2006/07/09 日曜日

某企業さんサマーミーティングに出席

Filed under: 食べる・呑む, イベント — 咲本 @ 22:21:48

昨日は某企業さんのサマーミーティングに参加させていただいた。
全社員が集まって夏と冬の年2回開催されているもので、ありがたいことに今回で三度目の出席。

日中にはここ3ヶ月にわたって取り組まれてきたプロジェクトの成果発表やセミナーなどもあり、写真は夕方から場所を木屋町四条に移っての懇親会。
三共精機パーティ

新卒内定決定の学生さん達も参加、多数の豪華プレゼント抽選会といった企画も盛り込まれ、熱気がすごかった。

それほど大きな業界内変化があるわけでもないのに、ここ2年でスタッフ数も2割ほど増やされ、組織改革も激しく進行中であるためなのか、みなさん陽の空気を発していらっしゃっていて、同席していて気持ちがいい。

終了後は社内の某2名の方と先斗町のBarへ。

会社役員の方とお話する機会というのは仕事柄多いが、こういうふうに社員の方とお話するというのは、私にとってはたいへん貴重な機会でもある。
ひとつの会社を役員目線と社員目線との両方を知ることができるからだ。

なるほどと思うお話がたくさん聴けた。

あと、ノンアルコールの私にはうってつけの辛口ジンジャエールがおいしかった(笑)

キャンドル

写真はBarのテーブル席中央におかれていたキャンドル。
いかにも京都風できれいだった。
ちなみにボトル棚は障子開きとなっている。

2006/07/08 土曜日

フラット化する世界

Filed under: 読書 — 咲本 @ 06:40:52

遅ればせながら、「フラット化する世界」を読み始める。

トーマス・フリードマン『フラット化する世界(上) トーマス・フリードマン『フラット化する世界(上)』

トーマス・フリードマン『フラット化する世界(下)』 トーマス・フリードマン『フラット化する世界(下)』

まだ上巻をサクッと読んだ程度なので何ともいえないが、個人的にはWEB2.0という狭い枠組よりも、世界の経済や生き方全体にまつわる大きな変化について考えを巡らしていく、こういった本が好きだ。
というか、WEB2.0系の人気を呼ぶ書籍群も、単なる技術論を述べていたわけではないはず。
しかしまたこの著者もフラット化する大きな波のことをグローバリゼーション3.0なんて表現を使っているところが、いかにも売れっ子ジャーナリストというところか。

某○○gleの方が、この本はとても重要って紹介していたのを見かけたことがある。
第二章「世界をフラット化した十の力」の9つ目で、Googleが取り上げられているからだ。(もちろんそれだけが理由というわけでもないのだろうが)
すなわち、「グーグルは情報を平均化するーー階級や教育で分け隔てしない。」(p.264)

グローバル化というと「うちのビジネスは超ローカルなビジネスだからあまり関係ありまへん」という人が必ずいることだろう。
しかしながら、著者のいうグローバリぜーション3.0がローカルなビジネスにも大きな影響を与えるとすれば?
会社勤めの人がある時突然上司から「君の業務は明日から中国大連の会社にアウトソーシングするから、もう仕事はないよ」と言われたとしたら?
難関大学に無事入学できたので家庭教師のバイトを探したところ「中国の学生とのオンライン家庭教師が人気なので今のところ求人はないよ」と言われたら?
これは近未来的な事柄というより、とりわけ米国ではインドへのアウトソーシングとして当たり前のように起こっていることである。
日本でも中国へのアウトソーシング事業は大前研一氏なども活発に行っている。

本書はとりわけ、グローバルに活動していない私のような人間ほどチェックしておく必要があるように思う。

著者のいう激しいフラット化の波に、個人でも企業でも対応するためには、第3章「三重の集束」をふまえた戦略が求められる。

平たくいえば、国内でやっていくにしても、世界中を見渡した中で明らかに実力がある人が求められ、そのような実力がない人は発展途上国の優秀な人達以下の経済的評価をされてもやむを得ないということでもある。
第二外国語として日本語を学び、その語学が達者で、ビジネスもよくできる人材がたくさんいて、日本と比べて破格でアウトソーシングできるとすれば、そうなって当然というだけのこと。

