2006/06/10 土曜日

セレブ+ブレインな話

Filed under: イベント — 咲本 @ 06:46:35

昨日は京都・ビジネスモデル推進センターの「ビジネスモデル交流会」に参加。

イベントは人事系の支援会社セレブレインの社長の講演で始まった。

こちらの会社、会長が元・オラクル取締役人事本部長時代に上場の際に役員一同持っていた株を売却して、この方だけで50億儲けたらしいというお金持ちなので「セレブ(お金)」担当、プラス社長がブレイン担当
ということでセレブ+ブレイン=セレブレインが社名の由来なのかなあと思ったんだけど、違ったのかなあ?
ブレインと名乗ってられるわりに、この社長さんは終始教科書に載っていそうな無難なお話をされていたのはなぜだったのだろうか?

講演に使うパワポのデータを持ってくるのを忘れてしまわれ、焦ってられたからかな?(^^;

私自身も以前、講演する場でセミナー担当者に送っていたはずのデータがないと言われ、その上、ネットが繋がらない環境でインターネット・ビジネス関連のことをテーマとしてネット初心者の方に話さないといけないという経験をしたことがある。

最初、パワポに取り込んでいたブラウザのキャプチャ画像を見てもらわずにしゃべりようがないやん!と思ってしまったが、待ったなしで話さざるをえない。

結局、何も見てもらうものもなく、しゃべりだけでなんとかしたのであったが、私にとってはたいへんよい経験となったものだ。

見てもらわないと理解してもらいようのないことを、何も見せずに初心者に伝わるように話すというのはどれだけ難しいことか。
まあ今回の講演テーマは何も見せなくても比較的しゃべりやすそうなものだったけど。

とはいえ、講演終了後の質問タイムでは質問の手が数秒間挙がらなかっただけで、「私からもみなさんに質問したいことがある」と言われ、参加者のうち2人に名指しで講演の感想を求められ、結局のところ、参加者から発生しそうな鋭いツッコミが出る余地を与えられないまま終了された。
当然その後の懇親会に出席されるのだろうと思っていたら、何の挨拶もなく速攻で会場をあとにされていた。

もうちょっとゆったりとした構えと裏話のようなものも披露しないと、パワポに100%頼ることを前提にしていたことが崩れてしまったことで動揺されてしまい、最後には逃げるように立ち去ったように見えてしまうと思ったのは私だけだったのだろうか。
( 裏話としてウケそうなのは、例えばこの方が元・オラクル役員の持つ50億の金と仕事のコネをゲットした方法なんていうのがいいかも?)

いずれにしても今回の社長はんもパワポ忘れの一件が、後々のためにはよい経験をされてよかったと思える時がくると経験者の私は思った。

懇親会といってもいつものとおり積極的には交流していなかった私ではあるが、このイベント委託先であるフューチャー・ベンチャーキャピタルのスタッフさんとは、彼が京大の学生時代に呑みに連れていってあげたことがあったのを知り、久しぶりの再会ということになったし、アーキ・ヴォイスの荒木社長とも随分久しぶりに再会することができた。

荒木さんの会社、京都でゼロからのドブ板営業でスタートされてから、あっという間に大阪でも大きく事業を拡大されていて素晴らしい!
大学院でドイツ哲学の研究をされていたという経歴もメチャ面白い。
大阪オフィスはデジハリ大学院からも近いので、近いうちに遊びに行かせてもらおうと思っている。

私自身としては今回の講演テーマだった「勝ち組の経営者・リーダーは何が違うのか?」という問題提起では捉えられない荒木さんのような事業家のご活動のほうに、もっぱらの興味があるのだった。

というのも、今回のようなテーマで語った場合、派手な話は「ベンチャーにおける上場モデル」という「特殊なケース」に限られるし、それほど派手な話でなければせいぜいのところ「上場企業」向けの話にしかならない。
ちょうどテレビに登場するエコノミストの話とよく似ていて、参加者の現場感覚からはほど遠い。

いくらセレブな環境で起業されたであろうセレブレインさんとはいえ、参加者にとっては金なし、モノなし、ちょっとだけ人脈ありのドブ板モデルにならざるをえない環境でのミクロな話を中心にしてもらったほうが議論もしやすい上、実践につながりやすいはずだった。

業務連絡?
林さんごめん!別にイベントの悪口をいうつもりではなく、今回荒木社長をご紹介させていただいて、私がどんな話を希望しているのかご理解いただけるのではないかと思います。

2006/06/09 金曜日

「坂口さんのJANBO Awards2005ご受賞を心からお祝いをする会」盛大に開催!

