2006/06/22 木曜日

明日の講演用パワポを準備

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 13:09:49

明日の夕方から京都商工会議所で講演。

私の場合には「講演屋」ではなく「コンサル屋」なので、同じパワーポイントを使い回したりすることはない。

自身のup-to-dateな考えを整理する意味も兼ねて、いつもゼロベースで講演内容を考えることにしている。

その結果、言いたいことが同じであっても切り口に変化があったり、取り上げる事例が変わったりするのが常で、初めてご説明する事柄が発生することも多い。

昨晩から深夜にかけて一眠りして、夜中からお昼まで一気に講演に使うプレゼンファイルを作っていった。
現時点で半分強くらいできたかな?

ここまでできれば、あとはもうひと踏ん張りすれば完成だというところが見えてくるので少し安心できる。

このあと一時的に外出するので、あとは夜にもうひと踏ん張り。

とかいいながら、深夜の作業中に講演内容の大幅路線変更を考えてしまい、大わらわ状態に陥っていたりして(汗)

2006/06/21 水曜日

WEBアクセシビリティのセミナーin 京都

Filed under: PCネット・ビジネス — 咲本 @ 03:47:04

京都商工会議所 京都・ビジネスモデル推進センター主催の「ネットビジネス塾6月講座」で高田三鈴さん講師によるセミナー“企業ホームページ「設計」の基礎知識〜これからのホームページに求められるユニバーサルデザインとは〜”が開催された。

講師、高田さん

講師の高田さんは神戸を活動拠点に全国各地で「WEBアクセシビリティ」関連の講演をされてきている方であるが、京都では初登場。

おそらく京都という街は他の街と較べてみても、何かとWEB関連のセミナーが開催される頻度がたいへん少なかったこともあり、中小企業支援機関が行うWEBアクセシビリティのセミナー自体、耳にしたことがなかった。

このような状況でもあったので、今回のセミナーには早い時期に定員枠を超えての参加申込が集まったらしい。

ご講演内容はアクセシビリティをふまえた上でのWEB設計のお話だったということで、WEBアクセシビリティの基本的考え方やJISにおけるWEBコンテンツ規格、これを反映させたわかりやすくシンプルな構造のWEBの姿とはどのようなものかといったことをお話いただき、参加された中小企業事業者の方にとっては、次世代型自社WEBの姿がどのようなものにしていくべきかつかんでいただけたのではなかろうか。

アクセシビリティに配慮することが障害者向けコンテンツといった特別なケースに限られるいうわけではなく、それがそのままSEO対策にもなるし、W3C推奨のスタンダードともなるということがよくわかったはず。
はっきり言って、この企画の狙い線としては、事業者側がWEB設計の大雑把なイメージをつかんでいただけたのなら、もう大成功。

それなりのWEBを構築しようと考えた場合、通常はプロと称しているWEB制作業者に依頼することになるのだが、今までこの制作業者がくせ者であった。
なぜならSEO対策ばっちりで、WEBコンサルティングの高いスキルを持ち、ユーザー側に立った視点を持ったと標榜している多くの制作業者が、全くそのスキルを持ち合わせていないケースがほとんどとだというのが実情なのである。

WEBにはJIS規格まで制定されてはいるものの、法的な制約があったり行政機関の審査を受ける義務もない。
もしWEBにおける耐震偽装問題のようなものがあったとすると、過半数の制作業者が詐欺であると言われかねないくらいのお寒い状況。
ここはユーザー側たる事業者の方々に最低限の知識を持っておいていただかないと、騙されるケースが後を絶たないといった状況に歯止めがかからない。(制作業者側に騙すつもりがなくても、多くの業者がプロに求められるスキル・知識が不足していることが原因で、結果的に騙すようなことになってしまう。)

今回のセミナーに参加いただいた方には、結果的にそのような事業者に騙されないための最低限の知識を得ていただいたことになる。

あらためてセミナー内容をひとつひとつふりかえってみると、かなり細かな点についての指摘も随所でなされており、うまくまとまっているセミナーだなあと感服する。
その一方でこれだけ様々なところに触れていただいたら、今週金曜に私が講演する内容がないではないかということにもなり、嬉しいのか悲しいのかわからない気分になってくる。