あるいは、米国で起こっていることでいえば、各種コールセンターや電話セールス、ドライブスルー受付、建築設計図面起こし、会計業務、MRI・CTスキャン画像診断など、かなり高度な業務に至るまですでにインドへのアウトソーシングがすすんでおり、日本の場合も中国へのアウトソーシングがあらゆる分野において活発化することは間違いのないところ。

と、こんなことを指摘し出すと、余計に拒否反応を示す人達がいる。
単純にこんなこと「だけ」であるなら、私だって疑問に思う。

本書はもちろん次のようにグローバリゼーション万歳との単純な主張をするものではない。

しかし、一部の批判勢力の話を聞くと、無神経な資本主義、グローバルなブランド、ファーストフード、消費志向をひろめて、それまで栄えていた居心地のいい温かな地域のコミュニティや産業、文化を押しのけてしまうことのみが、グローバリゼーションであるかのいい方をしている。グローバリゼーションの力が、あちこちで頻繁にそうしたことをやっているのは確かだ。しかし、資本主義や市場主義、自由貿易を押しひろげることだけが、グローバリゼーションなのではない。グローバリゼーションは純然たる経済現象ではないし、経済のみに影響をあたえるのではない。もっと幅広く、深く、複雑な現象であり、新しい形のコミュニケーションやイノベーションがそこに含まれている。仕事、知識、エンターテインメントを共有するさまざまな形のグローバルなプラットフォームを生み出すことが、世界のフラット化なのである。グローバリゼーションの破壊的な効果を心配するのは筋が通っているし、たいへん重要でもあるが、個人に能力を授け、また、われわれの豊かな文化をもっと豊かにする能力があることに目を向けなかったら、人間の自由と多様性にプラスの効果があるのを見落としてしまう。世界のフラット化がかならず文化を豊かにし、保存するなどというつもりはない。ただ、文化を破壊するとは限らない、といいたいのだ。(中略)グローバリゼーションは権限や能力をあたえるとともに奪う。均質化するとともに個別化する。民主化するとともに、独裁制のあらゆる性状を内在している。グローバル市場についても、インターネットやグーグルについても、同じことが当てはまる。(下巻p.325-326)

なぜ上巻しか読んでないと言いながら、下巻の引用が出てくるねんということは言わないように(笑)

2006/07/07 金曜日

バルシャイ指揮ショスタコーヴィチ交響曲全集聴き始め

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 00:46:08

ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団によるショスタコーヴィチ交響曲全集が届き、早速聴き始める。

バルシャイ指揮ショスタコーヴィチ交響曲全集

WDR Sinfonieorchester, Rudolf Barshai/Shostakovich: Symphonies





ショスタコの第1番から第15番までが収録されていて3,000円台という破格につられ、ついでに購入してしまったのだった(笑)

あまり時間もないのでひとまず「レニングラード」を聴いてみる。
弦がたいへん美しい。
ケルン放送響なので純ヨーロッパ風かと思っていたら、管楽器群がロシア的というか少し野性的な感じ。
ただ野性味あふれる激しさがあるわけでもなく、弦が頑張っているとはいえ徹底した美しさを求めた演奏とも言い切れず、悪くはないのだけれど、何かもうひとつ足りないとの感を抱いてしまう演奏。

まあでも交響曲が15曲もあり、チクルスとして発売になっているアルバムには、必ず「当たり」が混じっていてもおかしくはない。

ということでもう1曲、まだ曲自体聴いたことがなかった交響曲第8番を試しに聴いてみたら、これが大当たり!
「レニングラード」と同じく第二次大戦真っ只中に作曲されたこの曲は、前者に見られる戦争シーンを連想させるような派手な凱旋風の箇所や敵に攻められているような箇所もなく、総じてわかりやすいメロディが多く存在する、いかにも第5番「革命」を作曲したショスタコってな感じとも全く違う。
戦争中の心の内面を見つめたような感じの曲で、深みと緊迫感が常にただよっている。
いや〜、なんともしびれる曲!