Filed under: イベント — 咲本 @ 14:00:18

坂口俊一さん(現・京都商工会議所 京都中小企業経営相談センター所長)をお祝いするパーティに、総勢90名もの起業家と経営支援側の方々にかけつけていただいた。

外は豪雨の中、事前参加申込をいただいていた方々の参加率がなんと90数パーセントとなる高参加率のみなさんが醸し出す場内の雰囲気は、和やかでかつ熱く、濃厚な時間の流れを感じた。
プログラムとしては開会(咲本)→祝辞(京都府商工部産業支援室岡本さん)→ビデオレター上映(ゆめみ深田さん、ドリコム内藤さん・広瀬さん)→花束贈呈(上田実千代さん、日坂美保さん)→記念品贈呈(小堀進さん)→坂口さんご挨拶→乾杯(元・京都市,現・平安女学院大教授清水宏一さん)→ご歓談タイム→坂口さん講演→飛び入り花束贈呈(梅谷康子さん、清水仁志さん)→植西さん(元・副センター長)のお話→ご歓談タイム→中締(ドリームゲート吉田雅紀さん、上田実千代さん)→記念撮影(入れ替え制で全員)

下の写真は坂口さんが今まで行ってこられた支援活動についての講演。
とても生き生きと楽しそうにお話されていたとの印象を受けたのは私だけではなかっただろう。

坂口俊一氏講演

しかしまあ、よくぞこれだけの人達が集まってくださったなあとの感慨ひとしお。

参加できなかった方からのメール・メッセージや多数の祝電もはり出されてご披露されていた。

最後までイベント成功をお手伝いする側としてかかわっていたので坂口さんの講演を聴くことや参加者の方々との会話を楽しむような時間がなかったが、このような面々が集まった「場」というのは、全般的な表現をすると「あつい」ということになるのだが、その時々で同じ「あつい」といってもどんどん空気が変わっていくのがものすごくよくわかった。

「あつい」場というのはその空気の変化も激しい。

終了後は一部の人間でなんとなく近くのお店に移り二次会に。

その後は6名で三次会。終了は午前3時頃だったかなあ。

それにしても、これだけのパーティを開催できたというのは下記の方々が並々ならぬ尽力いただいた賜だ。

元・副センター長,現・オムロンの植西さんには、とりわけ坂口さんとの関係が深い人達への呼びかけでフルに動いていただいた。

ビジネスモデル推進センターの林さんは、このパーティの企画そのもの、集客、東京での表彰式の模様撮影、会場準備、会場受付、写真撮影と、あらゆるところに汗を流していただいた。

そして起業家&同志社大院の塩谷愛さんとそのスタッフさん達が会場の手配、参加申込受付、会場準備、パソコンまわり、その他イベントスタッフとして全面的に動いていただいたから成り立った。

私自身は司会進行と若干の事前お手伝いをさせていただいたが、いいかげんなもので、上の3人にはホントに頭が下がる思い。

以下はおまけ画像。

坂口俊一氏受賞記念品

こちらは記念品として坂口さんにお贈りしたペーパーウェイト。
私が手配したものなので事前に撮影しておいた。
受賞名と日付、「坂口俊一さんをお祝いするパーティ参加者一同」と彫刻が入っている。

そのほかには、坂口さんと植西さんへの花束を用意したが、こちらは画像を撮っていない。

咲本司会2

咲本司会1

咲本司会3

小堀さんが撮影されていたものをお送りいただいた。感謝。

当日の模様を詳しく撮影したものは近いうちに京都商工会議所のホームページかどこかで公開されるらしい。
Yahoo!アルバムで公開された。(7月10日まで)>塩谷チームさん、寝ずのお仕事お疲れさまです!http://photos.yahoo.co.jp/janbosakaguchisan

2006/06/08 木曜日

パーソナル・コミットメント

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 03:44:55

朝一番から来客があり、当初1時間お話する予定だったのが気がつけば3時間が経過。
会報ネタにまつわるお仕事だったが、1回分のネタを出すところが3回分以上のネタを提供していた模様(^^;
23日行う講演(定員オーバーの申込により締切ました)も当初2時間想定だったものが、主催者側が「どうせこいつは2時間では話が終わらないだろう」との予測のもと3時間の講演だと配慮いただいたかたちで公開していただいている(苦笑)

時間は飛んで本日の午前1時。
ケータイが鳴り出てみると、久しぶりに大阪の某N社長からの電話。
明日開催する坂口さんパーティについてのことだった。
そういえばこの任意のパーティ、行政系の方々を含む100名ほどの参加申込となっており、かなり盛大な感じになりそう。

Sergiu Celibidache Sergiu Celibidache “Richard Wagner: Orchestral Music” MÜNCHNER PHILHARMONIKER



で、昨日書いた↑チェリのワーグナー管弦楽集を本日も感激して聴いてしまっている。

なんでこんなにもひとつひとつの音の出だしと終わり方が美しいのだろうと。

チェリはいったいどんな指導をしてきたのだろう?

