシック音楽ではない。それどころか、彼らはクラシック音楽が何かということすら知らないかもしれないの」であり、「そのほとんどは、失礼ながらクズである。」

「クズ」とは全く違うチェリの演奏体験にふれるのがどういうことなのかについて、本書の翻訳者のあとがきにおける発言を拝借すれば、

ひとたび彼の音楽を知ってしまった者は、音楽の聴き方を、世界の見かたを、ひいては自分自身を、変革せずにはいられないのだ。むろんそうして得られる認識は、世の中の体勢の意見と真っ向から対立してしまうものである。今ではふつう、CDをもとに音楽を論じて誰もいっこうに不思議とは思わない。それらの飼い慣らされて牙を抜かれた商品はわれわれに自己変革を要求したりなどしないから、安心してバックグランド・ミュージックとして楽しめるわけだし、なにより現代メディア社会は、そうした快適なお楽しみのレパートリーを加速度的に増加させて、日々消費者を密室での愉悦へと誘ってくれるのだ。(中略)

しかしチェリビダッケは、芸術に秘められた根源的な魅力はCD等メディアにはとうてい取りこみつくせないのだとの、考えてみれば当然の認識に、あくまで固執する。つまり音楽は、所定の規格にあわせて録音されたとたんに、その最も大切な核心部分が失われてしまい、いかようにも加工・複製・反復できる物理的な音、つまりは音楽の死骸の集合体しか残らないというのである。(中略)
人々は音楽の一回的な経験よりも、レコードやCDを「所有」することにより大きな喜びを見出し(フェティシズムの典型的な徴候である)、そこで標本化された死骸を基準に生体を語り始めてしまった。
これに対してチェリビダッケは、この危機から芸術を救い出す唯一の道を、メディアに背を向けるという後ろ向きの選択のなかにかろうじて見出したのだった。(中略)

チェリビダッケの洗礼を受けた耳が彼以外の演奏を聴くと、それらがおしなべて楽譜をただなぞっただけの、棒読みの音のアバウトな集合体にしか聞こえなくなってしまうのは、単にチェリビダッケの個性的演奏に郷愁を覚えるからだけではなく、むしろチェリビダッケ体験を通じて、音楽をつかさどる基本的な原理への洞察がそれら演奏に欠けていることを感じとるようになってしまうからではないかと思われるのである。

というふうに私もなってしまったわけなのであり、チェリのようにやっていくには、社会の多数派とは大いに異なる姿勢を貫いていくことにならざるをえない。
そういう意味において「異端」的な指揮者なチェリが、果たしてトップマネジメントの参考になるのだろうかという疑問を持ってしまわざるをえない。

ひょっとして、他の多くの指揮者のように、いくら複製芸術時代に無批判的に染まりきっていようとも、その姿勢が消費社会の要請に応えているのであれば、そちらのほうが余程トップマネジメントの参考になるということなのだろうか?

この両者における演奏の違いは次のように対比できる。

確かに音楽とは、その自律的に聞こえる個々の音の響きによってだけでも、人を酔わせ、うっとりさせ、悲しませる力をもっている。だから音におぼれ、音の魔力に屈して音楽をそっちのけにした「熱演」を演じてしまってもそれなりにサマになるのであって、どんな音楽会やレコードにも感動する聴衆はいるものである。しかしチェリビダッケは、そうした本質からはずれた地点でのあらぬ感激や涙や絶叫をあくまで排し、音楽の本質的な姿を現せようとする。たとえばカラヤンやマーゼルの指揮が、思いついた箇所をしたたかにうたわせたり誇示したり感きわまったりして人の心をくすぐり酔わせるという意味での美しさに満ちているとしたら、チェリビダッケの音楽は反対に、夾雑物が徹底的に排除されて曲の本質的な構造が浮き彫りになった地点で音楽そのものが自然に立ちあがっていく様子に美しさがあると言えるだろう。

ということだ。
若干表現が上品に説明されているがゆえにわかりにくければ、許氏に従って、

カラヤンの表現はいつでも全開で直接的だ。そして、部分部分の効果が強い印象を残すが、じゃあ全体として何を提示してくるのか、というと、何もない。もしくは陳腐。すぐれた芸術家が必ず持っている異常な繊細さと知性が彼の音楽からは聞こえてこない。何より、曲がどう書かれているかという構造に対する配慮が希薄すぎる。

とでも言うべきか。

複製芸術時代にはカラヤンのような指揮者のほうが、ずっとお金も儲かるやり方でもある(^^;
複製技術に研究熱心で、マニア的にレコーディングにこだわるカラヤンは、その甲斐もあってCDも量産している上、よく売れてもいる。
では、チェリではなくカラヤンのような指揮者のほうが、いまどきのトップマネジメントとして大いに参考となるのだろうか?