またレニングラードがいまいちだったのに対して、8番についてはバルシャイは冴えわたっている。
さすがショスタコの友人であっただけに、この曲が当時凱旋歌的な勝利を感じさせる要素がないがゆえなのかもしれないが公演禁止になったことなど、その経緯やショスタコの心境などを深く理解しているだろうことも関係しているのかもしれない。
弦の高音域もこの上なく美しい。

予想だにしなかった名曲に出会えてとても嬉しい。

さて当初のお目当てだった下記ジュリーニのモーツアルト交響曲第40番&マーラー交響曲「大地の歌」。


Wiener Philharmoniker, Carlo Maria Giulini/Mozart: Symphonie KV 550; Mahler: Das Lied von der Erde Wiener Philharmoniker, Carlo Maria Giulini/Mozart: Symphonie KV 550; Mahler: Das Lied von der Erde



こちらのアルバムは、おまけで収録されている程度に思っていたモーツアルトが思いの外よい。
モーツアルトの曲には快があるかもしれないが感動はない、というのが私の偏見であたが、ことジュリーニには該当しなかった。
さすがに「カンタービレ」の巨匠ともいえるだけの指揮者のことはある。
一般的な演奏と比べれば、テンポはとても遅いがその遅さを全く感じさせず、メロディから「もののあはれ」的美しさを引き出している。

マーラーの「大地の歌」のほうは初めて聴いたのであったが、やはり全編にわたってテノールとアルトによる歌が入ってオペラ的であるがゆえに、ちょっと私にはおもしろくなかった。
好きな人は多いんだろうけど、歌曲とオペラははっきりいって苦手。
HMVジャパン

2006/07/06 木曜日

大学院で電子商取引論の講義

Filed under: 講演・講義 — 咲本 @ 03:31:25

電子商取引論つまりはネットショップについての講義を行った。

どういうことが基本となるのかは間違いなくあるのだが、はっきりいって売れているショップが基本に忠実かというとそうでもないケースが結構多い。
逆に基本にはたいへん忠実なんだけど、いまいち売れていないショップも多い。

基本とはどういうことかが知りたければ、ことサイト構築部分だけに関していえば下記書籍を読めばよいだけのこと。
アホでもわかるような明快さで書かれている。
平山泰朗『必携!ネットショップ構築標準ガイド―本当に売れているお店が押さえている58のポイント』 平山泰朗『必携!ネットショップ構築標準ガイド―本当に売れているお店が押さえている58のポイント』

それ以外にも絶対にはずしたくない基本だけで、項目的には山のようにある。

1回の講義だけでポイントを言い尽くそうと思っても全く無理なので、興味ある人には本をご紹介して勝手に読んでおいてもらうしかない。

成功しているネットの商売人サイトを見ていただき、いかに基本に沿わないことばかりしながら売れているのか、その商売人としてのやり口を垣間見ていただいた上で、あとは自力でよく調べてもらった上で、ご自身で感じるところを見つけて行ってもらうしかない。

また、見つけていってもきりがなく、個々のケースによってポイントが変わってくる。

ある程度の重要なポイントを指摘した上で、あとは商売人のセンスを磨いてもらうしかないのだ。

学校の性質上、自分自身の得意なWEBデザイン上のテクニックなどに凝りたい人がいるのかもしれず、それは本末転倒でっせと釘をさしておくとか、口頭ではいわないけれど、私がなぜこんな事例を出してきたのかという含みを何となくでもいいから感じ取っていただければいいなとか、そういうことを散りばめておく。