マイケル・ポランニー暗黙知理論では、楽器などの道具がだんだんと自身の身体化していくところを説明されている。

楽器がまるで自分の身体の一部であるかのように「用具化(instrumentalization)」した状態となっているプロへの指導には、メロディの歌わせ方やサウンドバランスを指示していく「だけ」なら、チェリのような美しい音楽とはならないのだろう。

ポランニーによれば

この依拠は個人的自己投出[personal commitment]であって、それは、われわれが何らかの事物を自分の焦点的注意の中心に従属的に統合するような、知能(intelligence)の行為の総てに含まれているものである。(『個人的知識』p.57,[]内は咲本)

といわれているように、楽器の演奏とはひとつのパーソナル・コミットメントである。

あっ、ここまで書いてポランニーの理論的説明を書き出すと長くなるので、一切省略する。
でもって、例えばボールが用具化した一流プロサッカー選手がPKによりキックする際には、キックをする場所へ向けての意識よりも脚がボールに当たるその瞬間の感覚に意識を集中させるらしい。

これと同じような自覚的意識(consciousness)が一流楽器演奏家の中でも起こっているはずなのだ。

つまり何を言いたいかというと、一流演奏家への指導としては、音の始まり方・終わり方というところに焦点的注意を向けさせるということが、サッカーのすばらしいキックの結果と同じようなことになるのではなかろうか、旋律の美しい歌わせ方などの指示はもちろん必要にはなるが、あえて細部となる音の始まり方・終わり方という層に焦点的注意を向けさせることがより素晴らしい演奏の結果につながる、そんな指導をチェリビダッケはしていっているのではなかろうかという私の仮説。

あまり言いたくはないが、これはビジネスであっても同じこと。

経営理念や財務的目標をあつく語る「だけ」というのは並のリーダー。
人間のパーソナル・コミットメントの働き方がわかっていれば、細部について焦点的注意が向くような独特の指示をも行うはず。

2006/06/07 水曜日

このブログについて

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 03:37:04

単なる個人的な日記です。
いちおう公開してはいますが、一部記事を除いて自分自身だけのために書いているため、必ずしも一般向けの記事とはなっていません。
そもそもWEB上で日記を書き始めたのは2000年で、その頃はブログスタイルで書いていたわけではなく、それこそ見られていないことを前提に書いてました。(実際には見ることができるようにはなっていましたが。)
このブログで書いている記事はその頃からの日記スタイルを引きずっておりまして、無愛想であったり失礼極まりなかったり、高慢ちきであったり、理解不能であったり、時には喜怒哀楽むき出しだったりいたします。
とてもではありませんが「意識的に作り上げられたコンテンツ」としてのブログとはほど遠いものでありまして、無法地帯にも近い発言が多々混じり込んでいます。
ここにある記事はそのようなものだとあらかじめお断りしておきますので、もしこのブログをご覧になった結果、怒りにうち震えて仕事が手につかなくなったり、ショックのあまり寝つけなくなったりしましても、その責任を負えません。
そんなことになりたくないという方はこのブログを読まないでください。
このようには毒が多くないブログとして「マーケティング・クラフティング」というコラムを集めたものを別途運営しておりまして、こちらのブログのほうはまだオススメしやすいです。

◆そのほかの関連情報

仕事より音楽鑑賞?

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 01:58:01

CDが3枚届いたこともあり、とても安逸な時を過ごさせていただいた。

って、こんなことに時間をとっている場合じゃないんだけど(汗)
Sergiu Celibidache Sergiu Celibidache “Richard Wagner: Orchestral Music” MÜNCHNER PHILHARMONIKER



こちらのCDはチェリビダッケの指揮だったら、きっと重厚なワーグナーの曲が愉しめるに違いないとの予想の元、注文していたもの。

予想は的中した。

もともと私の聴いたことのあるワーグナーの管弦楽曲のイメージって金管楽器がフォルテシモでガンガン鳴りまくっていたり、装飾的な伴奏もジャラジャラ鳴っているようなものであった。

しかしチェリの演奏は今まで聴いたことのあるどの演奏にも似つかぬものであった。

テンポの遅さは予想してはいたが、ここまで遅いのにもかかわらず決して聴く者をダレさせずに演奏するとは!