ところがコラムで書いたように、楽譜が企業における理念やビジョンのようだとすると、チェリがその本質や構造を浮き彫りにしていくのに対して、カラヤンは部分のインパクトを追求して気をひこうとするだけ。
これなら前者チェリのやり方を指示してしまわざるをえないのではなかろうか。

それともトップマネジメントは、本質には関係のないうわっつらの小手先によって、理念やビジョンを大いに実践しているように見せかけることに大いに力を注げということになるのか?

なぜこれほどまでに指揮者のタイプにこだわるかというと、たとえばチェリビダッケとカラヤンとでは、人間性、練習方法、曲の構築の仕方、音楽論、音楽教育論、メディア論、あらゆることが違いすぎるのである。
どちらかが参考になれば、他の一方は否定しなければならないという絶対的な違いがあるのだ。
そもそもドラッカーの発言があまりにも大雑把であるがために、私なりにもう少し突っ込んだところにまでこだわってみた結果、このような状態になってしまう。

ドラッカーのオーケストラモデルを成立させるためには、本人が考えてもいなかったであろう地点について、一歩突っ込んで検討していかないと、なんともいえないというのが現状である。

2006/08/28 月曜日

起業家フォーラム2006

Filed under: お知らせ — 咲本 @ 23:46:45

かなりオススメのイベントをご紹介いたします。

起業家フォーラム2006
〜夢の実現へ・・・起業をめざすあなた〜
ビジネスプランをお持ちの方、起業を夢見ておられる方はふるってご参加ください。
1 日 時  平成18年9月30日(土) 13:30〜16:00

2 会 場  京都リサーチパーク1号館4階 サイエンスホール

3 定 員  100名(定員になり次第締め切らせていただきます)

4 参加料  無料
↑というイベントが開催されます。

要注目なのが、ご講演には坂口さん@京都商工会議所 中小企業経営相談センター所長がご登場!

地元京都で本格的ご講演が聴けるのは今回が初めてかもしれません。

ドリコムのようなネット系上場企業が、まだどうやってメシを喰っていけばよいのかあやしかった頃や、多くの学生創業者達、事業ドメインの変更を伴うような経営革新企業など幅広いスタートアップのご支援に尽力されてきた方です。

そのめざましい支援実績が評価され、今年6月には日本新事業支援機関協議会第3回JANBO Awards最優秀支援者賞を受賞されています。

無料ということでもありますので、地元京都の方々は是非一度お聴きになってはいかがでしょうか?

「起業家フォーラム2006」プログラム詳細・参加申込方法

2006/08/27 日曜日

「近代」とクラシックの滅亡ーー許光俊氏のクラシック音楽入門書

Filed under: 読書, (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 22:28:25

チェリビダッケのオーケストラリハーサルの翻訳を許光俊という方がされていて、そこで氏のことに興味を持っていたところ、本書に出会い、早速読んでみた。

許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』 許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』

とはいえ、私はクラシック音楽をよく聴くけれど、この手のクラシック音楽を紹介する類の本は読まないことにしてきた。
音楽理論に詳しいわけでもなんでもない素人であるにもかかわらず。
好き嫌いが極端であるにせよ、それでも私はクラシック音楽をたっぷりと堪能することはできるからである。
(もちろん、知識は多いほうがよいとは思ってはきたが。)
だいたい、名画を鑑賞するのに「ここが見どころですよ!」なんてガイドブックにのっとって鑑賞したところで、魂が揺さぶられたり、なんともいえない宙吊り状態に思考が落とし込まれたりといった体験を味わうことができるのだろうか?
一般的な評価はさておいて、私にとってそれがホンマ物であれば、そんな知識に関係なく感動することがあるのではなかろうかと考えてきた。

実際、ブラームスやシベリウス、ショスタコーヴィチなどの交響曲は、作曲家の生涯や楽典の知識が全くなくても10代の頃から大好きだし、最近ではすっかりブルックナーにハマっている。

それなのに、クラシック音楽紹介本を手に取ってみることになるなんて、私としたことが!と何の期待もせず読み始めると、これがまたとんでもなくオモロい!