しかも高田さんのセミナー時間が2時間、私のほうは話し出したら予定をオーバーして止まらなくなるだろうとの主催者側の予測から、気をつかっていただいて3時間も確保されている。
う〜むどうしようか??
テーマとしては高田さんが「設計」、私のほうは「運営」と視点が違ってはいるのだが、基本的なところは高田さんのセミナーでほとんど指摘されていることでもあるわけなので、急遽今までのWEB系のセミナーでは話されることがなかったであろう切り口からの話を交えて講演内容を練っていこうと思ったところ。

追伸
セミナー主催者の京都・ビジネスモデル推進センター様が19日、開庁138年目を迎えた京都府の「平成18年度京都府開庁記念日記念式典」で「新世紀かがやき交流賞」を受賞されました!

ホンマ、おめでとうございます!

今年度に入って何かとおめでた続きの「ビジモデ」。
私もお世話になっている身として素直に嬉しい。

おまけ
セミナーご担当の林さん、おめでとうございます。お疲れさまです。
WEB系のセミナーにGoogle社の白い腕輪を着けられていて気合い入ってます。

林さん

2006/06/20 火曜日

マーケティングにおける記号学の活用

Filed under: マーケティング — 咲本 @ 04:11:16

「無謬性が私のモットーです」みたいな公的職員の方とメール交換していると、ほんま疲れる。ふぅー。

先週の大学院講義で文化記号論やレトリックへの造詣がマーケターには必要との私自身の言葉に影響を受けて、かなり久しぶりに丸山圭三郎氏の著書を取り寄せた。
文化のフェティシズム 丸山圭三郎『文化のフェティシズム』



この手の本の中では1984年以来第13刷まで続いており、なかなか健闘しているほうではなかろうか。

丸山氏の存在は、言語学者ソシュールの言わんとしていることをソシュール以上に明快に説明してもらえ、かつ廣松物象化論や市川浩身体論、 ボードリヤール象徴交換論など諸分野との関係性まで明らかにしてくれた上に、ソシュール自体も乗り越えていこうとするスリリングな理論を提唱されたという意味で、当時20歳前後のうら若き青年であった私に大いなる知的刺激を与えてくれた学者だ。

本書が出るまでにNHKのフランス語講座講師のイメージからソシュール研究の世界的権威へと認識を新たに変えさせられたのであったが、この書で「言分け(ことわけ)構造」なる仮説を提唱されて以来、丸山独自理論を提唱するための書籍が量産といってもよいペースで出版されていき、急逝されたのはまるでご自身の死期がわかっていて理論を世に問うのを急がれたようにも見えなくもなかった、そんな出発点ともなるのが本書である。

丸山氏の提唱する「言分け構造」とは、市川浩が身体論哲学を推し進めるのに「身分け(みわけ)」というアプローチに活路を見いだしたことをヒントにされており、

人間が動物である限り、私たちもまた〈環境世界・内・存在 In-der-Umwelt-sein〉であり、この〈身分け構造〉のなかに生きていることは間違いないと言ってよい。ところが、人間だけがこのような本能の図式に加えて、もう一つのゲシュタルトを過剰物としてもってしまった時から人間となったのではあるまいか。これが私の仮説用語である第二次分節の結果生ずる〈言分け構造〉であり、その網の目は「シンボル化能力とその活動」という広い意味でのコトバによるゲシュタルトにほかならない。(p.73-74)

と定義付けされているものだ。

その後、なぜ〈過剰 excès, surplus, ubris〉なのかという議論に移っていくのだが、そちらは省略して、なぜ「身分け構造」ではなく「言分け構造」の視点が必要なのかというと、

〈言分け構造〉に見出される〈用在性 Zunhandenheit〉は、あくまでも人工的道具を介しての用具連関であり、その基底は〈欲求 besoin〉でなく〈欲望 désir〉である。動物と人間に共通して見られる二大本能として、個体維持のための食欲と種族保存のための性欲があることはよく知られていても、動物における食欲と性欲が、それぞれ身分けによる生理的食欲求と性欲求であるのに対し、人間のそれは、言分けられた食欲望と性欲望であることに気づく人は少ない。(p.115)