そして何よりも驚いたのは、たとえば「タンホイザー」におけるフォルテシモでのトロンボーンによるメロディをやみくもに吹かせずに、全体のサウンドバランスをしっかりと保たせている。
そのため全曲を通して「こんなふうにそれぞれの楽器が演奏していたんだ」と初めて気づかせてくれる。

ほかの指揮者が音量や勢いにまかせて誤魔化していた細部がくっきりと浮かび上がってくるのだ。
Applauseで「ブラボー!」の声が目立つのもうなずける。

個人的には「マイスタージンガー」がチェリにしかありえない分厚くゆったりとしながら細部にまで目が行き届いたサウンドの中に包み込んでくれて最も感動した。
Bruckner Symphony 5 Sir George Solti”Bruckner Symphonie Nr.5″Chicago Symphony Orchestra



よくよく考えてみるとショルティ+シカゴ響によるブルックナーというのはありうるなあとHMVレビューによる評判のよさにつられて買った。

さすがに驚くべきパワーとキレもったシカゴ響サウンドをぞんぶんに聴かせてくれる。
しかしまあ、どのようにしたらこんな人間離れしたパワーが出せるのだろう。

ショルティが意外に思ったくらいは、まるでブルックナーを得意曲としているかのようにピアニッシモ部分まで丹念に指揮している。

HMVのレビューはかなり正確であった。

ただ、やはりチェリのようなひとつひとつの音の終わる余韻やさらには「音のないところを聴かせる」といった境地にまではいかない。
ここまでは望んでいないので致し方ないが、全体的な構成はとてもよくまとまっているし、ブラスセクションのすばらしさは文句なく愉しめる。

ジュリーニ指揮「ブルックナー交響曲第9番」ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 ジュリーニ指揮「ブルックナー交響曲第9番」ウィーンフィルハーモニー管弦楽団



ジュリーニはブラームスの交響曲を普通では考えられないテンポの遅さで演奏しきっている演奏を聴いてファンになったのだが、同時にあのロサンゼルスフィルの聴くに堪えない演奏(失礼!)を見事に聴かせるものにまでまとめ上げるその手腕にも驚かされたわけで、なにかほかの作曲家の演奏も聴きたいなあと思っていた。

このブルックナー9番はウィーンフィルによる演奏なので、ロスフィルを聴く時のような不安を抱く必要が全くなく安心して購入できる。

実際に聴いてみると、シカゴ響のような米国系オーケストラよりも、ウィーンフィルのような欧州系オーケストラのほうがブルックナーを「味わえる」なあと改めて思った。

それにしてもなんて美しいブルックナーなんだろう!
ブラームスの交響曲の場合もそうなんだけど、旋律の歌わせ方が素晴らしいし、ひとつひとつの音を丁寧というか大事というか単に美しいだけではない魂のようなものが伝わってくる演奏。

比較的淡々と演奏させたほうが正統派っぽいのだろうし、そういった意味での正統派とはほど遠い演奏なのであるが、だったら正統派でないほうがいいじゃないかと思わせてくれる。

ああ、かれこれこの3枚のCDで4時間近く経過しており、ずっとこのような音楽に浸っていたいけれど、そうもいかないのでこの辺で。
HMVジャパン

2006/06/06 火曜日

経済事件を起こしかねない「冒険軌道」を描く起業家像

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 01:28:03

直前のエントリーで「義」と表現してしまったのは、儒教やキリスト教的な表現だったかもしれない。
でも仏教哲学ではもっと主にもっと高次の哲学について問題にされるので、入口にも入らないかもしれない低い次元の「義」なるものについていちいち詳しく語られることがないから、仕方なくこのように表現したのであった。
強いて仏教にあてはめると「持戒」ということになるのだろうが。
だいたいが仏教の宗派がたくさんできる前のおおもとにいらっしゃる天台大師の「五重玄義」なんて、いくら難解そうな現代フランス哲学とかをもってきてしても、全くお話にならないくらい難解かつ次元の高い話。

とかなんとか書くと、私がどこかの新興宗教にかぶれだしたのかなんていう、あらぬことを想像する方がいるかもしれないが、そんな団体の類にはどこにも所属していないのでご心配なく(^^;

さてさて、ここのところ六本木ヒルズ入居企業の経済事件が発生しているが、全てではないにしろこちらに入居している企業の典型的パターンを端的に言い表せば「(建設者から帝国主義者への)冒険軌道」を描いて失敗していく企業ということになる。

これはミラーという経営学者の仮説から引用させてもらったもの。

この企業のトップの特徴は

野心的であり、積極的で、独立心が旺盛なリーダーは全て、主要な目標として拡大を掲げている。そして彼らは、執拗に拡大を追い求めるのである。とりわけ、基盤を築く段階が終わった後でそれが顕著である。CEOが多方面の知識を持つようになるのは、その時なのである。彼らは成長、多角化の為の壮大な計画を策定するようになり、細々とした事業経営上の雑事に関わりを持たないことを好むようになるのである。

ということであり、とりわけヒルズ系には顕著であり、一般的にいまどきの起業家像として抱かれているものに近い。

このようなタイプのリーダーが率いる企業が、順調に拡大路線をとっていきながら、多くの企業が本人が気づかぬうちに奈落の底に落ちていく姿を失敗パターンのうちのひとつとして浮き彫りにしている。