副題となっている「お気軽極楽入門書」というのは、著者独特の毒をこめた表現であることがすぐにわかってくる。
いわゆる一般的なクラシックの入門書だと思った人はみな面食らうことになる過激な本である。

著者もいきなり冒頭から本書が猛毒をもっていることを宣言している。

「ショパンってロマンチックで素敵!ああいうきれいな曲をいっぱい教えて!」
「心が清められるような音楽と出会いたい!」
「雄大な音楽の感動に打ちのめされたい!」
なんて思っている方なら、もうここで本を閉じてしまったほうがいいかもしれない。私はあえてそういう人たちの夢を壊したいとは思わない。そういう人たちは、もっと別の、ふつうの本を買ったほうがいいーー甘い嘘、耳あたりのいい詐欺師の言葉でいっぱいの本を。そして、マスコミで話題になるコンサートやCDを追い求めるがいいーー表面的な華やかさばかりで空虚な音楽を。

私も「心が洗われる」みたいなクラシックの評価をする人達が大嫌いで、そもそもそんなことをクラシック音楽に求めたこともなく、ガイドブックの類も読む気にならないので、こう言いたい著者の気持ちはよ〜くわかる。
でも、最初からここまで言ってしまって本の売れ行きは大丈夫なんだろうかとついつい心配してしまう。
本の奥付を見ると、1996年発行で2005年に第7刷。
一応地味に売れ続けているということは、入門書のように見せてはいても、結構マニアが読んでいるのかもしれない。
そして、大物演奏家の否定、クラシックの滅亡が語られていくのだ。

今、いわゆる一流演奏家、有名演奏家が聴かせてくれる音楽は、クラシック音楽ではない。それどころか、彼らはクラシック音楽が何かということすら知らないかもしれないのだ。

と、私がダメだと書いたことのある国内の某大柄指揮者や某韓国系苗字指揮者、テレビ出演も多い某ヴァイオリニストなんていうのを指しているのかなあと思いつつも、ブログ上でちょっと書くというのではなく、よくぞ本でここまで書けるなあと著者の勇気に驚かされる。
このような感じで音楽評論家も実名を挙げて評価がなされている。

そしてクラシックがすでに滅亡しつつあることが語られる。
クラシック入門書の体裁をしつつも、いきなり滅亡が語られるとは!
変てこりんなクラシック音楽好きの私としては、妙に興味が出てくるとともに、これは決して書名のように「お気軽」な本ではないとの確信を深めていく。

じゃあ、私が言う滅亡に瀕しているクラシックとはどういうものか。それはこの本を読み進めばだんだんと明らかになるが、確実なのは、滅びようとしているもの、あるいは滅びてしまったのは、クラシック音楽だけではないということ。クラシック音楽だけが理由もなく滅びてしまったわけではないのだ。クラシックが滅びるということは、それを支えていた環境や感性や考え方が滅びるということに等しい。

つまりは著者は詳しく書いてはいないが、本書はクラシック音楽が崩壊しつつあることを書いていきながら、近代文学や近代芸術、それを支えていた近代思想や近代社会が崩壊しつつあり、それは必然であることをふまえてクラシック音楽を語っているのである。

これは今まで一部の鋭い文芸批評や映画批評の世界では見かけることがあったにしても、クラシック音楽では見かけることのなかった切り口だ。
そこを著者はクラシック音楽のマニアを対象とするのではなく、これから聴こうという人向けに本を書いている。
これまた興味深い取り組みである。

クラシック音楽の聴き方の基本を説明するのに使われるのは、たった3曲。
チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、モーツアルト「ピアノ・ソナタ第15番」、ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付」。
それを聴く前提として実践してほしいと求められることは、本格的推理小説を読むことと、サラダを作って食べること。

たったこれだけのことで、交響曲に象徴的にみられるようなクラシック音楽の肝心要なポイントを説明してしまう。

実はこの基本中の基本と著者が位置づけている中に、すでに一部の天才を除くほとんどのクラシック演奏家を斬って捨ててしまうだけのことを忍び込ませているのだ。

本の最後には「実用情報」として、著者がすごいと思う作曲家、指揮者、演奏家、オーケストラ、評論家が紹介されていたり、 コンサートに行くための初歩的疑問点に答えたりもしていて、ここは表向き入門書らしい体裁を取っている。