から、そこに焦点を当てる必要があるからだ。

それがなぜマーケティングに必要になってくるねん!というところに少しだけ話を近寄せると、

J・ボードリヤールの諸著作に一貫して見出されるものも、この「欲求から欲望へ」変容した人間性に対する、ラディカルな批判である。これは人間の行動様式が生物学的不足・充足の関係で規定されると考えていた〈有用性 utilité〉中心主義、生産中心主義の近代西欧経済学への批判でもあり、この発想を百八十度転換させない限り、巨大なテクノクラート的企業が生み出した現代の技術・管理社会や、ブランド価値、威信価値、マスメディアが作り出す疑似イヴェントというシミュラークルに操作される大衆文化の解明は不可能であるという。このボードリヤールの指摘を幾分修正して言えば、彼が告発する「欲求から欲望へ」の変容は、何もポスト・インダストリヤルな現代社会に限った現象ではなく、はるか原始の世界から人間文化の基底にあったのである。(p.115-116)

すなわち、ブランド価値を理解したり商品価値を考えていくには、人間文化の基底にある「欲望」の構造を理解していこうとすべきなのであり、

ランガージュは、それ自体が一つの過剰であると同時に、過剰な〈意味=現象〉をもちたいと願う欲望の源でもあるのだ。(p.117)

と主張されているように、「ランガージュ」の解明が、ひいては「欲望」の解明にもなっていくのであり、マーケターはランガージュを理解して、その構造をビジネスに活用していくべきとの論理となるのである。

全くの余談ではあるが、ランガージュの仕組みを悪用して銭儲けしようとセミナーのネーミングを発想すれば、某氏のように「人運・金運、ツイてる経営者になる魔法の・・・あっ、やめとこ(^^;

2006/06/18 日曜日

(株)ヒューマンフォーラムからの封筒

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 17:55:12

(株)ヒューマンフォーラムから届いたセミナー&懇親会の封筒。

素晴らしい!

(株)ヒューマンフォーラム

シュヴァンクマイエル「アリス」と百鬼夜行

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 01:18:11

土曜日だということもあって以前購入したままになっていたチェコのというかアート・アニメ界の巨匠と言われるシュヴァンクマイエルが、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』を題材に人形と実写を組合せた初の長編作品となった『アリス』のDVDを観た。

ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』 ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』



何度も断っておくガ、私は映画をあまり観ないし特別好むわけでもない。
が、まだ作品を観たこともないくせにシュヴァンクマイエルの存在だけは前から気になって仕方がなかったのであった。

シュヴァンクマイエルの作品のことを知っている人なら、人形を使ったちょっとグロテスクな映像を作る変わり種の作家だね、という印象になるのかもしれない。

数多く作られている短編集を観れば確かにそのような印象になるのかもしれないが、こちらの作品は長編でしかもキャロルの原作をベースに作られたものということもあり、そんな単純な印象を残すだけのことにはならないだろうと観てみたくなったわけ。

登場人物はアリス役の子供だけ。
それ以外に登場する人形の映像は気が遠くなるほどの作業で重ね合わせていくことで動画に仕上げている。

ナンセンスとはいえストーリーがあり、しかも登場するほとんどが人形なのでグロテスクで観てられないということにはならななかった。小さな子供が観ると怖がるかもしれないが。

第一印象。
これは西欧(東欧だ!)の「百鬼夜行だ」!
ちょうど先日、高台寺のライトアップで百鬼夜行をテーマにされたものを観てきたために、余計にそう思った。
http://blog.tokeidai.net/notebook/event/kodaiji_hyakkiyakou/

つまりはモノにも魂が宿っている、粗末にして放置していると化けて出てくるのだ。

これは仏教的にまったくの真実であって怖いことでもグロテスクなことでもない。

先人には化けて出た様も見えるような人も多く、それが絵になって「百鬼夜行絵巻」として残存していたりする。
近代科学や客観性という幻想を信じるようになった私たちの眼が見えにくくさせていっているだけのこと。

そんな世界を垣間見させてくれるこの作品には、何度も観たいと思わせるだけのものがあった。

アリスが机の引き出しを開けようとして、把手が取れてしまうシーンが何回も登場するが、こういった手法も物語に引き込ませていく特別な効果があるのではないかと思った。

また、アリス以外が全て人形だというところが、かえって不思議の国のナンセンスな現象が頻発する世界に入り込んでしまったというリアリティを持たせることに成功している。

先日の大学院講義内でちょうどレトリック(修辞法)がマーケターには重要なんだということを説明していたわけであるが、この作品はレトリック的表現の宝庫のようなものだ。

先人達はレトリックの豊かな世界に生きていた。

私たちの生活にももっとレトリック的なものを多く取り入れたり、レトリックを感じやすい環境にもっていってもよいのではなかろうか。

追伸
せっかく抽選に当たっていたのにファッションカンタータfromKYOTOに行けなかった。
石原さとみさん、行けなくてごめん!(何でやねん!)