なぜ本人が気づきにくいかといえば、当初成功していくことがそのまま失敗の原因になってしまっているというかたちで、起業家自身が企業の成長に応じて本人にとってはごく自然に変化してしまうからである。

自分は頭脳明晰であり器用で賢く立ち回ることのできる人間だといくら自負できても、そういう驕慢なところがあればかえって命取りとなるだけのこと。
経済事件を起こしている人達は皆エリートと呼ばれる存在なのであり、当初事件になるようなことなど全くありえないと思いながら知らない間にそのようになってしまっているのだ。

こういった企業を再生するのはとても難しいのであるが、その前提条件となるのは起業家を追い出すこととなる。

では、事件を起こした人が言っているように「この社会は挑戦するということが許されない社会なんですか?私は日本を変えたいんだ!」 といった立派に見えそうな理念を持っていてもダメなのかと言われれば、「はい、ダメです」と答えざるをえない。

「冒険軌道」をすすもうとする限り、知らない間に崇高な理念も自分勝手な解釈を伴うようになってしまうのだ。

事件まで起こす人達は極端な例であるが、程度の差こそあれとりわけ若手起業家と呼ばれる人達のかなり多くがこれに該当するのではなかろうか。
このような冒険軌道に陥らないためには、「そもそも事業を急拡大しようとしないこと」「実績を自慢したい気持ちを起こさないこと」「たとえエリートの道を歩んできたとしても自分は誰よりもアホだと心の底から思えること」「人一倍金持ちになりたい、金持ちになることが成功の証だと思わないこと」 などが挙げられる。

こんな条件を挙げるとモチベーションも下がるし、そんなこと守れるわけがないという人がたくさんいるのではないかと予想する。
そんな人こそ起業には向いていないのだと私は最近考えるようになってきた。

これって、ベンチャービジネスの教科書たるティモンズの本で典型的な起業家像として浮き彫りにされたものに真っ向から対立してしまうなあ(苦笑)

まあ世の中に多く存在する起業家像が必ずしも理想的な起業家像とは合致しないということだと解釈することとしよう。

2006/06/05 月曜日

テーマはココロ

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 02:29:05

かなり遅ればせの契約書や報告書作成など書類関係の仕事がメインの一日。

今週から某ネットショッピングサイト構築のお仕事は急速にすすめていく予定。
そのほか今月前半のうちに新規コンサルのいくつかのお話をすすめることと、ベンチャー系のいくつかのお話についても活動していく。
木曜日に開催するパーティも行政関連のお偉い方々をはじめ有り難いことに80名を超える申込がはいっており無事終わらさなければ。
大学院も今週からは私自身による講義が多くなってくるので、その準備が必要。
多分今週あたりには某講座企画提案結果もわかるだろう。
再来週は講演も入っているので、新たに内容を考えないと。・・・

なんてことがいろいろありながらも、仕事のテーマは「ココロ」。

一部では私のことを理屈好きのようなイメージを持たれているようであるが、実は理屈や論理よりも「義」を取る主義だし、その「義」に反しても場合によってはやむをえず「気持ち」「人情」「情熱」のほうをとることがあるタイプなのであった。

昨日少しふれた仏教のことをほんの少しでもわかったつもりになっていくには、いくら難解な理論に見えることであっても実践をともなった上で「ココロ」のところからわかろうとしていかないと近づくことは無理であり、ゆえに理屈や論理でわかろうとする学者連中には絶対に理解できないところとなるわけで、仏教の知見が理屈の世界で何とかしようとする現代物理学の知見をはるかに突き抜けて進んでいるところでもある。

有益だと思われる理論というのは、お経の中にでてくる方便のようなものであり、その理論「だけ」を云々といっても所詮たかがしれているのではなかろうか?
それらは枝や葉のことであって、幹がどのようなものであるのかわからずして平然と語っているというのは、あまりにも悲しすぎるのではなかろうか?

最近ビジネス系の書籍を「ココロ」で読もうとすると、あからさまな「功名心」が見えてしまったり「義」に反していたり、印税第一主義であったりするものが氾濫していることに改めて驚く。
またそんな感受性の麻痺してしまった人達が、「赤信号みんなで渡れば」ともいえる感覚で次々と書籍が量産されていくのである。
そう、別に書籍を発行すること自体は違法でもなんでもないのであるから、人様からとやかく言われる筋合いのものではないとあっけらかんと開き直ってしまう。
ほんとにそれでいいんでろうか?