が、著者の最も言いたいことは入門書らしからぬ「実践編2」の中で書かれたブルックナーについて述べられた中にある。
著者もブルックナーを入門書として取り上げるのは、一般的にはふさわしくないということはわかっていて、それでもなお、本書の結論的なことをどうしても言いたくて取り上げているのだ。
しかしなぜここでチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルがベストの事例となるのか、私には痛いほどよくわかるが、実際にCDを聴いてみても必ずしも理解できるとは限らないと思う。

その結論だと思われることは、

いままで述べてきた十九世紀クラシック音楽の特徴を、極限まで推し進め、(私たちが納得するかどうかは別問題として)ベートーヴェンがめざした方向で究極の結論にまで達した作曲家は、ワーグナーとブルックナーしかいないからだ。ワーグナーの主要作はオペラであり、登場人物やストーリーが存在する。が、ブルックナーの交響曲のなかには、『第九』みたいに合唱が介入してきたりはしない。彼はオーケストラだけを用いて、独自のミステリアスな曲を書き、最終的な結論を導き出したのである。

クラシック音楽がずっとテーマとしてきたことの極限としてのブルックナー。
次の記述は、ここまでの著者の話を読んでこないと理解しにくいが、本書の最重要なところとなるので、参考までに引用しておく。

クラシック音楽の歴史は、たぶんブルックナーで終わっている。少なくとも、ソナタ形式とか、交響曲とか、ハッピーエンドという、二元論と弁証法と終末論を基本にするクラシックは、ブルックナーで終わっている。チャイコフスキーとかマーラーがやったことがそうしたクラシックの解体であり、ハッピーエンドの不可能性の証明であるとするなら、ブルックナーはクラシックを完成させた人なのだ。
つまり、宗教としてのクラシックの完成と終焉。

続いて、

クラシックとは、キリスト教の地位が下落し、王様たちが消えていく十九世紀にあって、それらの代わりをつとめた一種の宗教なのである。十九世紀ヨーロッパにおいては、それまでみたいに、『聖書』を読んだり、祈ったりすることで神とか世界とか真理とかを理解するのではなく、芸術家たちが苦しみもがきながら、真実に達しようとしていたのだ。それは音楽、文学、美術を問わない。芸術家たちは、あたかも荒れ野や山奥で修行する隠者のように、さまざまな苦労を重ねながら、作品を作るということで真実に達しようとしていたのだ。そのために、彼らは俗世間の価値観とか習慣と戦わねばならなかったのだ。

という近代芸術全般に共通した問題が指摘され、

そんな宗教としてのクラシック、礼拝としてのコンサート。これをどんどん推し進め、究極の段階に達したのがブルックナーなのだ。

とブルックナー交響曲が位置づけされるのである。

そして、著者が冒頭からクラシックが滅亡しつつあると指摘した理由が、この段階になって明らかとなってくる。

つまり、憧れなき時代、希望なき時代(これはイコール絶望の時代ということではない)、理想なき時代、すなわち宗教を必要としない時代なのだ。ハッピーエンドという終末も調和も待望できない時代なのだ。ならば、宗教であるクラシックは、早晩滅んでいくしかないのだ。娯楽としては、生き残るかもしれない。だが、ブルックナーの音楽が娯楽として演奏され聴かれるとき、それはもはやブルックナーではないし、クラシックですらない。

だから、

結局のところ、楽譜が存在しようと、オーケストラが存在しようと、音楽大学が毎年大勢の卒業生を出そうと、そんなことはクラシック音楽とは関係がない。クラシック音楽の本質は、ただ作曲家と、演奏家と、聴き手の心のなかにだけ存在している。そして、彼らの死とともに消滅していく。

のだ。

著者は、クラシック音楽を聴くにあたって、著者が一流だと思うごくわずかの演奏家のものをライブで聴くことを強く推奨している。

私は幸運なことに10代の頃から世界の一流指揮者・オーケストラの演奏会をたびたび聴きに行ったことがあるので、会場でのサウンドを体験してしまうと、いくら同じ演奏家のものをハイレベルな録音技術で収録したCDを高級オーディオ機器で聴いたとしても、天と地ほどの違いがあることを身をもってわかっている。

だからファンでもあるチェリビダッケの演奏にしても、既に死去しているがゆえに生演奏で聴くことができないので、昔、生演奏で聴いた体験を思い出しながら、仕方なくCDで聴いているというのが現実。