2006/06/17 土曜日

組織学習のホリスティックなアプローチと地獄

Filed under: 読書, 経営戦略 — 咲本 @ 03:58:18

どうやら仏教を学ぶことからのビジネスへのアプローチという本がこれから次々と出てきそうな流れとなってきている。

要は西洋的な一神教をベースにした要素還元主義、分析的思考、主客二元論などではダメであるとは思いながらも、西洋的思考の中で探し回ってみても仏教的知見に届かないことに気づかされるばかりで、であれば仏教を何とかうまく西洋的思考に取り込めないだろうかという方向に向かう傾向が顕著になってきたようだ。

最近購入した本の中でもその傾向は見られ、日本の著者だと先日書いたホンダの3代目社長の久米是志さんが仏教から学んだビジネスへのアプローチを書いている。
http://blog.tokeidai.net/reading/rokuharamitsu/

米国では「学習する組織」で有名なピーター・センゲが中心になって著した『出現する未来』がまさにそんな本である。
ピーター・センゲ他『出現する未来』 ピーター・センゲ他『出現する未来』



ホリスティックな知見を求めるのに、それを仏教から得ようとやたらとその手の話が出てくる。

一例として「能力開発」について触れられた一節を引用すると、

仏教理論の真髄は、人間がふたつの相互依存的な秩序のなかに存在していると見る点にある。ひとつは、顕在化された領域、見えるものも、見えないもの顕在化した現象の領域だ。もうひとつの秩序は、無限で、絶対的で、超越的で、形を超越し、思想を超越し、『もの』を超越した宇宙であり、一般に『如』と呼ばれる。そして、人間は、文字どおり、ふたつの秩序が交錯する場所に存在していて、それは最古の教典では『タターガタ・ガルバ』と呼ばれる。サンスクリット語の『タターガタ』は、仏陀、ゴーダマ・シッダールタ、釈迦牟尼の尊称で、次第に如や絶対と同義になった。『ガルバ』は、母胎や子宮という意味だ。つまり、人間は、本性として、絶対と顕在が交錯する母胎に存在していることになる。どちらか一方に存在しているわけではなく、両方に存在している。そして、これが仏教の非二元論的な世界観、つまり、顕在は絶対がなければ存在せず、絶対は顕在がなければ存在しないという世界観のカギだと思う。ふたつは不可分で、相互に浸透し合っている。仏教理論では、人間は絶対界にも顕在界にも存在しているので、能力の開発が可能だという。(p.268)

彼らの仏教への理解には大いに疑問な点もあるが、たとえまともな理解ができていないレベルでも西洋の科学観よりもずっとよいという認識なのであろう。

さらに続いて、

もうひとつのポイントは、いつ、どのような形で理論が重要になるかについての仏教徒の考え方だ。仏教徒はよく『まずは修行と奉仕に重点をおくべきだ』と言う。心が静まるまでは、思想や理論について語るのは頭でっかちになるだけで、自己啓発の邪魔になる。
ただし、理論的な考え方が必要な時は来る。修行を重ねて、理解できないことを経験した時、理論が必要になる。こうした超常体験を『世俗的』な考え方、あるいは『物質主義』の考え方と言ってもいいが、そういう考え方で理解しようとすると、修行は逆戻りする(p.269-270)

と、理論ありきを批判していて修行ありきだという、ちょっとだけマシではないかと思えることも述べられている。

80年代前半にニュー・サイエンスが流行していたが、そちらへの揺り戻しのようなことになっているのではないかと一瞬思わせるが、多少下火になっていたホリスティックなアプローチをそのまま踏襲しただけではなく、それらの研究に大きな進展が見られることもあってのことなのだろう。

それらの進展とは、マラトゥーナとヴァレラによる『知恵の樹』に端を発して河本英夫によって決定的に注目されるようになった「オートポイエーシス」、シェルドレイクの「形態形成場」の理論から日本では清水博のような「場」の理論へのアプローチ、ラマチャンドランらによる脳科学の研究など、仏教的知見と少しは相性のよさそうな研究が増えてきていることである。

