2006/01/10 火曜日

戦略論の見直し、出版される多数のゴミ書籍

Filed under: 読書 — 咲本 @ 00:33:23

今年に入ってから戦略論の見直し作業を行っている。

気合いをいれてむさぼるがごとく読み直していくと、思いの外次から次へと気づきが得られるものだ。
戦略論の中でもとりわけベンチャー企業を意識した整理をしているところ。

勿論?戦略論といってもポーター万歳!というわけではなく、コンフィギュレーション学派をベースに全ての学派(10の学派?)についてということ。
この研究作業は最低限のキリをつけるだけであと3ヶ月くらいかかるのではないかと見込んでいる。

知り合いの方とお話していた話題の中で出てきたのであるが、最近、本を出版された方や出版予定の方、あるいは熱烈に出版を望まれていたり目標とされている方が多いこと多いこと。

なぜそんなに多いのだろう?

おそらくは自分自身のブランド化といえば一見もっともらしいが、実情は売名行為や銭儲けとしかいえないケースが多々あるのだろう。

私も最近、編著という形で書籍発行に携わったわけだが、これは関西ベンチャー学会という団体内で引き受けざるをえなくなった経緯があってのことであって、上記のような哀しい目的があってのことではない。

もし今後、書籍発行することがある場合には、少なくとも私は下記引用文のような立場でありたい。

結局、陽の目を見たり見なかったりするそれらの「本」のうちで、いったいどれだけのものがその著者の深奥にとって必要なものなのだろうか。出版ブームの中で私はどうも疑問を禁じえないのだ。後世の研究家にとって不便であろうとなかろうと、何も書かなかった大思想家が歴史上無数に存在したことだろう。それは、ただの主婦だったり、売れっ子売春婦だったり、三流剣闘士だったりしたままで黄泉の国へ去った。だから、現世で書いたり語ったりする行為には、他者との交通、すなわちポランニーのいう交換(インターチェンジ)の内的要求があってはじめて出てくるのである。その他者との交通の目的が、売名であったり、学位取得の手段だったりということでは哀しいではないか。
従って、私は、マックス・ウェーバーやマルセル・モースが本を書こうとしなかったこと、カール・ポランニーが『大転換』を書くのに渋りに渋っていたことがよく判る。ポランニーはピーター・ドラッカーの誘いにより食うために本を書かねばならなかったのだが、他方で自ら出版を熱望した『人間の経済』については、途中でタイピストに払う金もなくなってしまうほどだった。

そういえば「哀しい目的」の本をうっかり購入してしまった場合には、それらの本はいつもゴミにしかならないという哀しい結末となっているなあ。

ゴミとは思えない本については折にふれて書いていきたい。

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