生演奏にしても、地元、京都市交響楽団の演奏会に時々行くが、これも演奏レベルに妥協して聴いているのが現実。
懲りずに9月6日にもレスピーギ三部作を聴きには行くが、あくまでも地元贔屓で行く程度のもの(^^;
まあ、楽団員に京都市の税金を使って給料が支払われているので、損しない程度に聴いておこうという感じかな。
ホントだったら、納税者である京都市民に限れば、現状のようなレベルの演奏レベルしか聴かせることができないのであれば、S席500円くらいでも安すぎることはないと思う。

いや、いくら音楽史に残る巨匠とはいえ大昔のフルトヴェングラー指揮のモノラル録音を聴くくらいなら、生で京響を聴いたほうがマシなので、CD1枚が1,500円くらいだとすると、京響が今の料金を取ることもアリか。
京響のみなさん、いや〜、失礼失礼(→許光俊的な毒舌がうつってしまいそうになる)
少し脱線してしまったが、私がこのブログで賞賛を惜しまないチェリビダッケについて、著者もなぜほどこれまでに高い評価をするのか、私の書き方では伝わりにくかった点についても、本書を読めば、なるほどと認識してもらえるかもしれない。

私の紹介の仕方から、本書がちょっとお堅い本であるのでは?と思われるかもしれないが、難しい表現は一切登場せず、たいへん読みやすい。
例えば、ベートーヴェンの本質を理解しやすくするように、第九の終楽章の歌の部分を、現代的に超意訳して(「あーい、ダチ公よ、こんな音楽じゃないぞ!もっときもちいいヤツを歌おうぜ、もっとハッピーなやつをさ!」といった翻訳)掲載してみたりもしている。

この本はとりわけクラシックファンではないが、企業について社会について、なんていうことをあれこれ考えてしまう方全てに対してオススメできる。

私自身も許光俊氏のほかの著書にも手を出していこうと思わせるに十分なものであった。

2006/08/26 土曜日

Amazing Grace

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 17:30:44

本日の癒されたい方向けオススメのアルバム(^^;

ベスト・オブ・シセル ベスト・オブ・シセル

彼女こそ真の「歌姫」と呼ぶにふさわしいと思うシセルのベスト盤。
映画「タイタニック」のサントラ盤は主題歌以外はシセルが全曲歌ったのであって、実は私はシセルの歌声が大好きなのであった♪
北欧の自然を連想させるクリスタルボイスの持ち主、クラシック出身ながらもオペラ調とは違った声質、すっと心に浸みわたる感じ。
iTMSにはないアルバムだが(そしてAmazonが最安値だと思う)、収録曲は名曲“Amazing Grace”や“Here, There and Everywhere”、その他映画「バグダッド・カフェ」に使われた“Calling you”やテレビドラマのテーマで使われた“Summer Snow”、おまけにラップ調の曲など幅広いジャンルにわたって楽しめる。

実はAkkoさんの開発した「バンダナ帽 」から本田美奈子を連想し、本田美奈子といえばAmazing Graceをさらに連想し、
一方では、小堀専務さん制作の感動的映像「お仏壇ハッピーエンド物語」でもAmazing Graceと小堀さんとの関係が語られ、最後に静かに流れるのであった。

こんな偶然もあり、Amazing Graceを探していると、なんとシセルが歌っているではないか!
う〜む、今まで気づかなかったぁ・・・

コラム第2弾アップ!:トップマネジメントについて

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 03:53:28

先日書いたコラムに引き続き、今さきほど新たなコラムをアップ。

たまたま、ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』をパラパラとめくっていたら、オーケストラモデルを使いながらトップマネジメントについて書かれていたのに目が留まり、ドラッカー説を補足する?ようなコラムを書いてみた。

http://www.crafting.jp/blog/managing_in_the_next_society/

全くの余談になるが、1927年、まだ無名の弱冠18歳であった青年ドラッカーの才能を早くも見いだしていた存在が、後に経済人類学者となるカール・ポランニーである。
以後、ドラッカーと20歳以上も年上のポランニーとの交際は続き、ポランニーが英国亡命後、米国に渡った際に大学の研究職と書籍執筆のための奨学金を手配したのがドラッカーだった。
ドラッカーがこのようなお膳立てをしたことによって、ポランニーの名著『大転換』が生まれたわけなのであった。
このあたりのドラッカーとポランニー家との交流はドラッカー わが軌跡にしるされている。