その上で個々の自発性・自主性によって「気づき」があったりなかったりするわけだ。

「気づき」のない人:自分から感じ取ろう・気づいていこうという意志が希薄で、箇条書き的なものを暗記したら済むと思っている。結局、現場では暗記物的知識にとどまっていると何も役に立たない。

「気づき」のある人: 積極的に自分から感じ取ろう・気づきを得ようとする姿勢があるので、私がふと出した事例から「なぜこのタイミングでこの事例を出したのか?」や、「以前出た話と矛盾する点があるが、どちらが正しいのか、それとも状況によって変わってくるのか?状況ってどんな状況?」なんていう疑問がドンドン発生し、そういった問題意識をもって物事にふれていくので、おのずとたくさんの「気づき」がある。
結果的に私が話したこと以上のことを学んでいくことになる。
あっ、それにしても「気づき」がたくさん発生するための構えとして自発性・自主性を発揮させるとは、まさに昨日まで書いていた「自問」の精神だなあ(笑)

講義時間に限りがあるので、毎回何冊もの書籍をご紹介しているわけだけど、学生さん達はどれくらい読んでいるんだろうか?
全く読んできていない方は、知識が薄っぺらすぎて、現場では使いづらいはず。

当初から学生さん達の自発性・自主性を信じて任せているので、全く私の関知するところではないが。

2006/07/05 水曜日

自問の実践に分析ツールは相容れない

Filed under: 雑記, 経営戦略 — 咲本 @ 03:39:48

京都市中小企業支援センター主催のIT経営革新セミナーに仏壇の小堀さんのご講演をお聴きしに行った。
http://blog.livedoor.jp/susumukobori/archives/50464732.html
会場となった池坊学園のホールは定員150名ぎっしり参加だった。
小堀さんの戦略的商品となる小さな音でも遠くまで鮮明に聞こえるご寺院向けスピーカーをあらかじめ設営された上でのご講演というのは前例のないパターンであり、まず驚かされた。
中味はビデオあり音楽ありのマルチメディアなご講演スタイルによって、事業におかれて「感動」を媒介としたお客さまとのコミュニケーションを目指された姿をお伝えされるのには、十分成功なさっていたのではないかと思う。

たいへんありがたくも一昨日ブログで取り上げた『子どもが輝く魔法の掃除ー「自問清掃」のヒミツ』 の著者である平田治さんからコメント書き込みをいただいた。
http://blog.tokeidai.net/reading/jimonseisou/

単なるひらめきなのかもしれないが、平田さんのご指導なさっている生徒さん達が小堀さんの工房見学をなさったら、とてもおもしろいことになりそうな気がしてきた。
ちなみに小堀さんの工房は生徒さん達の見学をたくさんお引き受けになっている。

なぜなら、小堀さんがお客さまに感動をもってお伝していきたいという姿は、スタッフの方々による「自問」の姿なしではありえないだろうから。
大人と子ども、立場もスタイルも違う両者がお会いになり、それぞれに新たな発見が生まれるようなことをイメージすると、なんだかワクワクしてくる。

さて、自問することの意味を平田さんは次のように書かれている。

今こそ、「自問」の心が求められています。
「自問」、それは「自ら問う」こと。
自主性・自発性・問題発見力のことです。物事を前のほうへと進める「心のアクセル」です。
「自問」、それは「自らを問う」こと。
自省心・自制力・自律性のことです。自分をコントロールする「心のブレーキ」です。
「自問」、それは「自らに問う」こと。
自分の心のものさしで、物事を判断できる力のことです。自分が自分を正しく操縦できる「心のハンドル」「心のナビゲーション・システム」です。
「自問」、それは、自己の生き方を問うこと。
自問教育は、二十一世紀の人間教育です。
ところが、日本の精神風土は、根源を問わずに、先例に従うことをよしとするところに成立してきました。学校教育も例外ではないでしょう。波風を立てないことこそが、よしとされてきました。
(中略)
私たち日本人が、根源を問うことを避け、先例に従うことをよしとしてきたとすれば、教育における「問う」力の育成は急務です。(p.248-249)