「いいじゃん、理屈としてなにもおかしいことではないから」ということなのであろう。

でも理屈だけで行動していけば「十善戒」に激しく背いてしまう。

かくいう私自身も赤面するほどいっぱい背いていて人のことをどうこう言える立場にはないのだけど、少なくとも「申し訳ない」という気持ちくらいは持っているつもり。

さすがに理屈人間ということではこのままの見え方ではまずいと感じる人達もいて、最近では「私はそうじゃないんだよ」とものわかりのよさを気取るために、まるでファッション用語のように「智慧」なんていう言葉を使おうとする無知な輩も登場している。
ヨガやスローフード、気功、東洋医学なんていうブームにのろうとするかのごとくにね。
「舎利弗」ほどの頭脳を持ってしてもお釈迦さまにひどく怒られっぱなしなのに、その万分の一ほどの頭脳さえ持たない連中が「智慧」なる言葉を安易に使うことが生き恥をさらしていることになると気づく余地すら持っていない。

ああ、ほんとにみっともない。

推薦できるというレベルを指しているわけではないが、

もっといい会社、もっといい人生―新しい資本主義社会のかたち チャールズ・ハンディ『もっといい会社、もっといい人生―新しい資本主義社会のかたち』



どのようなテーマで語られようと、せめてこの著者のような問題意識くらいはふまえた上で語ってもらわないと。。。
私の周辺には著書を持つ人達が多いわけであるが(私自身も共著者としての経験を持つが、今となってはとても恥ずかしく思っている)、新商品開発と書籍発行とは明らかに性質が違う側面を持ち、結局のところ問われるのはその人の思想レベルということになるのであって、そういうところで勝負できないにもかかわらずに安易な気持ちで量産されていく本について考えをめぐらせていくと、とても悲しく、苦しく、ご本人にとってもたいへん不幸なことだとしみじみ思ってしまう。

と、当のご本人達が何とも感じていないだろうと思われるのに、私ばかりが悲しくばかりにはなっていられないので、最初に書いたとおりテーマは「ココロ」ということで明日からも元気にいこう。

2006/06/04 日曜日

仏教哲学から学ぶ創造性開発

Filed under: 読書 — 咲本 @ 04:30:53

北大路の某Hさんと浄土寺の某S谷さんとで北白川の料理屋無法松で某イベント関連の打ち合せを兼ねて晩飯を喰う。
ってイニシャルだらけやなあ(笑)
一応3人とも半分オフモードに近い感じだったので、オフレコな話が飛び交う打ち合わせとなった。
閉店までの4時間ほどの長居をしてしまったが、土曜日ということもあってなのかそんな客が多かった模様。
随分久しぶりの無法松での食事であったが、あいかわらずのうまい料理とアットホームな雰囲気は健在だった。(2Fの個室を使わせてもらったので大将の見事な魚さばきや女将とのオモロトークは楽しめなかったが)

さて料理屋での雑談の中で「創造性開発」なることが出ていたのだが、ふと本日自宅に届けられた書籍群を眺めていると、『「ひらめき」の設計図』という本があり、読んでみるとまさに創造性開発の極意のようなことが書かれていて、思わずのめり込み始めているところ。

偶然といえば偶然だが、この本はよくありがちな創造性関係の本とは明らかに違っているのであった。

「ひらめき」の設計図 久米是志『「ひらめき」の設計図ー創造への扉は、いつ、どこから、どうやって現れるのか』



著者は本田技研工業3代目社長でありエンジニア出身で技術畑のトップマネジメントを行ってきた方で日本初の数々のモーターレース参戦を引っ張ってきた方としても有名。

本書では「創造する心の働き」とはどのようなものなのか、結果として創造したモノではなく、そのように至ったプロセスはどのようになっているのかということを解明していこうとされている。

そこで久米氏がとったアプローチとは仏教の教えから学ぼうというもの。

余談であるが本日到着したほかの書籍の中味もパラパラと見てみると、それぞれフランス哲学者、生物学者、解剖学者、建築史学者が書いた本であるのに、本の中には仏教思想が重要な考えとして大きく取り上げられているものばかりだった。
そんなことも知らずに本を注文していたにもかかわらずだ。

久米氏の本はまだ全て読めてはいない状態ながら、どうやら私にとってはとても重要な本となりそうだ。

一般に創造性開発といえば、やれ米国の大手企業に採用されているというふれこみの手法だとか、ハーマンモデルだとか、SCAMPERなどをはじめとするマハルコが紹介している一連の手法、はたまたシックスハットだ、なんてことになるのだろうが、これらは確かに一定の成果を上げるための小手先の手法としては役に立つとは思う。

ただし、あくまでも「小手先」の「手法」レベルの話。
軽いというか、「たったそれだけのこと」なのであり、たとえば「人生」や「個人と企業との関係性」といったような事柄とはなんの関係もないこと。
表層的手法だけ取り入れてみても、深層レベルでは創造性は発揮されることには繋がらないままなのだ。