てなことで、どの著書でも必ずといってよいほど社会哲学について語っているドラッカーと、ポランニーの社会哲学というのは、似たようなところがあり、これについてもそのうちコラムで書いてみたいなあと思う。

2006/08/24 木曜日

久しぶりにコラムを書いた

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 21:46:16

かなり久しぶりにコラムを書いた。

最近クラシック音楽CDのことを書くことが多く、それらは、ものの見事に超不人気ページ(笑)
まあ、個人的な日記でもあるわけだし、そんなことはおかまいなしにこれからも時々書くと思うが。

そんな傾向を逆手にとって、爆弾発言のある場合には、クラシック音楽のことを書いた時に、最後のほうにコソッと書いておくことにしようかな(笑)

なにはともあれ、久しぶりに書いたコラムはクラシック音楽ネタ(笑)
といっても、戦略マネジメントの話ではある。

http://www.crafting.jp/blog/celibidache_crafting/

2006/08/23 水曜日

ブログで公開されているインターンシップ3日目の光景

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 22:26:15

某会社で(といってもどちらの会社かバレバレだが)インターン生受け入れが始まって3日目の光景。
写真は学生さんが社内の方々に業務における不明な点ついて質問をされているところ。

こちらの会社でのインターンシップの模様は、学生さん達が毎日の奮闘ぶりをブログで公開していっているので、どなたでも知ることができるようになっている。

それにしても、私の学生時代とは全く違い、しっかりされた学生さん達ばかりなのには正直なところ驚いている。

ただ、企業さん側もそんな学生さんに対して、それなりにやり甲斐のあるというか、多少しんどい思いをしないとやり切ることができないというか、絶妙なさじ加減の課題設定をされていて、今後の進展具合がたいへん興味深い。

インターンシップ1

インターンシップ2

2006/08/22 火曜日

チェリビダッケのブルックナー9番に刺激されてのビジネスコラム?

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 14:09:13

一昨日のチェリビダッケによるブルックナー9番を聴いたことによる衝撃がいい刺激となり、最近サボったままとなっているコラムを書き始めた。

が、ちょっとだけ書き出したところで、仕事のこともあり時間オーバーとなってしまったので、明日以降に持ち越して書き上げることにしよう。

昨日はショルティ&シカゴ響のブルックナー交響曲10枚組全集とアバド&ウィーン・フィルのブルックナー4番がHMVから届いた。

Georg Solti,Chicago Symphony Orchestra / Anton Bruckner: The Symphonies Georg Solti,Chicago Symphony Orchestra / AnHMV Japan - Homepageton Bruckner: The Symphonies

私はブルックナーについては30代後半になって突然ハマりだしたのであるが、それまではずっとブルックナー休止などによる特徴に違和感を感じてしまい、どうしても好きになれなかった。
そんなブルックナーから感じてしまいがちな違和感も、ショルティの演奏であればあまり感じることもなく聴ける。
この演奏を早く聴いていれば、10代の頃からハマり出していたかもしれない。
スピード感のあるストレートな解釈をもって、ガンガンとパワーで押してくる。
しかもそのパワフルさが自然。
いわゆる一般的なブルックナー演奏とは大きくかけはなれたものになってはいるが、私は高く評価したい。

クラウディオ・アバド,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 / ブルックナー:交響曲第4番 クラウディオ・アバド,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 / ブルックナー:交響曲第4番

アバドのブルックナーにはさほどの期待はしていなかったのだが、アバドの指揮は4番の持つ曲の特徴と相性がよさそうに思った。
予想に反してかなり練られた完成度の高いものに仕上がっている。
秋のルツェルン祝祭管とのサントリーホールでの来日公演でアバド指揮の4番を聴きにいくので、今から楽しみ。

そのほかに注文している最中なのが、ブルックナーでいえばカラヤンとスクロヴァチェフスキの全集と、単品ではアバド、ヴァント、ヨッフム、ジュリーニ、シノーポリ、クレンペラー、アーノンクール。
マーラーでは、シノーポリとショルティの全集と、単品ではムント&京響。
ブラームスではバルリローリとジュリーニの全集、ラフマニノフではヤンソンスの全集。

ちょっと交響曲好きらしいCD手配の仕方になってきたのかな?

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