小堀さんのビジネスは230年の歴史がありながらも、伝統のよいところはかたくなに堅持されつつ、数々の先例をひっくり返し続けられている。
まさに経営における自問をされているわけだ。
個人に自問が必要なように、経営にも自問は欠かせないもの。

個人が自問していくのに要素還元主義の代表選手たるSWOT分析や4Pといったフレームワークでは真の解決に役立たないのと同様、かねてから私が主張しているように、経営を自問していくのにもフレームワークはふさわしくない。
なぜ経営コンサルタントがすぐ使おうとするフレームワークがダメかというと、その最大の理由に「心」「精神」が欠如してしまっているということがある。

どうしてもフレームワークを使いたければ、結論が出たあとの理由を説明するためだけに使えばいいこと。

最近はツールありきのコンサル屋の言い回しも少々巧妙になって、「あくまでもツールだ」と申し添えておいた上で、実はツール万歳と言いいたいがごとくツールに明け暮れることになる。

中には「心や精神? はい、精神分析や心理分析のツールを使って、改善ポイントを明らかにします。
あっ、あくまでもツールありきということではありませんので、あくまでもご参考までということですが」てな具合。

心や精神の領域をビジネス用語の中に見つけ出そうとすると、「モチベーション」「コミットメント」「リーダーシップ 」などなどたくさん存在するが、こういったこともインスタントに解決できるとしたいのか、
「はい、この分析テストをやってみましょう。あなたは、こういったタイプの性格で、ビジネスにおいてはこういった傾向があり、ここが問題点です。さあ、あなたにふさわしいこのツールを使って問題点を改善しましょう。」といった感じか(笑)

「占星術という分析ツールのように、ひょっとして参考になるかもしれない」ということと、本質・根源を求める実践とは全く別もの。
各種ツール提供屋さんの話を参考にすることによって、根源を求めることは「根源的に」期待できないので要注意。

っと、この深夜真っただ中から、大学院で話す電子商取引論講義の準備だ〜!
気合いを入れて作業。押忍!

2006/07/03 月曜日

ファジル・サイのバッハ(+おまけの教訓追加修正)

Filed under: 雑記, (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 22:49:08

ピアノ曲なんてほとんど聴かずそれほど好きでもないのに、グレングールドとファジル・サイだけは別格。
ファジル・サイの5枚目購入アルバムがAmazonから届いたので聴いてみた。

シャコンヌ!~サイ・プレイズ・バッハ シャコンヌ!~サイ・プレイズ・バッハ

過去にイロイロ感想を書いているので↓詳しくは省略するとして、今回もスピード感あふれるスリリングなバッハを堪能させていただいた。

http://blog.tokeidai.net/classical_music/fazil_say_3albums/
http://blog.tokeidai.net/classical_music/clasical4/