とここで本書の意義がでてくる。

世界の真の相つまり真如を心に悟れば、生老病死という生きている故の苦しみから解脱することができる。そのために「どうすべきか」という問いに解答を与えていくのが大乗仏教の教義であるといえるでしょう。そしてその方法はーーあまりにも単純化し過ぎなのかも知れませんがーー悟りの境地を目指して「六波羅蜜」といわれる修行を実行することであるとしています。悟りに至る道は安易ではなく数々の苦難が待ち受けているけれども、六波羅蜜に示された六つの徳目ーー1布施、2持戒、3忍辱、4精進、5禅定、6智慧ーーを繰り返し実践に移すことで悟りの心に近づけると教えているのです。
この仏教の方法論から技術創造を目指す我々が何を学ぶことができるというのか、順を追って見ていきたいと思います。

と、それに続いて「六波羅蜜」のそれぞれと創造体験について語られていくのである。

有名なシビックCVCCエンジン開発のリーダーが技術創造の実体験に照らし合わせて説明されていく説得性も手伝ってたいへん興味深い。

そのほかにも中論や唯識論に基づいた説明なんかも本書中には登場する。

とはいえ本書で触れられているのは仏教でいえばほんの入口のところをかすった程度にすぎない。

仏教の教義といえば宗派に関係なく日本に仏教を伝えられた伝教大師の智慧をお借りしないと手のつけようのない膨大かつ難解なもの。

ただし伝教大師が開いた比叡山延暦寺にその教えをいくら求めようとしたところで、今年になって最上級のとりあつかいによって山口組組長の特別永代回向を行ったことをお詫びしているくらいだから、お金に目がくらんだ商売仏教に成り下がっている体たらくな僧侶しかいない証拠であり、このお寺から伝教大師の根本思想を学べる余地など残っていない。

延暦寺

僧侶がこの始末なのだから仏教学者と名乗る人達もあまりアテにできそうにない。

そのあたり、誰にも言わないけれど、仏教哲学についての正しい知見を深めていくための、ちょっとしたヒントをつかんだのであった。

2006/06/02 金曜日

「高尚」とは?

Filed under: 雑記, (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 23:45:16

二日連続で薪能に行こうかとも思ったが、初夏の夜の幽玄な感じはいいのだが地面に近い高さのなんのクッション性もないところに連日にわたって腰掛けてとなるとキツいのでやめた(笑)

そのかわりというわけでもなんでもないが、今月の土曜日に楽しみな予定を2つ入れた。

ひとつは抽選に申し込んでいた「ファッション カンタータ from KYOTO」が当選したので17日(土)観に行く。特別出演は石原さとみ←オッサンやのにそんなに喜んでどうする?(^^;

もうひとつは京都市交響楽団創立50周年と東京交響楽団創立60周年を記念して行われる24日(土)の合同コンサートのチケットを購入した。

曲目はなんとシェーンベルク「グレの歌」!!
2つのオケが合同しないと足りない大規模編成が要求され(5管編成)、プラス大合唱団、5名の独唱、語り手といった総勢400名の出演者で繰り広げられる。
演奏時間も2時間を超えるもの。
ということで滅多なことでは演奏されることのない後期ロマン派の極致ともいうべき生演奏が聴けるチャンスを発見して迷わず申し込んだ次第。

で、こんなコンサートに行くといえば最近複数の人達になぜだか「高尚な趣味をお持ちなんですね」と言われてしまった。

クラシックを聴くのが好きなのは高尚なのかなあ。。。
私自身はそんなこと意識せず至って自然に楽しんでいるのだけど。。。

そもそもよくクラシックを聴くようになり始めたのは中学生からで、生まれ育ったのはどちらかというと貧乏な家庭だったので、上流階級のたしなみとかそういったことではない。

小学生高学年の頃は戦前・戦中とかの古くさいジャズが好きで毎日のように聴いていた。
だからこの時期には将来ジャズクラリネット奏者になるのが夢だった(^^;

それが中学生に入ってから趣味が徐々にジャズからクラシックへと変わっていっただけ。

一般的には人気歌謡曲またはロックが好きになるというのが多いのだろうが、歌詞に大きな比重があるものではなくて、音そのものを純粋に楽しむ世界を強く音楽に求めていたんだと思う。

それはエレキギターという選択肢でも同様だといえなくもないのだろうが、ロック系の音楽はコードが単純、ダイナミックレンジも少なく、ひとつひとつのサウンドの厳密性と多様性、繊細さ、ダイナミックさにおいてやはりクラシック、とりわけ大編成オーケストラのほうが圧倒的に楽しめるということになるのだ。

音だけならまだしも、当時歌詞に「愛してるぜ」なんていうクサいセリフが必ずどこかに出てきそうなジャンルでは、私自身は「鳥肌が立って感動しっぱなし」ということにはとてもではないけれどなれなかったわけで、そんな感動の世界を提供してくれるのがクラシックだったわけだ。