さらには、ヨガやスローフードの流行、LOHAS運動、三輪明宏や江原啓之らの人気という、社会現象的にも追い風となる事柄が増えてきていることにも支えられたものなのであろう。

私自身はそれら学者の書籍を読みはしているものの、仏教からの引用元が修行もしたことのない理屈だけで理解しようとする仏教哲学者の知見から学び損なった程度のものなのであり、そう考えると細木和子じゃないけれど「あんたたち、そんな習い損なったものを利用して本なんか出して金儲けしていたら地獄に堕ちるわよ!」という恐ろしいことをやっている人達なのかもしれない。

少なくともそんな仏教のことをなめた真似をやるなんてこと、私は夢にも思わないのであった。

2006/06/16 金曜日

活気を帯びる萌え系ショップ

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 00:33:44

昨日はデジハリ大学院での講義。
ターゲティングについて、森氏のプロダクトコーン理論などを復習したあと、文化記号論やレトリックの概説、マーケティングの関係を説明。
講義終了後、 一部の院生さん達、教官の杉浦さんとで呑み会。
久しぶりにノンアルコールで呑み会に参加して京都までタクシーを使って帰宅。午前5時。

本日はセミナーの打ち合わせやら、事務処理やら行ったあと、仕事で大阪日本橋へ。

ソフマップ

あくまでも用事があってのことだったので時間的余裕もなく、まだ一度も体験していないメイドサービスのお店などには行かないまま京都に戻らざるをえなくて残念。

写真のように某大手チェーン店の青看板のショップ名が消されシャッターも閉まっている一方で、萌え関連ショップが既に激戦段階に入っている。
メインストリート西側にある「オタロード」なる通称名もかなり浸透していて、休日ともなると人でごったがえすらしい。

家電を購入する客はJR大阪駅前のヨドバシカメラにごっそり奪われてしまった感があるが、こと萌え系に関してはまだまだ活気を帯びてくるように思えた。
昨日の呑み会で耳にした話では「でんでんタウン」なる電化街らしい名前も消滅するとのこと。

また時間を確保してゆっくりこの街を歩いて回りたくなった。

ちなみに私は萌え系マニアではない(^^;

2006/06/14 水曜日

両義性のマーケティング

Filed under: マーケティング — 咲本 @ 06:07:29

久しぶりに古典的名著、山口昌男『文化と両義性』を読み返してみる。
初めて読んだのはなんと20年くらい前(^^;

山口昌男『文化と両義性』 山口昌男『文化と両義性』



このような記号論的・文化人類学的視座に立った本って、軽いノリのビジネス書を読むよりも、余程マーケティングについて考えていくヒントとなるなあ。

かっちり使わせていただきます。

これらの例が示すように、境界には、日常生活の現実には収まり切らないが、人が秘かに培養することを欲する様々のイメージが仮託されてきた。これらのイメージは、日常生活を構成する見慣れた記号と較べて、絶えず発生し、変形を行う状態にあるので生き生きとしている。日常生活の内側にあった記号でさえ、境界に押し出されると、意味の増殖作用を再び開始して、新鮮さを再獲得する。これは、人間についても言いうることで、人は、自らを、特定の時間の中で境界の上または中に置くことによって、日常生活の効用性に支配された時間、空間の軛から自らを解き放ち、自らの行為、言語が潜在的に持っている意味作用と直面し、「生まれ変わる」といった体験を持つことができる。(中略)
こうして考察してきたところでは、文化の中の挑発的な部分は、それが秘める反社会性のゆえに、発生状態においては、周縁的部分に押しやられるが、絶えざる記号の増殖作用のゆえに、中心部分を生気づけている。中心的部分は、境界を、時と場所を定めて視覚化、強調し飾り立てることによって、中心を構成する秩序に対する「逆定言(カウンター・ステートメント)」を行うのである。(p.98-99)

2006/06/13 火曜日

生きやすくする術

Filed under: 雑記 — 咲本 @ 03:34:43

徹夜仕事明けのため、ワールドカップ日本戦が行われている間に爆睡して睡眠不足を補う。
クレジットカード支払額が3ヶ月連続で50万を超え、無駄使いが多いのではないかと反省してみる。
とかいいながらも、あることの利便性を考えて、新たに一枚クレジットカード申請する。
本が増えてきて置き場に困り、ひとまずは200冊ほど本を選び出して捨てる。