[本日の教訓]ビジネスにおいて近寄ってきて知恵を万引きだけしていく人には「泥棒」と言って、その行動を気づかせてあげよう(^^;
でも決して軽蔑はしてはならない。
きっと、私自身がそんな人間にならないようにと、よい見本を示してくださった大切な方なのだから。
しかも、指摘していることは、相手の中の自分に言っているのだ。
「私」というものを「一個人のエゴ」の範囲内にとどめて考えると、こんなことを言うのは明らかに損であって、普通ならいわゆる処世術に従って行動していくことがよい振る舞いとされている。
しかし「私」という概念を拡大していくと、まわりのもの、まわりの人間も全てが「私」ということになってくるのである。
究極的には世界の人口は1人ということになる。(高度に哲学的なのでわかりにくいかもしれないが。)
その拡張された私の中にある一部分に向かって言っているのだ。
つまりは相手に指摘しているようであって、実は自分自身に対して言っているわけなのだ。
私のそういう部分を直さなければという思いを抱いて話しているが、相手にはそんなことは全くわからない。
相手は何のことだかわからずポカーンとする場合も多い。
またある時にはバレてしまったがゆえに、今まで自分自身でも気がついていなかった本性を露わにしてくることもある。
はたまた開き直られることもある。万引き犯が捕まった際のテレビ映像でお馴染みの「カネさえ払えばいいのでしょ。カネくらいいくらでも払うがな。」と。
いずれにせよ、ご本人は指摘されてわかったつもりにはなるわけだが、本当のところはすぐには何もわかってはいない。
で、どうされるかというと、このお店の店主はうるさいので今後はあまり出入りしないようにして、見て見ぬふりをしてくれたり大目に見てくれたりしそうな他の店に移って、そこで万引きを続けようとされる。
ちなみに指摘された際に謝罪される場合が多いわけではあるが、心の底では「うるさいヤツやなあ」とか「腹立つなあ、むかつく」と、長期間にわたって私が恨まれ続けることになる。
表面上はそうとはわからないように。
すぐには私が指摘した意味はわからずとも、私のほうからすれば確かに「種を撒いた」わけなので、そのうちまたは場合によれば数十年、場合によれば生まれ変わった後になってわかる時期がくる。
その間、心の底で私はずっと恨まれ続けることになる。
こんな損しかしそうにないことは、普通は誰も行わない。
その理由は損するから!
最も明確なのは、例えば経済的なことでいえば相手からの私の仕事が減る、またはなくなるであろうということ。
そんなことは枝や葉のことであって、本当につらいのは、恨まれ続ける私がその怨念によって地獄行きとなること。
恨み続けてしまうご本人も当然地獄行き。
なかなか気づくのが難しければ、共に地獄行きとなって、そこで苦しみ抜いて初めて気づいてもらおうという行いは修行の世界。
どんな人生哲学をもってしても語られない世界。
大体、指摘する側の私のほうが、先に悪行に気づいた分、悪知恵を持っている悪党だから気づくわけであって、その分、罪は重い。
少なくとも相手が地獄から脱出できるところにまでなって、私がようやく救われることとなる。
修行に損得や苦楽という基準で判断する要素は含まれはしない。
この修行を徹底的に実践する姿を「下種」という。感謝。
HMVジャパン

自問清掃

Filed under: 読書 — 咲本 @ 02:32:42

感動のあまり涙で目を腫らしながらでないと最後まで読めなかった。

「自問清掃」に取り組んだ生徒達がどんどん変わっていく。

例えば、中学のバレーボール部が

この人たちは、他の学校へ練習試合に出かけた際も、試合後は最後まで残って、その学校の体育館を隅々まで清掃していました。そんな学校のチームは、他にはありませんでした。たいていの学校は、負ければすぐ帰ってしまうか、最後までいても、挨拶だけして帰ってしまっていたようでした。
それに対して、この中学生たちは、顧問の先生が何の指示も与えていないのに、いかにも自然な感じで、掃除をやりはじめたというのです。試合に負けて悔し涙を流した後に、そういう行為ができる清々しさを思います。

ということが起こってくるのだ。

子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ 平田治『子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ』

ドロドロのビジネスの現場で常に清いココロを保ちつつやっていくには、本書での教師側の立場であれ生徒側であれ、私にはまだまだ修行が足りない。
一生自問の旅だ。
いくら勉強して知識を獲得しようともお金持ちになろうとも絶対に幸せにはなれない。

自問清掃の見習うべき最高の姿はおそらく須梨槃特なんだと思った。

須梨槃特 - 通信用語の基礎知識

読み:しゅりはんどく
品詞:人名
2005/04/06 作成
2005/04/06 更新

釈迦の弟子の一人。周梨槃特、修利槃特などとも書く。

兄はすこぶる聡明であったが、弟の須梨槃特は釈迦の弟子の中で最も物忘れが激しく健忘第一と言われる愚かさで、自分の名前すら覚えられない程の愚か者であった。分かりやすく言えば知的障碍者だったのである。