クラシックは基本となる音楽理論がしっかりと確立された上に構築されるものであることは間違いないのだが、私のような素人が楽しむのにはそんな理屈が何もわからなくても楽しめる。

とはいえ理屈もついでに少しくらい知っておけば、余計に楽しみやすくなるかもしれない。

昨日観に行った薪能でも演目のあらすじや能独特の表現技法を知らないよりは知っておいたほうが楽しめるのであろう。

私は後追い的に本家本元の世阿弥の本やたまに読む白洲正子の本などで知識を得ようとするが、だからといって楽しみの度合いがより大きくなることと、鳥肌が立って感動することとは直結するわけではない。

そんなこと何も知らなくても、純粋に繰り広げられる舞台表現と音楽とで理屈抜きに感動したりするものなのだ。

そんなふうにモノ・コトに接していきたいと中学生以来ずっとこのかたきているので、例えば映画を観るということでも、テレビドラマにありがちな筋書きの面白さと俳優の人気度である程度の評価が決まるようなものには全く興味がなく、映像表現そのもので惹き付けられるようなものでないとわざわざ観る気が起こらない。

その際に理屈があったほうがよければ、そんなものは後追い的に付け加えてもよい程度。

理屈ではなく激しく感動したいという私の接し方が「高尚」なわけなどなく、高級低級という高さは関係ないのだ。

ただし、そのような接し方をしていて「ビビッ」ときたクラシックの名演奏に、「どうしてこのように激しく魂を揺さぶられたのか?」と自問し、いろいろ調べていく中で後追い的な理屈として説明できるようにすることは「高尚」なのかもしれない。

さらにはこのことをビジネスについての理論的ななにがしかに応用するとなると、これまた「高尚」かもしれない。

もしこのようなところにまで発展させるとなると、誰でも知っているようなものでないほうが、言っては悪いが手垢にまみれていないがゆえに有利な場合が多いわけだ。
例えば、阪神タイガースを理論の事例にすると、あまりにも俗的で偏った意見も平気で飛び交っているがゆえに誤解を生じる可能性が高くなるから、理論を語るのには不向きなのである。

ここまで説明してきたことで私が高尚な趣味を持ってはいないが、あとあと趣味以外のところで高尚なところに応用する可能性はありうることがわかっていただけたものと思う。

もうひとつ、先に理屈があってアートに接するというのと、アートに接して感動してから後追い的に理屈を求めるというのとでは、結果が似ているようであって全く別物だと思う。

もちろん先程から説明しているように私は後者のほうなのだが、前者のほうの評論家・学者が世の中には非常に多い。
ミーハーでウケねらいを求めて、剥がれかけのメッキを施してそれらしく見せようというのが特徴の人達。

例えば内田樹や四方田犬彦のスタイルなんてまるっきりそうだし、最近読んでいないから不明ながら初期の中沢新一なんてのも典型的パターンといえる。
蓮実重彦はボーダーラインぎりぎりセーフ、浅田彰は理屈っぽいイメージがありながら意外とそうではない。

とりわけ内田、四犬田両氏には坂口安吾のエッセーあたりから学んでほしい。(って私が言ってもウケねらいの性格はそう簡単には治らないだろうし、そもそもミーハーなスタイルが好きなのだろう)

要は前者と後者とでは似て非なるものであり、前者に該当する人達の言説っていうのは、流行のファッション程度のものとしか考えられないし、高い低いならぬ浅い深いでいうならば、明らかに「浅い」ものなのだ。

今まであまり意識はしなかったが、本日改めて考えてみて、この日記がちょっと整理した私自身にとっての覚え書きとなったかも。

2006/06/01 木曜日

京都薪能を観に行く

Filed under: イベント — 咲本 @ 22:25:01

毎年恒例の平安神宮で開催の京都薪能に行った。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006060100271&genre=J1&area=K1D

薪能1

薪能2

開演して観世流の「加茂」の「御田(おんだ)」「素働(しらはたらき)」が終わったところで「火入式」が行われた。(上方の写真)

その後半能の「野宮」が終わる頃にはあたりもすっかり暗くなり、下の写真のように薪が燃える様がひときわ目立つようになってきて、聴衆をその光と煙から浮かび上がる能の舞と音楽へと、さらに惹き付けていく効果を演出する。

すっかり有名な企画となっているためなのか、平安神宮には2000名以上はいるのではないかといった人達で満員。
予想していた以上に若者と外国人の姿を多く見かけた。

屋外、しかも京都で開催される能って、能の美学からいってもベストじゃないかと思う。

明日も開催されているので時間が確保できれば観に行こうかな?

ってなことを思いつつ、今宵は能のCDを聴きながら『風姿花伝』を読んでいる。

能楽囃子~至高の四重奏能楽囃子~至高の四重奏


風姿花伝 世阿弥『風姿花伝』


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