捨てる本を選んでいる最中に、どうしてもイロイロな本をパラパラめくることになる。
こんなことをしていると、どうしても予想以上に時間がかかってしまう(笑)

そんな中に吉本隆明の『中学生のための社会科』があった。
中学生のための社会科 吉本隆明『中学生のための社会科』



こちらの一節の中で

時間的働き過ぎというよりも高度なハイテク化が農業、漁業、林業のような自然産業をすら牧歌的なものでなくし、近代でいわれる精神労働と肉体労働の二つをやらねばならなくなった。またハイテク生産の場も十個の装置を作るのに一労働時間かかったとすれば、百個作るのに十時間かかるというような計量ができず、過度な精神労働だけでなく、生産された装置の小型化で肉体労働をすることからも余せられ、精神労働と肉体労働の区別も、それをやる人間の区別もできにくくなった。
またもともと不要な日常生活にハイテク製品を使ったりするので、かえって迷宮を作って憩いをなくすことにもなる。これらが働く人、家族、幼少者や老人にまで異常な行動や犯罪をもたらす大きな原因になっている。(p.167)

というところが目に飛び込んできた。

私たちが仕事を頑張れば頑張るほど、「異常な行動や犯罪をもたらす大きな原因」をもらたす社会の発展に貢献していくばかりであり、その頑張った人間自体も明確な労働の定義ができないようなところにまで労働が浸透していく中で、蝕まれていきかねないわけだ。

とりわけ「インターネットで便利になった」というのって、ますますパソコンの前に座りっぱなしの時間という「人間にとって明らかに異常な状態」を増やすことに拍車をかけていくことになるのであった。(汗)

だからIT屋としてメシを喰っている人達は、世の中の便利に貢献しているなんてことを無反省には言ってもらいたくない。

なぜならそれは「もともと不要な日常生活にハイテク製品を使ったりするので、かえって迷宮を作って憩いをなくすことにもなる」社会へと助長していっているわけなのだから。

だったらそのまま停滞していればよいということを決して言おうとしているわけではなく、私たちは回し車の回転がますます速くなろうとしているネズミのような状況に近い。

こんなユートピアが見いだせない絶望的社会状況にあって吉本隆明はさすがに「たったひとつの希望」を結論的に導き出してはいるが、社会のことはさておいて、私個人が社会に毒されないような構えを持っておかなければならない。

と、イロイロ考えてみたところ私が持っておきたい構えとは、

  1. 相性の悪そうな人とは関係性をもたない。相性のよさそうな人、気持ちよくやっていけそうな人たちだけをお相手に仕事をやっていく。
  2. イヤな予感のする仕事は引き受けない。(大抵は予感が的中する)
  3. たとえ仕事を放置してでも、好きな音楽を聴いたり、絶品料理を食べたり、平日に堂々と昼寝していたり、といったゆったりした気分でいられる時間を常に確保する。勿論他人に迷惑をかけない程度で。
  4. 仕事上でおかしいと思ったところは、遠慮なくズケズケと相手に伝える。

とこんな感じかな。(あまり大したことが浮かばずに情けない)

2006/06/11 日曜日

シェーンベルク「浄められた夜」「グレの歌」

Filed under: (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 23:10:51

溜まった感がある疲れを癒す一日。

Schoenberg: Verklœrte Nacht, Pelleas und Melisande / Karajan, Berlin Philharmonic Orchestra Schoenberg: Verklœrte Nacht, Pelleas und Melisande / Karajan, Berlin Philharmonic Orchestra



癒しも兼ねて、まだ聴いていなかったCDのひとつを聴く。
カラヤン指揮ベルリン・フィルのシェーンベルク「浄められた夜(浄夜)」と交響詩「ペレアスとメリザンド」。

とりわけ「浄夜」のほうは有名曲でありながら、ライブ演奏で表現不可能な箇所をミキシング技術によって完璧に表現した名盤中の名盤といわれるもの。
「浄夜」のアルバムを入手しようと思っても、意外なほど少なくて驚かされるのであるが、その中にあってこれだけ完成度の高いアルバムでありながら廉価であるところもうれしい。