須梨槃特は兄と共に釈迦に弟子入りするが、大変に物覚えの悪い須梨槃特は一偈も覚えられぬまま時は流れた。須梨槃特は自分のあまりの愚かさに気付き 釈迦に破門を願い出たが、釈迦は「自らの愚かさに気付いたのだから、お前はもう愚か者ではない」と述べ、釈迦は須梨槃特に箒とちり取りを与えて「須梨槃特 よ、お前はこれで毎日掃除をしなさい。但しその時には『塵を払え 垢を除け』と唱えるのです」と述べ、修行を与えた。

須梨槃特はそれから毎日欠かさず掃除を続け、一心にその言葉を唱え続けた。そしてある時、釈迦の述べたその言葉の意味に気付く。釈迦が言う、真に払い除くべきものは、実は自分の心の中の塵であり垢なのだと。そして遂に阿羅漢果(あらかんか、悟り)を得たのである。

こうして、智慧もなく悟りもなかった鈍根第一の須梨槃特でも、ただ一心に妙法蓮華経を信受する一念の信があれば、仏になることができるとされている。

2006/07/02 日曜日

深く反省

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 07:02:00

昨日のイベントでのパネルディスカッションでは、ブログのエントリーで挙げていたようなテーマについては出ていなかったようだが、終了後にスピーカーと話そうとする学生も多く見受けられ、結構エエ感じやった。

この主催機関の方々にはネットビジネス塾のお仕事などをいただいたりしていて、本当にお世話になっている。

だから先日の所長さん受賞パーティのようなものも、気持ちとして一番に発起人となってご協力させていただいたし、単にお仕事をいただいたことに感謝だけするのではなく、いただいたご恩以上に報いようとの気持ちは常に持っているつもり。

ただ、このままだったら年間取引額が、せいぜいのところ一般的職員さんの月給にも満たない額で、様々なことに助言・ご協力し続けるということになろうとしている。

それではあまりにもまずいので、今後はいただいたお仕事に対して十二分の働きをさせていただくこととして、報酬の発生しない仕事絡みのことについては自重させていただこうと思う。

報酬ももらっていないのに、ご相談らしきものをいただく度ごとに、それがどういうことを意味するのかも考えずに助言をしすぎてしまっていて、本人はよかれと思ってご協力してきたつもりなのに、よくよく考え直してみると、これはこの機関の方々にとって、ものすごく失礼で迷惑なことだと遅ればせながら気がついた。

本当に申し訳ないことを今までしてきた。

報酬をいただかないというのは、ある意味好き勝手に発言できるので無責任でもある。
ひょっとすると、報酬をもらっている人をバカにしていることになっている可能性すらある。

深く深く反省、以後自重するとの決意の上でこれからの活動に臨んでいくことにする。

2006/07/01 土曜日

「個」を見つめるダイアローグ

Filed under: 読書 — 咲本 @ 09:02:22

本日はこのあと、私自身はオッサンなのに「京都・学生アントレプレナー大賞オープニングイベント」を聴きにいくことになっている。

ちょうど、30分くらいで読んでしまえた村上龍と伊藤穣一の対談本にもかかわる問題なんかがパネルディスカッションのお題に取り上げられると嬉しいのだが、どうなるのだろうか見物である。

