2006/01/01 日曜日

バルトークと坂口安吾の美意識

Filed under: 読書, (主にクラシック)音楽 — 咲本 @ 00:57:26

元旦らしく??BGMはバルトーク作曲「管弦楽のための協奏曲」のフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団演奏のもの。(なんでやねん!)

管弦楽のための協奏曲&弦・打・チェレスタの音楽

今までに聴いた回数でははショルティ指揮シカゴ交響楽団のほうが多いのだが、ライナー指揮のほうも素晴らしい。
読みたくなって手にとった本は坂口安吾『堕落論』。

バルトークの音楽には「とも4768」さんの言われるように「土着の民族音楽が少なからず用いられていることで、聴く者に親しみを感じさせてくれます。日本人には、同じウラル・アルタイ民族というハンガリーの東洋的な旋律に共感を覚えます。」

かといって東洋的な旋律だから好きだという意味においてだけではない。
土着の旋律を耳にして感傷にふけったり、懐古趣味であったりするという態度とバルトークとの距離は大きいのだ。

そもそもバルトークが活動していた当時のハンガリーの首都ブダペストから、作曲家としてはコダーイ、経済史・経済人類学のカール・ポランニー、暗黙知理論のマイケル・ポランニー、自然科学ではウィグナー、ノイマン、シラード、精神分析学のローハイム、文学者のルカーチ、ベラ・バラージュ、マンハイム、アディ・エンドレなど、大量の天才を輩出している。

なぜこれほどの数の天才が集中したかというと、当時の政治的状況下から形成されたのであろう共通した思想的基盤といってもよいものがあったと考えられるのだ。
実際彼らは顔見知り同士であった。

栗本氏の研究によれば、

彼らこそが、民族的排外主義に陥らず、民族的伝統を守る途を見出す。それは、特定の民族の伝統や習俗を守ることのみを限定的目標としないところの根本的にリベラルな民族主義である。
こうしたなかで、民族主義がある特定の様式を守るということは、その様式が記号として、その共同体の深層の琴線に触れるということだろう。そして、そのこと自体には、マジャールもルーマニアもザクセンもないのである。共同体の深層の論理への直接的依嘱、そしてその”解放”こそが大切なのだ。排外主義的民族主義に陥ることなく、その方法を見出すこと、それが民族主義を民衆主義に変え、伝統への依拠を進歩的な思想に結びつけていきうる根拠になるものだった。勿論、当時の段階で、このことが言表上明瞭化していたわけではない。(『ブダペスト物語』p.233引用)

つまりバルトークの音楽は、土着の旋律をただ単に取り入れることによって、「伝統を守れ」だの「伝統の中にこそ美がある」と主張するようなものとはまるで違うものとして土着の旋律を多用している。

さて坂口安吾『堕落論』である。
なかでも「日本文化私観」ではブルーノ・タウト的日本の伝統、すなわち桂離宮や竜安寺の石庭などに美しさを感じるのではなく、むしろ小菅刑務所やドライアイスの工場に美しさを感じる美意識を語っている。

安吾はいう。

ただ「必要であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめたところの独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求をはずれ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たあいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。

また「堕落論」では

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

このように安吾は、既存の政治観や道徳観・伝統などにそのまま従うことなく、自分自身のやむにやまれぬ必要性がわかるところにまで「堕ちきる」ことを説いている。

私は『堕落論』を読むにつれ、バルトークの音楽に感じる美意識、ひいてはその背後に広がる1918年前後政治的混乱時におけるブダペストの芸術家や学者とが、奇妙にリンクするのである。

それはなぜか?

再び栗本氏からその答えらしきものを引用してみよう。

近代人は自らの客観価値主義で宗教の権威を否定してしまったこともあって、道徳を最も強く求める。そして、その道徳を不幸なことに「外知」に求めるのである。「民族のために」とか「愛国‥‥‥」とか、「労働者の解放」というのはそれであり、時には率直かつ正鵠を射たスローガン「モラル確立のため」となる。けれども、これらはすべて「外知」であり、決して「内知」即ち暗黙知に基づいていないため、人間にとって本質的なものではない。それゆえ、人間はこの外的に与えられた道徳のために自らに緊張を課した努力を行い、それを信じたふりを自らにも納得させるため「冷酷」にもなれるのである。だから近代社会人は、モラルの確立のためという理由をもつと最も非モラル的になるという逆説的現象が生じる。換言すれば、人間の攻撃性、邪悪性が発揮されるのは、近代ではつねに外的な「道徳」に武装された集団だということである。スターリン主義、ナチズム、帝国主義、いずれもそうである。p.282-283

両者が上記のようには明確に認識してはいなかったのだろうが、内知のところではわかっていたのではなかろうか。

そんなことを考えながら、BGMはコダーイ組曲「ハーリ・ヤーノシュ」ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団に。

コダーイ:ハーリ・ヤーノシュ、プロコフィエフ:キージュ中尉&ストラヴィンスキー:火の鳥

ちなみに、指揮者のフリッツ・ライナー、ゲオルグ・ショルティ、ユージン・オーマンディの3者とも、ハンガリー出身の巨匠であったりする。
HMVジャパン

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