この時期のシェーンベルクの作品はまだ12音技法などの前衛音楽へと傾倒していく前の初期作品であり、半音階を多用した複雑な表現が後期ロマン派の作品として傑出した輝きを放っており、私のような素人にはたいへん心地よく聴くことができる。
カラヤンの古典派交響曲はあまり好まないのであるが、近現代曲となると俄然魅力的な演奏となってくるように思う。
このシェーンベルクのアルバムも耽美的な極致みたいなところを、彼の美学が存分に発揮されたものに仕上がっていてとても気に入った。

Schoenberg: Gurrelieder / Simon Rattle, Berliner Philharmoniker Schoenberg: Gurrelieder / Simon Rattle, Berliner Philharmoniker



こちらの「グレの歌」もシェーンベルク初期の代表作なので、私のような者にも愉しみやすい。

サイモン・ラトル指揮で5管編成を超えるベルリン・フィル、それ以外にソプラノ、メゾソプラノ、テノール2人、バスの独唱、ベルリン放送合唱団、ライプツィヒ中部ドイツ放送合唱団、エルンスト・ゼンフ合唱団による300名近い大合唱団といった構成で2001年ベルリン芸術週間に行われたその時の目玉公演のライブ録音である。

私は歌曲を好まないのであるが、大編成化していく中で必然的に合唱や独唱が入ってくる曲に限っては、声楽もひとつの楽器のようにして受け入れられるのであった。

逆にこのような曲を声楽を使わずしてまとめようとすると、マーラーの交響曲第1番やリヒャルト・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「ツァラトゥストラはかく語りき」に見受けられるようなチャラチャラとしていて何とも不自然かつ耳障りな金管楽器による旋律が入ってきたりするものなのだ。

というのは私の偏見であって、この曲は本来的には大編成オケをバックにした歌曲という分類であるのだろう。

「グレの歌」の筋書きは下記のようなもの。

HMV.co.jp - シェーンベルク - グレの歌 ラトル / ベルリン・フィル、ほか
《グレの歌》は、実在のデンマーク国王ヴァルデマール(在位1157-1182年)をめぐる伝説にもとづいています。国王とその愛人トーヴェとの悲しくもグロテスクな物語のあらましは以下の通りです。
この手の寓話に良くあるパターンですが、国王ヴァルデマールには嫉妬深くわがままな妃がおりました。嫌気がさしたヴァルデマールは、トーヴェという美しく気立ての良い女性を愛人とし、グレの地にある狩猟用の城郭で逢瀬を重ねます。
が、ほどなく不倫は妃にも知れるところとなり、やがてトーヴェは妃によって毒殺されてしまうのです。ヴァルデマール王は激昂して神を呪ってしまいそれが 原因で天罰によって命を落とすこととなり、おまけにその魂は昇天することが許されず、大勢の兵士の幽霊を引き連れトーヴェの魂を求めて夜な夜なグレの地を 徘徊することになってしまいます。
時は流れ夏の嵐に替わって実りの秋が到来。収穫の季節にふさわしく農夫も登場し、やがて道化師と語り手も登場して、幽霊たちの壮絶な合唱を交えながら も、二人の魂の救済に向けて盛り上がりをみせます。最後は混成8部合唱による壮大な太陽の賛歌となっており、女声合唱の参加による色彩の変化が、魂の救済 の可能性を暗示しているかのようです。

さて、これだけの超特大編成で徹底的なロマンチシズムに溢れる曲の響きを聴いても、マーラーとは随分違った印象を受ける。

それを喩えて表現するなら、9.11以降の米国のように経済はそれなりにバブリーなところもあり、一見明るく振る舞ってはいるものの、いつどこで起こるかわからないテロの恐怖と、好景気=バブルというものもいつ崩壊するかもしれないという不安定感といった影がのしかかったような暗さを内包しているのだ。

そこがまた何とももの悲しくもこの曲独特の美しさでもある。

かといってラトルはロマンチシズムに陶酔してしまったような演奏にはせずに、緻密に各セクションを構築していったと思わせるようなものに仕上がっているところがよい。

24日には京都市交響楽団による「グレの歌」公演を聴きに行く予定なんだが、特大編成であることはおいといても、この難曲を表現し切ることができるのかどうか、ちょっと心配になってきたところ。
HMVジャパン

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