「個」を見つめるダイアローグ 「個」を見つめるダイアローグ



例えば、

伊藤 今までは、きちんと言われたことをやっていればお金がもらえた時代だったけれど、これからは言われたことをきちんとやっても、手にするお金がだんだんと減っていくようになる。リスクをとらないことが一番ラクだったのに、それではやっていけない時代になってきた。リスク覚悟でベンチャーをやる若い人たちもいるにはいるけど、これから高齢化がもっと進んでいけば、リスクをとってまでベンチャーをやる人も少なくなっていくんじゃないかなあ。(p.56-57)
村上 結局、無難な道が最善の策になるんだよね。いくら規制が緩和されても、リスクを負うことにはみんな腰が引ける。若い人たちの就職先の選び方を見ても、相変わらず大企業志向は強い。なぜかといえば、大企業や公務員になった人が一番有利な世の中だからね。経済システムにしても社会全体のシステムにしても、みんなツギハギでソフトランディングさせてきたから、どうしても、そういう無難な思考になる。見方を変えれば、これからの若い人は、すごく大変だと思う。無難な思考が通用しない世の中に、否が応でも直面せざるをえないんだから。(p.63)

という時代認識が明確となり、そこを理解してもらうことができるのかどうか。
私自身はここの点では、大多数の学生が2人の対談者の認識と大きくズレたままであると考える。
アントレプレナーを養成する講座開催の趣旨としては、

伊藤 自立心がないと生きていけない時代なのに、その危機感が子どもたちには伝わらない。
村上 そうなんだよ。たとえば、日本の学校には修学旅行というのがあるでしょう。相変わらず、先生が決めたコースを団体でまわる、むかしながらのスタイルなんだよね。あんな形はやめて、行き先を決めるのもホテルを予約するのも、ぜんぶ自分たちでやらせればいい。そして、帰ってきてからレポートを書かせる。小さな旅行会社がたくさん潰れるだろうけど、それだけで自立性が養われると思うんだけど。(中略)
伊藤 今の日本の状況が問題だと大人の声はけっこう聞こえてくるんだけど、それを子どもたちにも肌で感じられるように、きちんと伝えきれているか。僕にはどうも、中途半端な気がしてならない。やっぱり日本って、まだまだぬるま湯なのかなぁ。(p.60-61)

といったことをふまえて、自立心があるのかどうかという突っ込みや、この企画自体がお膳立てをしすぎる講座では意味がないという点を理解してもらえることができるのかどうか。
そもそもこの企画がお膳立てをしすぎていないかどうかも含めて。

できれば人事系コンサルのような仕事をしている人もパネリストに登場するのだから、

伊藤 じつは、アメリカの会社には総務と人事がないんだ。
村上 あ、そう。アウトソーシングしているの?
伊藤 いや、その部署ごとでやっているから。日本のように組織の真ん中にドンと居座って、会社全体を仕切っているような形じゃない。「ヒューマンリソース」というセクションがあって、人材に絡む問題への対処をしたり、何かプロセスを作る役割の人たちはいるけれど、人事権はない。考えてみると、組織の真ん中に人事権をもっている部署があるというのは、けっこう不思議。人事権はもっていたとしても、そこにいる人たちが責任をとるわけじゃないんだから。
今のような情報社会では、判断基準となる情報がたくさんゆきかっているわけだから、それぞれの立場の人が、さまざまな時点で自らの判断で動くほうがフレキシブルに対応できる。従来の秩序や価値観が壊れてきているとなれば、なおさらだよね。時には戸惑ったり、立ち止まって考えなきゃいけない場面がますます多くなってくる。(p.66-67)

このような企業内部が大きく変化していく予兆があり、自ら判断していき責任も取ることができる人同士がフレキシブルにチームを離合集散していくような形態にあって、なおかつ誰もからプロフェッショナルであると一目おかれる存在として仕事をしていくことができるのかどうか、就職したとしてもそのような意味でのスキルは企業から教えてもらえることがないということ、そういった一部でも話題にのぼれば興味深い展開になるかもしれないのだがなあ。。。
この企画の趣旨を基調講演とパネルディスカッションの内容に任せきってしまうのは、それこそリスクをともなうことになる。
そこのところのイベント全体としての打ち合わせのほうは大丈夫なんだろうか?
今ごろになって他人事ながら妙に心配になってくるのであった。

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